小説などを書いている人の中には
「心の師匠」のような先輩作家を胸に抱いている人は、結構多いんじゃないかな
と思いますが
私が師と仰ぐお方は
国民的大作家吉川英治です。
文豪と呼ばれる人は、たくさんいますけれど
その中で私にとって
一番「しっくり来る」のが
吉川英治なのです。
吉川英治のどこがすごいのかと言えば
まあ、トータルして
全部すごいとしか言いようがないのですが
私が特にすごいと思うのは
作品的にも人格的にも
非常に調和が取れていて
しかも
そのスケールが大変大きな所です。
吉川英治自身の書いた文章や
彼を知る人々の証言から窺える彼の人物像からは
神経質過ぎる 繊細過ぎる 自意識が突出し過ぎる
などというような
芸術家によくありがちなエキセントリックさなどは
ほとんど見えてきません。
吉川英治という人は
かなり一般人の感覚に近いものを持った
至極真っ当な常識人なのです。
特殊な感覚の人が書いた、特殊な物語ではなく
普通の人が
普通の人々に向けて書いた物語。
けれども
その視点は、かなり高い所にあり
ものの見方が大局的で、スケールが非常に大きい。
そんな所に
何十年もの時代を経て、今もなお
吉川作品が多くの人々に共感され
愛読されている理由があるのではないでしょうか。
吉川英治の文章は
詩的で情緒豊かでありながら簡潔。
そして、そこに
鋭い観察眼 深い人生哲学
といったものが織り込まれています。
そのあたりを一番良く表しているのが
「宮本武蔵」の最後を締めくくるこの文章なのではないかと、私は思います。
波騒(なみざい)は世の常である。
波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど、誰か知ろう。百尺下の水の心を、水の深さを。
これほど短い文章の中に
抒情的な詩的感覚
鮮やかな視覚的表現
深い人生観
───などといった要素が
ギュッと凝縮されていることが
おわかりいただけるのではないでしょうか。
吉川英治は
幼少の頃より漢文学や江戸文学に親しみ
小学生時代から俳句を作るようになったといいます。
文士としての始まりは小説家ではなく
簡潔な表現で無限の世界をあらわすという
詩的なセンスが鋭敏に磨き抜かれているのでしょう。
また
幼いころから絵を描くことが得意で
一頃は西洋に輸出する家具の絵付け職人をしていたほどなので
そこに描き出されている情景には
どこか絵画的、映像的な美しさが感じられます。
次にご紹介しますのは
同じく「宮本武蔵」から
山上で、弟子の伊織と武蔵が、夜明けを迎えた場面です。
「あ、日の出!」
指さして武蔵を振り顧った。
「オオ」
武蔵の顔も紅に染まった。
見る限りが、雲の海である。坂東の平野も、甲州、上州の山々も雲の怒涛の中に浮かぶ蓬莱の島々であった。
曙光に映し出された茜色や薄紫色の雲海と、
小島のようにぽっかりと浮かんだ山々の頂が
神々しいまでに再現されて
眼前に浮かびあがってくるような気がします……。
横浜で生まれました。
(本名は英次 ひでつぐ)
父、直広は小田原藩の下級士族
母、いくは佐倉藩の名門士族、山上家出身という
サムライの子です。
父は「一発ドカーンと当ててやる!」という山っ気の強い人で
若いころから色々事業に手を出しては
当たったり外れたりしていたのですが
英治の幼少時代には事業は順風で
英治は何不自由ないお坊ちゃま時代を送っていました。
───ところが。
彼が小学校を卒業しようという直前
父は横浜経済界のドン的存在であったT氏という実業家と大喧嘩をし
その禿げ頭をガツンと殴ってしまいました。
カンカンになって怒ったT氏は
「吉川を横浜にいられなくしてやる!」
と訴訟を起こし
父は有罪判決を下されてしまいました。
そこから吉川家は急転直下
貧乏のどん底まで叩き落されてしまったのです。
以来、英治は小学校を中退させられ
ハンコ屋の小僧にさせられたり
行商して歩いたり ───
果てはまだ子供の英治が
一家(弟妹が多く大家族だった)を養うため
ドック(巨大な船をメンテナンスする所)で
船体にペンキを塗るという
軽業師並みのバランス感覚を要する
危険きわまりない仕事につき
ついには
足場から落下して
意識不明の重体となり
病院に担ぎ込まれる事態となりました。
「もう家族のために犠牲にならなくても良いんだよ。お前は好きなように生きなさい」
最愛の母にそう言われ
19歳の英治は家族を離れ、上京することとなりました。
その後、彼は川柳家井上剣花坊の門人となり、
吉川雉子郎として川柳を詠みながら
工員をしたり、家具の絵付け職人をやったりして
ようやく何とか暮らし向きが安定したところで
家族を呼び寄せ
家長として一家を養いました。
そしてその後、父母の死
一度目の結婚(のちに離婚)
東京毎夕新聞社に入社───と続いたところで
新聞社が消失してしまいました。
この大震災の惨状を目のあたりにし
英治は
「小説家になろう!」
31歳にして
そう決意をするのです。
震災記念日は、僕個人にとれば、文筆生活の記念日だ。
「草思堂随筆」より
───さて
吉川英治の若い頃と言えば
ご覧いただいたように
「苦労」とか「貧乏」とかのエピソードが
大体の所を占めるのですが
吉川英治はただ
「苦労」と「貧乏」だけの人ではありません。
幼少時代は裕福で
かなりのお坊ちゃまでしたし
横浜から上京して一人暮らしを始めてからは
それまでの暗い青春時代の借りを返すように
かなり派手に
遊んでおられたようです。
まさに
酸いも甘いも噛分けた
粋も苦労も知り抜いた
─── そういう人なのです。
こういう土台があるからこそ得られた
深い人生観
人間観
人生哲学なんですねぇ……。
吉川英治は普通一般の人々を
「大衆即大智識」と言って
リスペクトしています。
僕だけの解釈として、僕はこういう持論である。
芸術は、ふたつだ。
個の芸術か、衆の芸術か、小乗か、大乗か、こう二つの道しかない──と。
「草思堂随筆」より
自らが常に普通の人々(大衆)の中にあって
普通の人々に寄り添い
励ますのが吉川英治の文学なのです。
不朽の国民文学は
磨き抜かれた美的感覚や
経験から得られた人生哲学という
広大な山裾を土台として築かれた
富士山頂に輝く白雪です。
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