生きていると
色々理不尽なことや不愉快なことに行き当たったりして
心がザワザワ波立つことが避けられませんよね。
もう、どうしようもない位に腹が立ったときなど
その怒りの勢いで
ついつい人にキツい事を言ってしまったり
とんでもなく乱暴な事をやってしまったりして
後で後悔したりするのですが ───
江戸時代初期の剣の達人で
秀忠、家光と二代にわたり徳川将軍家兵法指南役を勤めた
柳生宗矩(1571-1646)は
その著書
「兵法家伝書(へいほうかでんしょ)」(1632年著)の中で
喜怒哀楽の感情に踊らされるのは
実に良くないことである。
と語っております。
そこで今回は
柳生宗矩がそれについて語っているくだりをご紹介しようと思います。
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心というものは
人間にとっての
主体である。
舞を舞う時には舞の主体
能を演ずれば能の主体
兵法を使えば兵法の主体
鉄砲を撃てば鉄砲の主体
弓を射れば弓の主体
そして
馬に乗れば
馬の主体となるものである。
もし
この主体が
邪(よこしま)であったとすれば
馬にも乗られず
弓も当たらず
鉄砲も外れるに違いない。
だが、邪心を捨て
心を正位置に据えることが出来れば
様々な道が
自由にできるようになるのである。
私欲に覆われないこの心を見つけ
悟り
明らかにする。
それが大切である。
世の中には
「私は自分の心を良く分かっているし
心のコントロールはうまくいってます」
という人もいるけれど
自分の心をしっかり把握している人など
実際の所は極めて稀である。
その人が自分の心を把握していない証拠は
必ずその身に現れて来る。
見る人が見ればすぐにわかるものだ。
もし本当に
自分の心がわかっているのであれば
その行いは偏りがなく
真っすぐで
自然なものであるはず。
それがもし
そうでない───とするならば
それは
「心のわかっている人」とは言い難い。
偏りのない真っすぐな心。
これを
本心(本然の心)
または道心と言う。
曲がり汚れた心は
妄心(迷妄の心)と言い
または人心とも言う。
心こそ
心迷わす心なれ
心に心
心許すな
(妄心こそが本心を迷わすものである
本心よ、妄心に本心を許してはならないぞ)
という和歌があるが
この歌は
真(まこと)と妄(みだり)の事をうたっている。
心には本心と妄心との二つがあるのだ。
本心を得て
本心の様にすれば
一切の事はすんなりとうまくいく。
けれども
本心が妄心に覆われ
曲がり汚れてしまえば
やること全てが
曲がり汚れてしまう。
本心と妄心とは
黒いものと白いもののように
それぞれ別々にあるものではない。
本心と言うのは
真我の我なのである。
それは
父母から生まれる以前からずっと備わっていて
形のないものであるため
生まれることも無ければ
滅びることも無い。
身体というものは確かに
父母から生まれたものではあるが
心は形のないものなので
これは、父母から生まれたものとは言い難い。
つまり
心とは
人が生まれた時から
自然とこの身に備わっているものなのである。
その心の働きのうちでも
妄心と言うものは
血気(激しやすい心)であり
私(わたくし)の心である。
血が動いて上にあがり
顔色が変わって怒りが表出する。
たとえば
自分が愛している人を他人が憎んだりすれば
その人の事を
怒ってみたり、恨んでみたりする。
あるいは
自分が憎んでいる人を同じように他人が憎めば
今度は悦んでみたりする。
このように
たとえ間違っている事だとしても
感情次第で
判断を捻じ曲げ
正しいとしてしまうところがある。
人が金銀をくれたりすれば
それを貰って喜び
顔には笑みが浮かんで
血色が良くなったりする。
そんな時にもまた
間違ったことを
正しいことであると
判断してしまう。
これらは皆
血気が体の中から湧き出た結果の心 ───
これこそを
妄心と呼ぶ。
ひとたび
この妄心がわき起こると
本心は隠れてほとんどが妄心となり
全て悪い事ばかりが現れてしまう
事態となる。
そのため
物事の道理をわきまえた人は
本心に基づき
妄心を薄くするから
行いも正しく
一方
道理をわきまえていない人は
本心が隠れ
妄心ばかりが盛んであるために、
間違いばかり犯し
行いがねじ曲がり
結果
汚れた評判を取ることになってしまうのである。
妄心をもって行えば
何をしても邪(よこしま)になってしまう。
もしこの
邪の心が出たとしたら
兵法も負ける。
弓も当たらない。
鉄砲も外れるに違いない。
能も舞も見苦しいだろうし
言う事は間違える。
全て皆
うまくいかないに違いない。
一方
心が本心に叶っていれば
何事もみな
上手くいくはず
なのである。
偽りごとをしながら
「偽っていない」
などと言う人は
そのこと自体がすでに妄心であるために
その偽りはすぐに露見してしまうものである。
心が真実のものであれば
理屈でああだこうだ言わずとも
人にはやがてわかるもの。
本心には理屈など必要ない。
妄心というのは心の病である。
本心こそが健康な心。
偏りがなく真っすぐ自然な心
本心を保ち続ける事ができれば
兵法に関しては
名人になる事であろう。
ありとあらゆる事は
一つもこの道理から外れることは無い。
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この話は
彼が柳生新陰流の極意をしたためた
「兵法家伝書」の
「活人剣 下」
という所に書かれています。
道徳面からの話ではなく
兵法の奥儀の話としてこういう事が語られている所が、実に興味深くありませんか?
感情に負けずニュートラルな気持ちでいることが大切
という事もさることながら
「正しい心は良い。邪な心は駄目だ」
という事を
ズバッと断言してくれているところに
私は大変な清々しさと心強さを感じました。
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