江戸時代の中頃
根岸鎮衛(ねぎしやすもり)
という旗本がいました。
天保から文化まで
33年もの月日をかけて
知人や古老などから巷に伝わる話を聴き取り
それを
「耳嚢」(みみぶくろ)という書物にまとめあげました。
先日私は
そこから怪異譚だけをピックアップした
「耳袋の怪」という
角川ソフィア文庫から出ている本を読んだのですが
───焼けつくような猛暑が続く今日この頃。
怪談話なぞで
いくらか涼しさを得られたら……
と思いまして
ここから、お話を一つ
ご紹介しようと思います。
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「菊虫の話」
寛永七年(1795年)
摂津は岸和田にある侍屋敷の古井戸から
怪しい虫が
大量発生したことがあった。
それを捕まえてみると
玉虫か黄金虫のような形をしておって
虫眼鏡を使ってよくよく観察してみると
なんと……
後ろ手に縛られた
女の形をしていたという。
摂津から江戸にやって来た
その虫を一つ二つ懐に入れてきて
知人に見せていたのを
わし(根岸鎮衛)の所に来た人も
「たしかに見た」
と言っておる。
津富という宗匠も
一つ貰ってしまって置き
翌年の春
人に見せようとして出した所
蝶になって飛んで行ってしまったということだ……。
さて
この虫についてなのだが
実は
元禄(1688-1704)の頃
青山播磨守が尼崎城にいた当時
その家臣に
喜多玄蕃という者がいた。
玄蕃は、お菊という下女に目をかけて
召し使っていたのだが
これに妻が激しく嫉妬をした。
妻はお菊を陥れるため
飯椀の中にこっそりと
針を仕込み入れ
お菊に
これを配膳させた。
食事時。
針に気づき
玄蕃は激怒した。
そこに妻が
「それはお菊の仕業でございます」
と讒言をした。
可愛さ余って憎さ百倍!!
玄蕃は菊を縛り
古井戸に逆落としに投げ入れ
殺してしまった。
それを知った菊の母は
後を追うようにして
古井戸に身を投げ
死んでしまった……。
その後しばらくして
玄蕃の家は
断絶してしまったという事だ。
年月が経ち
領主も変わったが
古井戸から虫が出てきたのは
お菊が死んで百年目の事。
いまだに残る
お菊の怨念が
虫に変じたのだろうか……。
という浄瑠璃の話は
この話がもとになっていると
この話を語った人が言っていた。
(完)
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なんと
「いちま~い、にま~い……」の
あの怪談の元ネタが
こんな話だったとは……。
井戸から虫が大量発生したこと
それが女の人の形をしていたこと
それらの話が近い過去にあった
事実であるとして語られている所が
一層気持ち悪いですね……。
さて
この「耳袋」では
お菊虫は
玉虫や黄金虫のような虫
とされているのですが
文久2(1862)年に刊行された
暁鐘成の「雲錦随筆」では
その正体は「蛹」であるとされ
精緻な絵も描かれているそうで
ジャコウアゲハという
蝶の蛹なのではないか?
という説が現在では有力なようです。
ただし
「雲錦随筆」が刊行されたのは
お菊虫が大量発生した1792年から
70年も後のことですが
根岸鎮衛(1737-1815)がこの事件を耳にしたのは
55歳の時で
菊虫大量発生事件を
リアルタイムで経験していますので
ここで語られているように
甲虫である可能性も
あながち
なきにしもあらずかと思います。
人の強い怨念が他の生物の上に形となって現れるというのは
壇ノ浦に沈んだ平家の人たちの顔が
甲羅に浮かび上がっているという
平家蟹を思わせますね……。
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