TODAWARABLOG

戸田蕨です。小説書いてます。よろしくお願いします。

「メスキータ回顧展」に行ってきました~エッシャーとの師弟愛に思わず胸が熱くなる!

東京ステーションギャラリーで開催していた

「メスキータ回顧展」に行ってきました。

 

f:id:TODAWARA:20190815154801j:plain

赤煉瓦の中にある美術館

サミュエル・イェスルン・デ・メスキータ(1868-1944)

 

19世紀末から20世紀前半にかけて活躍した

オランダの芸術家(画家、版画家)です。

 

f:id:TODAWARA:20190815155123j:plain

「マントを着たヤープ」(メスキータの一人息子)

 

近年、ヨーロッパで再評価の機運が高まりつつあるという彼ですが

日本ではまだあまり知られていません。

(私も知りませんでした)

 

けれども

 

だまし絵で良く知られた

M.C.エッシャー

恩師かつ親友

と聞けば

 

「おっ!?」

 

と思われる方も多いのではないのでしょうか。

 

エッシャーが命懸けで守った男」

という謳い文句が付けられたこの展覧会は

 

メスキータの没後75年

日本で初めて開催された回顧展

だということです。

 

 

1868年 6月6日

 

メスキータはオランダのアムステルダム

ポルトガルユダヤの両親のもとに生まれます。

 

14歳にして、初めてモデルを使ったドローイングを描き始め

 

1887年 19歳初等教育の描画教師の資格を取得。

 

1893年 25歳の時

 

10歳年上の友人マウリッツ・ファン・デア・ファルクから

エッチング(銅板に絵を描く版画術)を教わり

 

ここから版画制作に打ち込み始めます。

 

1902年 34歳でハールレムにある応用美術学校に教員としての職を得た彼は

 

以後四半世紀にわたりこの学校に勤務し続け

週に2回、学生たちの指導に当たりました。

 

f:id:TODAWARA:20190815170927j:plain

 

ここで彼は

教え子となるM.C.エッシャー

運命の出会いをするのです。

 

先生としてのメスキータは

 

教え子たちを感化して自分の一派を作ろう

─── なんてことは全く考えず

 

教え子たちのそれぞれが

自分なりの様式を見出せるように

と支援しました。

 

そのうち何人かの教え子とは

 

師弟の関係を飛び越えて

対等な芸術家同志として認め合い

 

親友のような間柄になりました。

 

 

エッシャーはそのような

親友のうちの一人なのです。

 

 

彼はメスキータの先生ぶりについて

このように語っています。

 

彼の作品はひと握りの人々にしか評価されず、広く理解されないところがある。

メスキータは常に我が道を行き、頑固で率直だった。

他の人々からの影響はあまり受けなかったが、自分では若い人たち、とくに学生たちに与えていた。

学生たちが猿真似をしたとき--それはよく起きたことなのだが--メスキータはしばしば不機嫌になった。

とはいえ彼の影響を受けた学生たちの大半は、遅かれ早かれ、その影響から抜け出した。

というわけで彼はひとつの流派を作らなかったし、そのことによって、メスキータの孤独で強烈なパーソナリティはさらに魅力的なものになっていく。

 

 

「メスキータ展図禄」より 

「M.C.エッシャーの語るサミュエル・イェスルン・デ・メスキータ」

 

 

 エッシャー

特に印象に残っているエピソードとして語っているのが

シマウマの話です。

 

メスキータ先生は

もともとくっきりと白と黒とに分けられているような自然界のモチーフを

木版画の題材とする事には反対していたようで

 

 

「シマウマっていうのは生きている木版画みたいなものなんだ。

だから、そのシマウマをもう一度木版にするなんて事は、自制しなくちゃいけないよ」

 

と語っていたそうです。

 

ところが

後になってわかった事なのですが。

 

f:id:TODAWARA:20190815143338j:plain

むしゃむしゃ。

 

メスキータ先生

 

シマウマを題材に

版画つくってたー!!

 

これを知った時には

 

エッシャーもさすがにビックリ

してしまったそうです。

 

f:id:TODAWARA:20190815211123j:plain

「なんやねん!先生!」

 

 

1926年 58歳の時

 

応用美術学校が閉校してしまったため

 

メスキータは教職を離れ芸術一本の生活に入ります。

 

─── が再び

 

1933年~36年

65~68歳の間

 

アムステルダム国立美術アカデミーで版画を教えることになります。

 

この学校は、奇しくも彼が14歳の時に

入学試験で不合格となった学校だったりします。

 

何だか不思議なめぐりあわせですね。

 

 

1938年 70歳の誕生日

各方面からたくさんの人達が

祝ってくれました。

 

 

f:id:TODAWARA:20190815162659j:plain

「歌う女」



こんな風に

 

幸せに送られてきた彼の人生です。

 

しかし

 

晩年に至って

 

思いもかけない

暗雲に包まれ始めます……。

 

f:id:TODAWARA:20190815171229j:plain

 

1941年 73歳の時

 

ナチス率いるドイツ軍が

オランダを占領してしまいました。

 

すでに高齢なメスキータは

健康状態が悪化したため

 

リネウスカーデにある自宅に引きこもったような状態を余儀なくされました。

 

至る所でユダヤ人狩りが行われる不穏な時世……

 

友人知人たちは一家に潜伏を勧めたのですが

メスキータ一家はどういうわけか

自分たちポルトガル系(セファルディム)ユダヤ人は

強制移送をまぬかれる

─── などと誤解していたために

 

そのままそこに住み続けていたのでした。

 

……やがて 

 

自宅を訪ねる人はほとんどいなくなり……

 

ただ

 

エッシャーとの交流だけが細々と保たれていたそうです。

 

1944年 1月31日から2月1日にかけての夜間

 

メスキータ、息子のヤープの3人は

 

ついにナチスによって

自宅から拘引されてしまいました。

 

 

メスキータと妻のエリザベトは

それからわずか10日後の2月11日

 

連行された

アウシュヴィッツ

命を落としてしまいました……。

 

 

テレジーエンシュタットに送られたヤープ

両親の後を追うように

 

3月30日

39歳の若さで亡くなってしまいます。

 

f:id:TODAWARA:20190815171554j:plain

 

一家の悲劇を知らなかったエッシャー

 

2月の半ばにリネウスカーデを訪ね

 

恩師の家が無秩序のまま打ち捨てられているのを見て愕然とします。

 

「先生の作品を守らなくては!」

 

─── そう思った彼は、アトリエから200点の作品を持ち帰りました。

 

さらに多くの作品を救い出そうと彼が引き返した所

 

すでに家には

鍵がかけられてしまっていました……。

 

 

エッシャーが来る以前に

 

ヤープの友人達も多くの作品を救い出していてくれたのですが

 

その後

メスキータの家は空っぽにされ

 

家財道具も、アトリエにあったものも

みんな道端に放り出されてしまったそうです。

 

 

f:id:TODAWARA:20190815172533j:plain

 

終戦直後の1946年、そして1968年にも

 

「先生の名前と業績を埋もれさせてはならない!」

 

と強く思うエッシャー

 

「メスキータ展」を開催する事に尽力しました。

 

 

別離の直前の恩師について

エッシャーはこう語っています。

 

1943年から1944年1月までの最後の数か月に、メスキータのもとを訪れた者は、

その豊かで実り多き人生が終わりに向かっていることを意識し、彼の心のこもった握手と、

「ではまた」ではなく

「(永遠の)さよなら」を伝える親しげな深いまなざしを、

感動と共に思い出す。

そんなふうにメスキータと別れの挨拶を交わしていたことが、

私たちには少なくとも慰めとして残っている。

 

 

「メスキータ展図禄」より 
「M.C.エッシャーの語るサミュエル・イェスルン・デ・メスキータ」

 

 

 

f:id:TODAWARA:20200116202846j:plain

 

 

 

関連記事のご案内

 

 

日本絵画史を飾る「奇想の絵師たち」のご紹介

todawara.hatenablog.com

 

オスカー・ココシュカとアルマ・マーラーの愛憎劇

todawara.hatenablog.com

 

 

 

 こちらは私の小説です。よろしくおねがいいたします。

 

台風スウェル

台風スウェル

 

 

 

f:id:TODAWARA:20200719163007j:plain