今回は
鎌倉時代後期の弘安3年(1280年)ごろに成立したと考えられている
阿仏尼の
「十六夜(いざよい)日記」
をご紹介いたします。
この日記が書かれた背景を一口で申しますと
歌道の大家亡き後に勃発した
嫡男VS側室(年少の息子の代理)
の
相続争いという事になります。
この日記の筆者である阿仏尼という人は
桓武平氏の流れを汲む奥山度繁の養女(実子という説もあり)で
かつて安嘉門院(後高倉院の娘・邦子内親王)の元で宮仕えをしていたハイティーンの頃
貴公子相手に激しい恋に落ち
その人に裏切られたショックで、雨降る夜中に家出をして
出家までしてしまった
という過去があります。
そして
その悲しい思い出を
「うたたねの記」
という物語にして書き記したりしているという
情熱的
かつ
行動力バツグンの才女です。
そんな彼女が
歌道宗家の当主である
の助手のような事をしているうちに
いつしか側室として迎えられ
(為家が55歳くらい、阿仏が31歳くらいの時)
3人の男の子
定覚(じょうがく)、為相(ためすけ)、為守(ためもり)を生みました。
ところが
為家にはすでに本妻との間に
為氏(ためうじ)という立派な長男がいて
歌道宗家は彼が継ぐことに決まっています。
才女として歌壇における存在感を増してきた阿仏は
やがて
この為氏と激しく衝突することになるのです。
当主為家は
もともと長男為氏に譲ってあった領地
播磨の国の細川の庄を
彼から取り上げ
阿仏との間に出来た子供
為相に与えてしまいました。
が
為家が77歳で死去した後
長男為氏は
これを奪い返してしまいます。
「ちょっと、そんなの酷くない!?」
我が子が可愛い阿仏尼にとっては、到底納得いきません。
彼女の子供の為相は当時まだ17歳
弟の為守も15歳という幼さ ────
「こうなったら裁判で白黒つけてやろうじゃありませんか!」
そう決心した阿仏尼(すでに60歳近く)は
幕府に訴え出るために
京の都を後にして
はるばる鎌倉を目指し旅立ったのです。
「十六夜日記」という題名は
彼女の旅立ちの日が10月16日であったことと
序章にしたためてある
「いさよふ月に さそはれ いでなんとぞ 思ひなりぬる」という文から
後世、他の誰かがつけたものではないか
と考えられているらしいのですが
風流で美しい題名のわりには
ドロドロとした御家騒動的な事情があったりして
雅やかな風流と世知辛い現実とが絡み合った内容になっています。
日記の冒頭には
「亡き夫が私に遺してくれた細川の土地が奪われてしまいました。酷すぎると思いません!?こうなったらもう、裁判しかないと思うの。私、これから鎌倉に旅立ちます!」
という決意や
子供たちを都に残して旅立つまでが書かれ
それから
京都から鎌倉まで
歌を詠みながら旅していく道中の記述があり
やがて鎌倉に到着してからは
都の親しい人々との風流な手紙や歌などのやりとりなどがあって
穏やかそうな手紙のやり取りの記述ばかりが続くので
「あれれ?裁判の方はどうなったの?」
と、こちらが疑問に思っていると
最終章になって
いきなり
長~い長~い歌で
「もう四年も経ったのに、裁判の方は何の進展もないんですけど!
正義の心があるのなら良い判決をお願いしますよ!」
と幕府の人に対して訴えかけのメッセージが詠われ
この日記はシメとなっています。
まだ年少の子供たちを
何としてでも守ってあげなければ。
そんな風に思う阿仏尼の母心は
いじらしくて応援してあげたくなるのですが
彼女が敵対している為氏が
そんなに極悪非道の人なのか?というと……
どっこい
藤原為氏という人は
亀山上皇の信任篤く、廷臣として非常に有能
その歌風はというと平明にして優艶だそうで ────
あれれ?
と思ってしまいますね。
まあ
こういう事って
当事者にしかわからない色んな感情があるんでしょうから
どっちが正しいかなんて第三者には
ちょっとわかりませんよねえ……。
ところで
気になる裁判の行方なのですが
阿仏尼が生きている間には
残念ながら白黒はつけられませんでした……。
けれども
「十六夜日記」中ではまだ少年だった
為相が
やがて大人になってから
ひんぱんに鎌倉に赴いて頑張って
最終的には目出度く勝訴したという事です。
異母兄弟によるこの争いにより
歌道の藤原家は
本流を継いだ為氏の二条家に対抗するように
彼と折り合いの悪かった弟の為教(ためのり)は京極家を興し
阿仏尼の息子たちの為相、為守兄弟は
冷泉家を興すことになったのでした。
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