先週末、横浜市内にある
直木三十五の住居跡とお墓のある長昌寺
をたずねてきました。
直木三十五といえば
芥川賞と並ぶ小説界のビッグタイトル
直木賞の由来となっている
戦前の人気小説家であり
私が尊敬している吉川英治とも
同じ大衆小説家同士として
盟友的な友情で繋がっていた人でもあります。
直木三十五 年譜
1891(明治24)年
大阪の古物商の長男としてうまれる。
本名は植村宗一
(ちなみに吉川英治より2学年、芥川龍之介より1学年上と、ほぼ同年輩)
幼時は内気な少年だったらしい。
しかし
小学校での成績は抜群!
1906(明治39)年 15歳
市岡中学に入学。読書趣味が生じ哲学を好む。
1910(明治43)年 19歳
中学を卒業した後、医院の薬局に半年勤務し、その後、奈良の小学校の代用教員になる。
この年に伴侶となる仏子須磨子と出会う。
1911(明治44)年 20歳
二学期から月謝を倹約するために高等師範部に転籍。
大阪から須磨子が上京し、同棲生活を始める❤
が
学費を生活費に回したため月謝が払えなくなり学校を除名されてしまう。
それでも
登校をし続け(教員も同級生も黙認)
卒業記念写真にもしっかり参加する。
(息子が退学された事を知らず、卒業を楽しみにしていた両親を安心させるため)。
1915(大正4)年24歳~1921(大正10)年30歳
娘と息子が生まれるも
直木が興した出版社はすぐに潰れ、雑誌を出してはすぐに廃刊……
という状態を繰り返し
一家の生活は困窮を極める。
1922(大正11)年31歳
直木の生活の余りの貧窮状態を見るに見かねた早大の先輩、三上於菟吉が、彼を助けるために出版社を興してくれた。
この年、直木は「時事新報」に月評を執筆し始める。
この時から直木三十一というペンネームを使い始める。
★ペンネームの由来★
植村の「植」を分割して「直木」
年齢が31歳だから三十一。
それから年ごとに三十二、三十三と名乗ったが
三十四を飛ばして三十五になった時、数を増やしていくのをやめにした。
1923(大正12)年32歳
この雑誌は他誌に比べて破格的に安かったということもあり大いに売れた。
これに直木は毎号のようにゴシップ記事を書いた。
三十一時代には、創刊当時の文藝春秋に辛辣な、あるいは軽妙な匿名記事を書き、文壇人を喜ばせたり怒らせたりして、毎号同誌の名物となったことは有名である。
出典:河出書房
「カラー版・国民の文学3巻 直木三十五」月報より
この年に起こった関東大震災により、三上於菟吉が作ってくれた出版社は潰れてしまった。
直木は大阪に戻りプラトン社に入社する。
1924(大正13)年33歳
プラトン社から雑誌「苦楽」を創刊。
直木はそれに「心中雲母坂」を始めとして毎号大衆小説を発表。
また「文藝春秋」の方にも執筆する。
1925(大正14)年34歳
以後映画を作っては
成功したり失敗したりする。
1927(昭和2)年36歳
連合映画芸術協会は解散
(妻子ある人気スター月形龍之介とマキノの娘で女優でもある輝子との不倫恋愛事件がきっかけだったらしい)
映画界に疲れた直木は上京し、文学に専心することに決めた。
しかし直木家の窮乏生活は続く。
1930(昭和5)年39歳
長編時代小説
「南国太平記」が大ヒット!
一躍流行作家になる!!
1934年(昭和9)年 43歳
2月9日 脊椎カリエスのために帝大整形外科に入院
14日 脳膜炎に寄り呉内科に移る。
24日 結核性脳膜炎で死去。
こちらのお寺では毎年
直木三十五の命日2月24日前後の休日に
彼の代表作「南国太平記」にちなんで
「南国忌」が執り行われているそうです。
直木三十五のお墓の隣に
「翔んでる警視」シリーズで知られる
胡桃沢耕史さんのお墓が並んでいました。
長昌寺から出て道路を渡った先(徒歩5分くらい)に
直木三十五が当初葬られていた慶珊寺があります。
永井龍男によると
常に大衆文芸の第一線にいて
非常に派手な存在だったそうです。
けれども物静かで
その人柄はこんな感じだったそう。
痩身長躯、面ながで額が禿げ上り、初めてこの人を傍見した折り、私は芥川龍之介と見間違ったことがある。
いつも無帽で和服の着流し、厳寒にも外套やシャツ類は身に着けなかった。
口数のいたって少い人だったが、相手に窮屈な思いはさせなかった。
笑う時も声を立てず、あまりおかしいと涙を浮べるほどに笑った。
無口で、原稿に書く文字も非常に小さく細かったそうですが
肝は太く、その頃しきりに横行していた暴力団やヤクザに対しても
いささかも動じる気配がなかったそうです。
小説に専念する前、出版その他の事業に手を出してことごとく失敗、
八方から負債の取り立てにあったが、いよいよドタン場に追い詰められた折り、数名の債権者に散々しゃべらせた挙句に、
懐手をしたまま
「金は一文もない」
と、後にも先きにもたった一言いった切りだったので、みんな拍子抜けして帰ってしまったという逸話があるが、
別にその場で芝居をした訳ではなく、生来それほど無口な性質だったに違いない。
口さがない連中は、
「直木は女をくどく時どうするのか」
と、よくかげ口をいった。
この邸宅はずっと借家暮らしをしていた直木が
生涯で唯一
自ら設計したものだそうです。
長い貧乏生活の果てにようやく流行作家となり
いよいよ
自分の城を自分の好きなように建てるんだ!
と夢がいっぱいだったのでしょうね。
昭和7年に上棟したこの家は
こだわりにこだわり抜き
昭和8年にようやく完成したのですが
病におかされた直木は待望の新居に
ひと月も暮らす事が出来ず
翌昭和9年2月に亡くなってしまったのでした。
享年43歳。
いよいよこれから、という時に
あまりにも若すぎる死です……。
坂の上にあるこの場所からは
かつては慶珊寺の茅葺屋根越しに青い海が広がり
天気の良い日には遠く房総半島までが一望できたため
直木はその景色を愛し
ここに家を建てたのだそうです。
場所
徒歩15分ほど
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こちらは私の小説です。よろしくお願いいたします。