明治時代の大ベストセラー小説として、幾度となく舞台化、映画化されてきた、切ない悲恋の物語
徳冨蘆花(1868-1927)の
「不如帰」(ほととぎす)
先日それを読み、案の定
「浪子さん、可哀想だぁ……」(´;ω;`)
と、泣かされてしまった私は
2020年3月12日
「不如帰」の聖地巡礼
をするべく
逗子に向かったのでした。
逗子は
薄幸のヒロイン浪子が
結核を病んで療養する場所
という事で
作中の印象的な場面の多くが、この地を舞台にしているのです。
「不如帰」の聖地、逗子の
浪子に対する愛は、時代が明治から令和に移ろうとも、いささかも衰えてはおりません。
それは、京急「逗子葉山駅」の改札を出るやいなや
いきなりこんな形で出現するのでありました。
調べてみましたら
こちらは元々「浪子そば」だったのが
一時期京急グループの立ち食い蕎麦屋である「えきめんや」になったものの
そこから離脱して再び「浪子そば」に戻ったんだそうですよ。
逗子と言えば
「不如帰」!
「不如帰」と言えば
「浪子」!
やっぱり、逗子と浪子は切っても切れない仲なんですねぇ。
ちなみに、今、ここを経営しているのは
逗子のソフトクリーム屋さん「モーモーズ」なんだそうですよ。
(モーモーズのソフトクリーム、美味しいです!)
京浜急行の駅の裏手には、田越川という清流が逗子湾に向かって流れております。
駅裏から、この川沿いの遊歩道を海に向かって歩いて行くと(川の右手の方の道です)、途中に
徳富蘇峰と蘆花の兄弟を顕彰している碑を発見いたしました!
徳富蘇峰(1863-1957 蘆花の兄 ジャーナリスト、評論家、政治家)のお孫さんである徳富太三郎さんが
平成20年に建てた、と書いてあります。
逗子には今も、徳富家ゆかりの方々が多くお住いのようですよ。
石碑に刻まれている
「俺の恋人誰かと思う 神の造りた日本国」
という言葉は
蘇峰が好きだった都々逸なんだそうです。
小さい橋を渡り
「田越橋」の信号で県道を横断し
田越川沿いの道を海の方へ進んで行きます。
余談になりますが
この通り沿いにある
「Beach Muffin」というカフェは
古い住宅を改造していて、ぱっと見、小さく見えるんですけど
中に入って見ると奥行きは意外に広くて
アンティークな家具がおしゃれで、とても素敵なお店なんですよ♪
富士見橋のあたりまで来ると
海は、もうすぐそこという感じになります。
橋の向こうに見えるのは渚マリーナ。
海ではなく、川に面しているマリーナです。
青空に映えるクルーザーの白い船体が、リゾート気分を盛り上げますね~。
富士見橋を過ぎてすぐの所に
「蘆花・独歩ゆかりの地」の碑が立っています。
この場所にはかつて
柳屋という旅館がありました。
国木田独歩夫妻は
1895(明治28)年11月から4か月
そして
徳冨蘆花夫妻はその翌年から4年間
柳屋に間借りして暮らしていました。
蘆花がここに逗留中、たまたま同宿した福家安子(大山大将の副官、福家中佐の未亡人)が話して聞かせてくれた
陸軍大将大山巌の娘、信子にまつわる可哀想な実話に着想を得て
蘆花の小説デビュー作にして大出世作となる
「不如帰」がうまれました。
時に1898(明治31)年、徳冨蘆花30歳。
その話と言うのは
陸軍大将大山巌の長女、信子嬢が子爵の三島彌太郎氏に嫁ぎ、相思相愛の幸せな新婚生活を送っていたものの
間もなくして信子嬢が、当時死の伝染病と恐れられていた肺結核に罹ってしまったことから、無理やり引き裂かれるようにして離縁される事となってしまい、
「もう、二度と女なんかに生まれはしない」
と嘆きながら、わずか20歳の若さで病死してしまった
という内容でした。
「これは小説になるぞ!」
そう確信した蘆花はそれを
大山大将→片岡中将
その令嬢信子→浪子
三島彌太郎子爵→海軍少尉の川島武男男爵
という風に変え、
愛し合っている新婚夫婦が、不治の伝染病と
「家の血筋を断絶させてはならない」
という家族制度のために
無理やり引き離されてしまった
という
悲劇的ラブロマンス小説に作り上げたのでした。
これを、兄蘇峰が主宰している国民新聞で11月から翌年5月まで連載。
1900(明治33)年に本として出版します。
蘆花の「不如帰」は、同時期に読売新聞紙上で連載されていた尾崎紅葉の「金色夜叉」と並んで大反響を呼びました。
ただし、ここには少し困った問題も…………
というのも
なまじ実話をベースにしていただけに
作中で悪役にされてしまった継母のモデル大山捨松や
姑のモデルになった三島和歌子といった人々に
どエライ迷惑を掛けてしまっていたんです。
大山捨松さんは冷たいどころか、むしろ優しい継母だったようですし
三島和歌子さんも、鹿児島弁で喋るせいでキツイ人のように誤解されがちだったけれども、曲がった事の嫌いな、良い性格の人だったそうです。
蘆花は1919(大正8)年に
「不如帰の真相」という文章を発表し
継母と姑を悪く描いたのは、小説のためのフィクションですよ
という事を世間に明かしたのですが
大山捨松さんはその年に亡くなってしまっていたので
一生誤解されたままだったんですよね……
蘆花さ~ん、フォローするの遅すぎますよ……。
(三島和歌子さんの死去は、それから5年後の1924年大正13年です)
ちなみに
「不如帰」誕生の地となった柳屋の建物は
1954(昭和29)年に焼失してしまっています。
そこからまた少しだけ歩き
「レッドロブスター」が見えてくるあたりから、左手の小道を曲がって進むと
「蘆花記念公園」に行き当たります。
こちらは
昭和59年4月に、逗子市の市制30周年を記念して設けられた公園です。
公園内は、桜山の山道を歩く散策路がメインになっています。
この日は公園の入り口にある桜の花が花盛りでした。
郷土資料館の建物は、1912(大正元)年に横浜の実業家の別邸として建てられ
1917(大正6)年から徳川第16代当主、徳川家達の別邸として使われていたものです。
こちらには、逗子ゆかりの文学作品に関する展示の他、市内で使われていた調度品などの民俗資料や、市内の遺跡から出土した資料などが展示されていました
が…………
残念ながら諸事情により
現在は見る事が出来ない状態になっているようです。
地面が椿の花びらで一面、赤く彩られていました。
ちなみに、
「逗子市の木」は「椿」だそうです。
資料館までの道を上っていきます。清々しい、山の散策路です。
まだ3月だというのに、初夏の花シャガがもう咲いていました。
逗子はやっぱり、暖かいんですね。
逗子市の花はホトトギスだそうです。
これもやっぱり「不如帰」にちなんでいるんでしょうね。
こちらも公園と同じく
昭和59年に市制30周年を記念して制定されたらしいです。
花びらにある斑点が、鳥のホトトギスの胸の斑点に似ている所から、この名が付けられたそうです。
山地や崖などに生えている多年草で、花が咲くのは10月頃。
ということで
今回は花が見られなかったのですが
ちなみに、このような花が咲くそうです。
郷土資料館に到着。
残念ながらこちらの建物は
財政的事情により2018年から休館しています。
建物の維持管理のために定期的に風入れをしているとのことで、この日も風入れ中でした。
逗子市のホームページによりますと
建物の構造上の制約から、文化財の収蔵展示施設として使い続けるのは難しいらしく
今後は別の使い道が検討されているのだそうです。
資料館の前庭からは
逗子湾が一望に見晴らせます。
蘆花記念公園を後にして
お次は、海の方へと向かいます。
レッドロブスターまで来ると、もう海は目前です。
渚橋の信号を渡って逗子海岸に向かいます。
ちなみに、ここの交差点の森戸海岸線から葉山寄りにある
「なぎさ橋珈琲」は私のお気に入り。(^^)
これは田越川が
いよいよ逗子湾に合流するところ。
この時間は引き潮で、浅瀬が奥の方まで続いていました。
おだやかな逗子の海。
風があまり無かったので、この日はウィンドサーフィンは少なめでした。
波打ち際には小さな貝殻がいっぱいで
よーく探してみると桜貝を見つける事ができます。
桜貝は、半分透けているくらいに、とーっても薄いので
すぐに壊れてしまいます。
風に散る桜の花みたいに
可憐で儚い貝殻です。
「不如帰」の中では
結核に侵され、そのために離縁され、心身共にダメージを受け、痩せ細ってしまった浪子がこの浜辺を歩く場面が何度か出てきます。
道路の方を振り返って見ると。
国道134号線沿いには
オシャレなレストランやカフェがあります。
右手の黄色っぽい建物はイタリアンレストランの
「カンティーナ」
こちらも私の大好きなお店です。
お次は浪子不動に向かうべく
海岸から国道134に出ていきます。
逗子海岸の鎌倉寄りの端にある、こちらのトンネルをくぐって行きます。
トンネルを抜け
すぐの所にある階段を上ります。
国道134号線に出ました。この先は鎌倉に続いています。
国道134号を鎌倉方向へ少し歩いて行くと
逗子海岸ロードオアシスというパーキングエリアがあります。
ここにはお食事処とカフェがあるので、疲れたら一休みも出来るし、綺麗なトイレがあるのもありがたい所。
春は色んなお花が咲いていて良いですねえ。
道端にお花がいっぱい咲いていました。
いよいよ浪子不動高養寺が見えてまいりました。
このお寺の裏手は披露山です。
お寺と眼前の海中に立つ不如帰の碑の説明。
昭和初期の浪子不動の写真がありますね。
「白滝不動」とか「波切不動」と呼ばれていたそうです。
明治時代に「不如帰」がベストセラーになり、この場所が舞台となった事から、やがて
「浪子不動」の名で呼ばれるようになりました。
本堂の建物は、かつて葉山にあったお寺のものを
1953(昭和28)年に移築したものだそうです。
「高養寺」の名は葉山にゆかりの政治家、高橋是清と犬養毅からとったそうです。
(お二人とも戦前の内閣総理大臣ですが、高橋是清は二・二六事件で、犬養毅は五・一五事件で命を落とされていますね)
お寺の脇には小さな滝があります。
昔はこれにちなんで白滝不動と言われていたんですね。
ところで
小説のタイトルとなっている
「不如帰(ほととぎす)」
についてですが
ホトトギスという鳥には、実はとてもたくさんの異名があり、漢字の表記にも色々あります。
「不如帰」の他にも
「杜宇」「蜀魂」「子規」などなど……
「キッキョッ、キョキョキョキョ」と鳴く
夏の到来を告げる渡り鳥です。
ホトトギスの漢字表記のうち
「不如帰」「杜宇」「蜀魂」と書くのには
それにまつわる、中国の古い言い伝えがあるそうです。
昔、中国の長江流域に蜀(=古蜀)という、ちょっと傾きかけた国がありました。
そこに杜宇という人物が現れ、人々に農耕を指導したことにより、国を建て直すことができました。
彼は帝位に就き望帝となったのですが、やがて長江の氾濫を鎮める力のある宰相の開明に帝位を譲り、山中に隠遁しました。
望帝の死後、その霊魂はホトトギスになり、農耕を始める季節が訪れるとそれを人々に鳴いて知らせるようになりました。
後に蜀が秦によって滅ぼされてしまうと
望帝の化身のホトトギスは嘆き悲しみ
「帰り去くに如かず」(帰るのが一番良い)
と鳴きながら血を吐いたそうです。
それからホトトギスの口の中は、赤くなったのだと言われています。
小説の題を「不如帰」としたのは
浪子が結核を病み、血を吐くところからきたのでしょうか。
深く想い合いながらも、不治の病と家族制度により引き裂かれてしまった浪子と武男。
それぞれに相手を慕い
幸せだったあの日に戻りたい!
と思い合う気持ちが
「不如帰」という漢字表記に重なって、とても悲しく、印象的です。
浪子不動の下は小さな公園のようになっていて、このようなものもありました。
この小公園は浪子不動園地というみたいですね。
ベンチと、桜貝の歌の碑もありました。
このお不動さんの下の岩場で
浪子と武男が変わらぬ愛を語り合ったり
傷心の浪子が一人で泣いたりするのが
物語中ではそれぞれ名場面の一つになっています。
とにかく浪さんが可哀想で可哀想で
私も泣かされてしまいました。
涙腺と感情をあんなにも刺激されるのには
何といっても
徳冨蘆花の名文が効いていたような気がします。
地の文は文語文、会話は現代文で書かれているのですが
文語文の部分はまるで詩のようで、ものすごくイメージが掻き立てられるんです。
発表当時「東京日日新聞」にはこの小説の文体を評して
「文章でなく音楽である。その節奉に触るる者、さん然として泣き、粛然として自己を忘れる。殊に叙景の高雅は他に比を見ない」
と書かれたそうですが、本当にその通りだと思います。
文語文というと、現代の人には「難しそう」と思われ、取っ付きにくいと感じられてしまうかもしれませんが
明治時代の一般庶民が気軽に読むことができたくらい、そんなに難しいものでは無いので(会話は口語体なので、話の内容はわかりやすいです)
これはぜひとも、
原文で読むことをお勧めいたします!
学校で習う古文なんかも、いきなり難しい平安時代や鎌倉時代の文とかから入るより、
明治時代の文語文から入った方がずっとわかりやすいし、親しみやすいと思うんだけどな……。
海中に立つ「不如帰」の碑
文字は兄、蘇峰の筆です。
これを引きで見るとこんな感じになります。
意外とトロピカルな雰囲気ですね。対岸に見えているのは葉山マリーナです。
逗子駅方面に戻るために国道134を逗子海岸方向へ進み
「夢庵」のわきにある階段を下りて行きます。
階段を下りて左に曲がり
自治会の看板のところ(後の建物は逗子開成中学高校)を右に曲がります。
消防の建物の先の空地の角で今度は左に曲がります。
その道(写真で白っぽく見えている道)が
シンボルロードです。
シンボルロードは、逗子駅周辺と逗子海岸を結ぶメインストリートです。
小さな道ですが、この通り沿いには、おしゃれなカフェがあったり、湘南クッキーの自動販売機があったりします。
通り沿いに咲いていたユキヤナギ。
黒いBarのある所「逗子海岸入口」交差点まで出たら、もう逗子駅前の繁華街です。
左手奥にある逗子銀座通り商店街を抜けたらJR逗子駅前のロータリーです。
その逗子銀座商店街にある
三盛楼浪子最中本舗という和菓子屋さんで
浪子最中、浪子まんじゅう、不如帰まんじゅうを買って帰りました。
甘さが程よく抑えられた上品なお味で
とっても美味しかったですよ。(^_-)-☆
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こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。