今回は、作家で音楽家でもある
マーカス・ウィークス氏が書いた
「毎日使える、必ず役立つ哲学」(矢羽野薫訳)
という本のご紹介をいたします。
こちらの本は副題に
「教えてニーチェ、
なるほどソクラテス!」
とありますように
日常生活を送る中で、ふと感じる素朴な疑問やちょっとした悩みに対し
あの有名哲学者だったらどう答えてくれるだろう?
というところを
かつて哲学を専攻し、教職を経験してきたという
マーカス・ウィークス氏が
「彼(彼女)ならきっとこう答えるんじゃないかな?」
と
哲学者達それぞれの思想や考え方に則りながら書いたものです。
「エアコンの温度設定をめぐって、夫婦で無言の攻防が続いています」
とか
「私は長時間働いてカツカツの暮らしなのに、高給取りの上司はほとんど仕事をしていません」
などといった
私たちにとって身近な悩みや疑問の一つ一つに
錚々たる哲学者たちが
あたかもテーブルの周りに寄り集まって議論でもしているかのように
大真面目に答えてくれます。
ただし
哲学者たちの言う答えは、通常の人生相談とは違って
「相談者が世間とうまく折り合いながら、円満に幸せな人生を送れるように(^^)」
などという
平和な落としどころは
全く考慮されていません。
なので
彼らの言うとおりにしたところで
果たして
円満で幸せな日常を送れるかどうかは
ちょっとアヤシイところなのですが
異なる視点からの様々な考え方には
「なるほど、そういう考えもあるのか!」
と
視野がいくぶん開けたような
持ち弾が増えてちょっと心強くなったような
そんな気持ちにさせてもらえます。
また
この哲学者はだいたいこんな考えを持った人!
というところが大変にわかりやすく書かれているため
哲学というものに、ふだんあまり縁の無い私などが
取っ掛かりとして読む入門書としても
この本は、かなり最適だったように思います。
この本の中で哲学者たちは
実に様々な相談事に回答してくれているのですが
私が特に興味深いと思ったのは
「ガラクタみたいなものが美術館に展示されて
芸術品でござ~いなんて顔してるけど
どこが芸術なんだか全然理解不能です!」
というテーマです。
(命題 芸術とは何か。芸術の目的とは何か)
そういう疑問って確かにありますよねえ。
私も正直言って
前衛的な抽象美術って、イマイチ理解ができませんもの……。
多分
現時点で私はまだ、そういう作品の味わい方というものを会得していないから、その良さというものが理解出来ない
って事なんだろう(つまり、自分が未熟)と思っておりますが……。
さて
これに対して哲学者達は
なんと答えているでしょう?
芸術ギライのプラトン(BC427-BC347)は
「そもそも芸術なんてね、現実世界の劣化コピーでしかないんだよ!」
と斬って捨ててしまいました。
それに対し、
アリストテレス(BC384-BC322)がこう反論します。
「いいや、芸術は現実の劣化コピーなんかじゃない。
芸術っていうのはね、模倣したものをより洗練させ、その本質に対して、見る者に洞察を促すんだよ」
彼はこう続けます。
「その作品が私たちの感情や知性に訴えてくれば、それは芸術だと言えるし、
見る者に影響を与えてくるという点で、それには芸術的な価値がちゃんとある!」
彼らの会話に
ロラン・バルト(1915-1980)も参戦します。
「こういうのはね、作者がどう思って作った、とかは作品の意味に全く関係ないの。
作品の意味は鑑賞している側の人が自分なりに見出すものなの。
だから、それが芸術作品かどうかを決めるのも鑑賞者自身なの」
それに対し
ジョージ・ディッキー(1926-)は
「いやいや、それが芸術作品かどうかを決めるのは、やっぱ芸術界でしょう!」
と主張します。
「芸術の理論と歴史に関する知識とか、それに関しての理解がある人々から成っている芸術界。
そこにいるほぼすべての人が総論として、その人工物は芸術作品と呼ぶにふさわしいって賛成したら、それはもう立派に芸術作品!」
皆さんは、いかが思われますか?
私としては、アリストテレスとロラン・バルトの考えがしっくりくるような気が……。
さて。
専門家にも絶賛され
数千万円で取引されるようになった
巨匠スゴイ―ネのこの作品
↓
実は贋作だったとわかり
途端にゴミ扱いされる事になってしまいました!!
さあ
これに対して
哲学者たちはどう言うでしょう?
プラトンは元々冷たかった視線をさらに冷ややかにして
と吐き捨て
「しかしアートの世界は屁理屈を言って、1個のリンゴを描いた絵に果樹園まるごとより高い値を付ける事もあるからねえ、
贋作が本物の絵より高くなる事だって、あり得る事だよねえ」
そう言いながら、皮肉な笑いを浮かべています。
対してアリストテレスは
「おいおい、ニセモノだって、こちらの感情や知性を刺激すれば立派に芸術作品なんじゃないの?
出所が怪しいとか専門家が見放したとか言ったって、受け手に美的な快楽を与えたのは事実だよね?
だったら、芸術としての価値はあるって事だし、本物にかなり近い価値だってあるはずだよね?
偉大な作者の作品じゃないとわかったからって、その途端に値段を下げるのってどうなの?それっておかしいよね」
うーーーーん。
皆さんはどうお考えになりますか?
私としてはアリストテレスに、かなり同意したいところ ───
なのではありますが……。
しかしながら
実の所、芸術作品って
作品と作者が切り離せないような場合も多いですよねえ。
作者が歩んできた人生とか
その時々の思いとか
そういうものが、作品に深みや趣を加えてる部分は確かにありますから
当初付けられた高い評価が
「この作者」という所に
より重きを置いてのものであったら
「実は別の作者でした~」となった時に
ある程度、評価が下げられてしまうのは仕方が無いかな……
という気もします。
でも
別人の作品だと判明したとたん、見向きもされなくなっちゃう
となると
当初、褒めたたえていた人たちの審美眼を疑っちゃいますよね。
作品自体は間違いなく素晴らしかったんじゃないの?
って。
うーーーーむ。
でも、ここには
「騙された、忌々しい」
って気持ちなんかも入って来ますよね……
そうなっちゃうと
もはや純粋な眼では評価されなくなっちゃうかも……
いやはや~
考えれば考えるほど難しい問題で
とてもこの記事の中では収まりそうもありません。(*_*;
今回読んだのは、こちらの本です。
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