今回は
イギリスの思想家、数理哲学者にして
核兵器廃絶やベトナム戦争反対などを訴えた平和主義者として知られる
バートランド・ラッセル(1872-1970)が
1930年 58歳の時に著した
「幸福論」(原題「幸福の獲得」)
のご紹介をいたします。
ラッセルの自伝によりますと、彼の生涯は
「愛情への欲求」
「知識の追求」
「人類の苦しみに対する堪えがたいまでの同情」
という、
強力な3つの欲求に支配されていたそうです。
この「幸福論」は、
その中の1つ
「人類の苦しみに対する堪えがたいまでの同情」
によって著わされたもので
「どうやったら不幸を逃れられるのか?」
そして
「幸せになるためには、どのような思考法をとれば良いのか?」
という事に関し
彼の考察や対処法などが、まとめられています。
※ただし、ここでいう「幸せ」とは平時における個人の精神的な幸せであり、
戦争とか経済的な搾取のような、物理的な不幸への対処法ではありません。
ここに書かれてある事は全て
ラッセル自身の経験と観察によって確かめられたもので
それに従って行動した時には
彼自身の幸福度がアップした!
と
彼は「はしがき」で太鼓判を押しています。
さすがにラッセル先生自身がそう言い切るだけあって
非常に実用的な印象を受け
「なるほど!」
と腑に落ちる事が多かったです。
たとえば
現代人は時に
特に悲しい事があったわけではなくても
「何もかもが空しい……」
なんていう気分になっちゃう事がありますよね。
それについて彼は
「それはね、現代人は行動する必要がないほどに満たされてしまっているからだよ」
と言っています。
「満たされているからむなしく感じる」って???
一見、何だか矛盾しているような気がしてしまいますが
それはどういうことかと言いますと
いっさいは空であるという感情は、自然の欲求があまりにもたやすく満たされるところから生まれる感情である。
人間という動物は、ほかの動物と同じように、ある程度の生存競争に適応している。
だから、大きな富のおかげで、人間が努力しないでもおのれの気まぐれを満足させられる場合は、生活に努力が不要になったというだけで幸福の本質的な成分が奪われてしまう。
格別強い欲望を感じていないものをやすやすと入手できる人は、欲望を達成したって幸福はもたらされない、と結論する。
もしも、彼が哲学者肌の人であれば、人生は本質的にみじめである。
なぜなら、ほしいものは何でも持っている人でも、なお不幸なのだから、と結論する。
彼は、ほしいものをいくつかもっていないことこそ、幸福の不可欠の要素である、ということを忘れているのである。
「欲しいものをいくつか持っていないことこそ、幸福の不可欠の要素」
う~ん、深いですねぇ~!!
確かに
憧れるような対象がある状態って幸せですよね。
私なんかも良く
「億万長者になれたらな~」
なんて夢想をする時がありますが
もし、宝くじなんかが当たって
本当に億万長者になったとして
世界一周ファーストクラスの旅
だとか
ヨーロッパの古城を別荘に
だとか
ハリウッドセレブも電話一本で呼び放題
なんて事が
チョチョイのチョイでホイホイ叶えられるようになったとしたら
憧れってものが何にも無くなっちゃって
かえって、むなしくなっちゃうかも知れませんよね……。
そう考えてみると
「いつかは、贅沢して〇〇したいな~」
なんてワクワク夢が見られる現状って
意外と、そんなに悪くないのかも知れませんね。
また、この本には
人を不幸にする原因の1つとして
「世評に対するおびえ」
というものが挙げられている箇所があるのですが
いじめだとか
ネットにおける炎上だとか
そんな話題が絶えない昨今にも
彼のこの文章などは
(必ずしも、どのケースにも万能とは言えないにしても)
試みるに値する
一つの有用な対処法なんじゃないかなと思います。
世評というものは、世評に無関心な人びとよりも、はっきりと世評をこわがっている人びとに対して、つねにいっそう暴虐である。
犬は、人びとが軽蔑してあしらうときよりも、犬をこわがっているときのほうがいっそう声高にほえ、いっそう咬みつきやすい。
そして、人間の集団も、これと同じ特徴を多少持っている。
集団をこわがっている様子を示せば、あなたは、絶好のえじきになる。
一方、無関心でいるなら、集団は自分の力を疑いはじめ、ために、あなたのことをかまわないでおいてくれる見込みがある。
そうした過ちは、もしも陽気に無頓着にやるならば──この上もなく因習的な社会においても、大目に見られるようになる。
次第に、天下御免の変り者のおすみつきを与えられ、ほかの人がやったら絶対許せぬと考えられるような事柄でも、許されるようになる。
これは、多分に、ある種の人のよさと、人なつっこさの問題である。
旧弊な人たちが慣習からの逸脱に激怒するのは、主として、そういう逸脱は自分たちへの批評だと受け止めるからである。
彼らにしても、ある人が十分に愉快で人なつっこくて、自分たちを批評しているのではないということが極めつきの馬鹿にもはっきりわかるような場合には、因習にとらわれないふるまいの数々をも許すことだろう。
ちょっと変わった事をやって
集団から浮いてしまいそうになった時
ビクビクオドオドした態度でいると
かえって
攻撃的な人から突っつかれてしまいがちです。
(意地悪な人というのは、いじめやすい人に対する嗅覚が異常に長けてますから)
堂々と天真爛漫にやってのければ
「あ~……、こいつは攻撃するだけ無駄かも……」
と思われて
次第に容認されるようになる(かもしれない)
と
ラッセルは言っています。
たしかに
あまりにも変な事を
あまにりも自信満々にやられたら
いかに根性悪な人とはいえ
攻撃するのが怖くなっちゃうかもしれませんね。
それにしても
「天下御免の変り者」とか
「極め付きの馬鹿」だとか……
(^^;)
英国紳士のラッセル先生
全編を通して
このような皮肉っぽいジョークをひんぱんに飛ばしています。
彼の主張する幸福獲得法を
私なりに、ものすごーく大雑把にまとめてみますと
「うじうじ内向的に悩んでばかりいないで、外に興味を向けなさい」
という事になるかと思います。
人間は、自分の情熱と興味が内へではなく外へ向けられているかぎり、幸福をつかめるはずである。
だから、教育においても、また、外界に順応しようと努める際にも、自己中心的な情念を避けるとともに、絶えずわがことばかり考えるのを食い止めてくれるような愛情や興味を身につけるように心がけなければならない。
牢獄にいて幸福だというのは、およそ人間の本性ではない。
そして、私たちを自己の殻にとじこめる情念は、最悪の牢獄の一つとなる。
そういう情念のうち、最もありふれたものをいくつか挙げるなら、恐怖、ねたみ、罪の意識、自己へのあわれみ、および自画自賛である。
ラッセルは、正しくは
バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル
という長~い名前で
第3代ラッセル伯爵
という貴族でもあります。
1950年
78歳の時にノーベル文学賞を受賞した彼は
生涯で4度も結婚し
最後の奥さんと結婚したのは
なんと
80歳の時だそうです。
89歳にして
核兵器反対の座り込みをしたかどで7日間拘留されたという
ビックリするほどのエネルギッシュさを保ちつつ
1970年 97歳で生涯を終えています。
関連記事のご案内
アランの「幸福論」~幸福のカギは楽観主義
「一遍上人語録」~あんまり考え過ぎないのが良いみたい。
こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。