今回は
私が一番好きな小説家であり
心のお師匠様でもあります
「剣難女難」
のご紹介をさせていただきます。
小学生の頃から文学好きで
自作の文章や俳句などを熱心に投稿していた吉川英治が
初めて小説を書いて送り、当選を果たしたのは
14歳の時。( 明治39年)
高嶋米峰主催の「学生文壇」という雑誌に送った「浮寝鳥」でした。
その後
吉川雉子郎という筆名で川柳家として活動していた彼は
大正3(1914)年
22歳で「江の島物語」を「講談倶楽部」に送り
1等に選ばれ、賞金10円を獲得。
(現代の貨幣価値で言うと1万円くらい)
大正10(1921)年
29歳の時には、講談社の「少年倶楽部」「面白倶楽部」「講談倶楽部」という3誌に小説を送り
「でこぼこ花瓶」「馬に狐を乗せ物語」が1等、「縄帯平八」が3等に選ばれ
3作合わせて700円もの賞金を獲得しました。
(この賞金は母の葬儀代になりました)
大正11(1922)年に入社した東京毎夕新聞社では
(この頃、倉田百三の「出家とその弟子」のヒットを契機に、世間では親鸞ブームが起こっていたんです)
「親鸞記」は翌年、本として刊行されたものの
著者名は「?」という事で伏せられていました。
────と
これほどの文才に恵まれながら
このあたりまでの彼は
小説には川柳以上の思い入れを持っていなかったようなのですが
大正12(1923)年
関東大震災で社屋が消失。
新聞が休刊となったのを機に、
「小説家としてやっていこう!」
と決意します。(31歳)
大正13(1924)年
32歳の彼は
講談社から出ているさまざまな雑誌に
吉川雉子郎、杉田玄八、朝山李四、望月十三七、中條仙太郎、不語仙亭などなど
色々な筆名を使って、猛烈な勢いで小説を書きまくりました。
でも、この時点ではまだ
作家「吉川英治」は誕生していないんです。
「吉川英治」という筆名が初めて使われたのは
大正14(1925)年
1月に創刊された
講談社「キング」に連載された
「剣難女難」と
「面白倶楽部」(こちらも講談社)に連載された
「坂東侠客陣」
この2つの作品です。
「キング」創刊にあたって編集次長の広瀬照太郎から
「社運をかけて出す雑誌に長編を書く作家が、逃げ腰の匿名でどうする。本名を用いなさい」
と言われ、本名を名乗ることにしたのですが
本名の「英次(ひでつぐ)」を「英治」に誤植されてしまい
しかし、却ってそれが気に入ったために
「吉川英治」という筆名を名乗る事になったそうですよ。
(瓢箪から駒みたいな話ですね~)
「吉川英治」としてのデビュー作として位置づけられる本作
「剣難女難」ですが
事実上
これ以前にも多数の作品を生み出していますので
当然ながら
文章にも構成にも、拙い部分などは微塵も見当たらず
完璧なまでに安定の面白さでありました。
さすがは吉川先生
お見事です!!
というより他はありません。<(_ _)>
内容は
ネタバレしないように気を付けながらお伝えしますと
このようになります。↓
---------------
松平家が治める福知山藩(善玉)と京極家が治める宮津藩(悪玉)は
事あるごとに武芸面で張り合う
熾烈なライバル同士だった。
剣術の試合で福知山藩代表として戦った春日重蔵(町の剣道場の先生・主人公の兄)が
京極家の助っ人として急遽出場することになった剣豪・鐘巻自斎(←この人自身はとても良い人)に打ち込まれ
脚を砕かれてしまった所から話が始まる。
「ヤーイ、ヤーイ」
「ぐぬぬぬ、畜生~!」
と悔し涙を飲み、歯ぎしりをする福知山藩の面々。
足が不自由になったため、道場の先生を廃業せざるを得なくなった春日重蔵は悔しさと失意に暮れている。
彼の周りの人々と福知山藩内の人々の目は、一斉にその弟、新九郎へと向けられた。
「こうなったら弟の新九郎殿こそが先生の仇を討つべく、鐘巻自斎から一本取るべきなのでは!?」
しかし、その新九郎は、なよなよとした蝶の化身のような美少年で、剣術など大嫌いと言う軟弱者。
そんな新九郎が
兄や周囲の人々、初恋の彼女などからの強烈過ぎる圧力により、
いっぱしの剣士となって鐘巻自斎を負かすべく
武者修行の旅に出る事になる────
---------------
新九郎は健気にも
「立派な剣士になって兄の敵を討つぞ」
と決意するのですが
生来が軟派な性質なので
ともすると、すぐにグダグダになりがち。
ところが
新九郎がグダグダになるたびに掛かってくる
兄上や周囲の人々からの圧がものスゴイんです。
「うわぁぁ~……、ここでこんな風に来られちゃったら、こりゃ~逃げられないわ……」
と、ちょっと同情するような気持ちになってしまいます。( ;∀;)
さらに
超絶美青年である新九郎は、非常に女性にモテるため
行く先々で女難にあってしまいます。
(イケメン人生というのも善し悪しですねぇ)
彼を誘惑しに出て来る女性達というのが
これまた
強烈な悪女たち。
年上の美女たちがまるで女郎蜘蛛のように
新九郎を絡め取って
腑抜けにしようとしてきます。
何が何でも鐘巻自斎に勝たなければ
世間様に顔向けできない
そんな状況に追い込まれてしまった新九郎を
絶えず襲ってくる
剣難!そして女難!
ちなみに
本作品に出て来るカッコイイ剣豪
鐘巻自斎
彼は実在の人物なのですが
佐々木小次郎のお師匠様であるとも言われています。
なので実際は
本作の舞台となっている
4代将軍家綱の治世(1651-1680)よりも
ずっと前の人だったりします。
直木三十五が「大衆文芸作法」の中で
大衆に受ける小説は
「剣戟と恋愛がポイント」
と語っているのですが
この作品はまさに
そのツボをバッチリ押さえています。
(まさにウケる大衆小説のお手本のような作品!)
(直木三十五「大衆文芸作法」の記事はコチラです)
でも、吉川英治がこの物語を書いた時にあったものは
たぶん受け狙いの計算と言うよりは
まず
自分が一番に楽しんでいるというような
天性の空想力だったんじゃないかな~と思います。
吉川英治は幼い頃から空想力が大変に強く
戦争中の防空壕の中でも空想に耽っていたというくらい
いつでもどこでもトリップできてしまう性格だったらしいですよ。
(うらやましい~)
ご子息の吉川英明さんがお書きになった
「父 吉川英治」の中にも
こんなエピソードが紹介されています。
ある人がある時、父に、
「もし無人島で、一人で過ごすとして、一冊の本を持っていくとしたら、何にしますか」
と訊ねると、父は、
「僕は何も持って行かない。頭の中で物語を創ってそれを読む」
と答えたという。
この言葉どおり、机に向かっていない時でも、あれこれと空想の翼をひろげているのは、父にとって、こよない楽しみだったらしい。
「僕は退屈ということを知らないよ」
ともよく言っていた。
「剣難女難」の物語からは
心の赴くままに伸び伸びと想像の筆を走らせているような
生き生きとした躍動感が伝わってきます。
「日本一面白い、日本一為になる、日本一安い」
という謳い文句で大人気となった
雑誌「キング」
「剣難女難」は
そこで圧倒的な人気を博し
吉川英治は一躍
流行作家の仲間入りを果たします。
さらに翌年
大正15(1926)年8月から「大阪毎日新聞」で連載を始めた
「鳴門秘帖」の
超絶大ヒットにより
吉川英治は
大衆小説作家界でのスター的な地位を
確固たるものにしたのでした。
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