TODAWARABLOG

戸田蕨です。小説書いてます。よろしくお願いします。

「虎渓三笑」の故事から思った事~「継続は力」だけれども「継続させるため」には力を抜くこともきっと必要。

先日私は

「虎渓三笑」(こけいさんしょう)

という言葉と

その由来となる話を知り

「なるほど、良い話だなあ……」

と感じる所がありましたので

ここに、それをご紹介したいと思います。

 

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昔むかしの中国

五胡十六国時代(304-439)のお話です ──

 

東晋の高僧慧遠(えおん)は俗世を離れ

廬山(ろざん)の東林寺に入っていました。

彼は

「川(虎渓)に掛けられている石橋から先へは絶対に出ない!」

という

誓いを立てておりました。

 

そんなある日

 

彼のもとに

詩人の陶淵明、道士の陸修静という友人達が訪ねてきました。

 

三人は色々な話で盛り上がり

楽しいひと時を過ごします。

 

帰っていく二人を見送りながらも、会話に熱中していた慧遠は

ついうっかり

石橋を渡ってしまいました。

 

「あれ?」

「橋を渡ってしまいましたぞ」

「あれまあ!」

 

ふと

それに気づいた三人は

顔を見合わせ

 

「あはははは」

「はははは」

「わはははは」

 

と、大笑いしましたとさ。

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これは「廬山記」という

宋の陳舜兪によって書かれた本にある故事で

 

仏教を象徴する慧遠

儒教を象徴する陶淵明

道教を象徴する陸修静

という三人が

同じことに対して一緒に大笑いすることにより

 

仏教、儒教道教「三教一致」

つまり

「それぞれの教えがあるけれども

それらの言わんとしている真理は一つ

ということを表わしている ──

 

と言われています。

 

また、この言葉は

ことわざ的な意味では

「ある事に夢中になり他の事を忘れてしまう事」

というような使われ方も

しているようです。

 

 

 登場人物について簡単に補足しますと

 

慧遠(334-416)

東晋の人、廬山に住んだ高僧。

30年間廬山から出なかった。念仏結社「白蓮社」の祖。

 

陶淵明(365-427)

東晋末〜南朝宋の文学者。

故郷の田園に隠遁して多くの詩文を残す。

「田園詩人」と呼ばれている。

 

陸修静(406-477) 

東晋末〜南朝宋の道士。

道教経典の収集整理を行い、最古の道教経典総合目録「三洞経書目録」を作成する。

 

このようになっているのですが

 

生年を見ると

かなり年の離れた人たちなので

「この話は、史実では無いだろう」

と言われています。

 

とはいえ

 

それぞれの道で名を轟かせているような立派な人たちでも

お喋りに夢中になって、ついウッカリする事がある。

 

それも

 

山に籠って修行している

いかにも厳しく自分を律しているような高僧チョンボをやらかして大笑いする。

 

そんな所に

おおらかさ、親しみやすさ、温かな人間味などが感じられ

 

さらには

多少のチョンボなどには動じない所からは

高僧の度量の大きさまでもが伝わって来て

 

この

「虎渓三笑」

昔から東洋画の題材として

画家たちに大変好まれ、描かれてきました。

 

 

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この先は

私が感じたことになるのですが ──

 

たとえば──ですよ?

何事か

成し遂げたいような目標がある時

 

それを成し遂げるためには

コツコツと地道な努力をし続ける事

っていうのが

必要になってきますよね。

 

「石の上にも三年」

「虚仮(こけ)の一念、岩をも通す」

「千里の道も一歩から」

 

そういう信念を持って

ダイエットなり

レーニングなり

勉強なり

頑張って取り組むわけなのですが ──

 

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 「やり続ける」

って事が何よりも大事とは

わかっていながらも

 

あんまり真面目に頑張り続けていると

 

そのうち、だんだん

まるで

苦行でもしているような

禁欲的な気分になってきて

 

心に余裕が無くなってきちゃうんですよね……。

 

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「続ける事が大切」

それはその通りなのですが

 

長く続けていくため」には

ある程度の余裕ってものが必要なんじゃないかと思うんです。

 

「 苦行だ、辛い」

と思いながら120%の力でやるよりも

「楽しい」

と思いながら50%の力でやる方が

ずっと続けやすいし

 

その方が

精神的にも楽ですよね。

  

「全身全霊傾けて

フルパワー!」

でやった挙句

疲れたり嫌になってしまい、挫折してしまうのであれば

 

苦痛を感じない程度に

ほどほどにやって

いっそ習慣化してしまった方が

 

遥かに良い結果が得られますよね。

 

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自分が続けるべき事に対し

あんまり生真面目な態度で臨み過ぎていると

 

今度は

それを休む事に対して

罪悪感とか

恐怖などを感じるようになってしまい

 精神的によろしくありません。

(長い間にはどうしたって、休まなきゃならない時だってありますから)

 

ましてや、それが

他人のせいで休まざるを得ない

なんて事態だったりすると

 

今度は

ものすごく自分が犠牲になったような感じがしてしまい

相手を責めたい気分にまでなったりして

 

下手したら

人間関係の危機さえ招いてしまうかも……。

 

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「せっかく今まで1日も休まず頑張ったのに、〇〇ちゃんのせいで……」

 

それもすべて

心に余裕が無くなっている

せいなんです。

 

あまりにも自分を厳しく律して、頑張り過ぎているから

たった一度でも休んだら

 「このままズルズルと休み続けてしまうんじゃないか?」

 「もう二度とやる気が起きなくなって

このまま止めてしまうんじゃないか?」

 

そんな風に心配になってきて

怖くなっちゃうんですよね……。

 

つまり

 

ノルマを過重に設定しているから

一度休むと、再開するのに気合が必要──

 

だから

 

再開できるかどうかが

不安になってきちゃうんです。

 

大丈夫!

一度や二度休んだって

また必ず「続ける」ところに戻っていける。

 

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そんな強い自信があれば

 きっと

ちょっとぐらい自分の禁を破ったって

 

慧遠さんのように

笑い飛ばせてしまうくらいの

余裕が生まれてくることでしょう。

 

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明日からまた続ければ良いじゃん!

 

そのためにも

 

何かの努力が必要となった時には

 

あまりストイックになり過ぎず

無理なく楽しく続けられるように

 

「ほどほどに

力を抜いた方が良いよ」

 

そんなメッセージを

 

私は

この「虎渓三笑」というお話から

受け取ったような気がしたのでした ──

 

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 こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

 

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