本屋さんだけではなく、いまやネット上の世界でも
たくさんの小説に出会える時代となりましたが
小説の良し悪しの判断って、
正直ちょっと良くわからない所ありますよね。
さすがに
てにをはが滅茶苦茶だとか、誤字や言葉の間違いが多すぎる、なんてレベルだと
「こりゃヒドイ」
ってわかりますけど
ある程度、体裁の整った作品になってくるともう
「好みの問題じゃない?」という感じで、
それが果たして、作品として何点ぐらいの物なのか
客観的かつ絶対的な判断なんて付けようがありません。
たとえ自分にとってはピンと来ない作品であっても
作者や、それを支持する人々が
「これはこういうものなんです。これで良いんです!」
と言うのなら
「そうなんですか」というより他はありません。
それでは一体
どんな小説が「良いもの」なのか???
判断基準が皆目わからなくなってしまいそうになる、そんな時───
そんな時にはひとつ
過去の文豪の作品を読んでみる事をお勧めします。
太宰治にしても
芥川龍之介にしても
谷崎潤一郎にしても
一読すればすぐに
恐ろしいほど巧い
ってことが良くわかりますから。
芸術性と娯楽性───どちらをとるか!?
なんて事がよく言われますけど
この辺の人たちの作品はたいがい
芸術性を満たしながらも
しっかり面白く読ませてくれるように仕上がっています。
作品の着想、物語の展開、言葉の選び方、表現方法
すべてが磨き抜かれた超一級。
これぞまさに
文豪の文豪たるゆえん
なのであります。
もちろん
私が尊敬する吉川英治も然りです。
大衆小説(エンタメ)としての面白さはバッチリ押さえながら
その文章は詩的なセンスに溢れ、芸術の香気を放っています。
文豪と言われるほどの作家の
名作と言われるほどの作品は
それが純文学であろうとエンタメだろうと
ほとんどが芸術性と娯楽性を兼ね備えていて
読めばしっかり面白いものなんです。
───と
前置きが長くなってしまいましたが
なぜこのような事を述べているのかと申しますと
今回ご紹介する菊池寛の
「藤十郎の恋・恩讐の彼方に」
という作品集。
これを読みまして、私自身が
文豪の凄さ
というものを
改めて思い知らされたからなんです。
スゴイわ!!!!
(T∀T)ノ
こちらの本は
菊池寛自身が自分の初期(31歳〜33歳頃)に書いた自信作のうちから
短編時代小説を10編ほどセレクトしたもので
初版は「忠直卿行状記」のタイトルで
昭和23年3月に出版されました。
内容としましては
「恩を返す話」(大正6年発表)
内容:恩返しがしたい恩返しがしたいと強く願っていると、むしろ相手に不幸が起こる事を待ち望んでいるのと同じような心境になってくる……という話
内容:周囲にチヤホヤされ過ぎて何でも気を使ってもらえるような立場にいると、自分の本当の実力や周囲の人の本当の気持ちがわからなくなってきて、むしろ辛過ぎる、という話
内容:どんなに悪い人間でも、時間の経過とともに善人になる事がある。殺してやりたいほど憎い敵と再会した時、彼が以前の過ちを悔いた上でものすごく良い人になっていたらどうする!?という話
などの他
「ある恋の話」(大正8年)
「極楽」(大正9年)
「形」(大正9年)
「蘭学事始」(大正10年)
「入れ札」(大正10年)
「俊寛」(大正10年)
以上の10編が収録されています。
「形」は、中学校の教科書にも採用されている有名な話ですね。
内容:スゴイ勇士として敵に恐れられているAさんと実力ソコソコのBさん。BさんがAさんの恰好をしてみたら戦場での敵の反応はどうなるのでしょう?そして、無名の戦士の恰好をして戦に出たAさんの運命やいかに……?
菊池寛(1888-1948)といえば
大正12(1923)年に雑誌「文藝春秋」を発行して
昭和元(1926)年に文藝春秋社を興し
昭和18(1943)年には映画会社大映の初代社長になったりしている
実業家。
そして
現代も続いている一番有名な文学賞
偉い人。
そんなイメージが強いかもしれませんが
この本を読むと
文学者としての才能も
やっぱり
すごかった!
という事が良くわかります。
ここに収められたラインナップをみてみると
ふと感じたある思いをヒントにして、それを深く掘り下げて物語に仕立てて行く
といった形のものが多い印象です。
たとえば
「忠直卿行状記」などは
誰からもチヤホヤされている殿様が、自慢の武芸で家臣と試合をし
勝って良い気分になっていた所が
実は、家臣たちが皆、手加減していたということに気付いてしまい
それからというもの
自分の本当の実力だとか、相手の本当の気持ちだとか、全ての物がわからなくなっていって
疑心暗鬼にとらわれた挙句に、次第に狂気を帯びてしまう……。
という話なのですが
この着眼点といい、話の組み立て方といい
うまいですよねぇ~。
こういうのって、ある程度の地位や人気を築き上げている人には、いかにもありえそうな問題だと思います。
偉い人、お金持ち、人気者に
なりたーい!
って誰もが思いますけれど
こんな話を読んでしまうと
偉い人、お金持ち、人気者になる事が
必ずしも幸せってわけじゃないんだな~……
と考えさせられてしまいます。
時代劇に舞台を借りてはいますが
こういう、いつでもどこでもあり得るような
普遍的なテーマである所など
題材選びのセンスが抜群ですよね~。
(これぞまさに、時代や国境を超えて「名作」になりうるポイントだと思います)
そしてまた
この短編集の物語の順番なんですが
これがまるで音楽のアルバムみたいに
絶妙な順番で並んでいるんですよ。
特に
大トリに「俊寛」を持ってくるあたりが
心ニクい!!と思いました。
このスッキリ爽快な読後感は
まるで年末に聴く
第九のような晴れやかさ!
内容はかいつまんで言うと、以下のようになります。
驕る平家を打倒せんとの企てが失敗に終り、仲間二名と共に島流しの憂き目に遭っている俊寛 ───
都が恋しい、都に帰りたいとため息ばかりつきながら島暮らしを送っていた彼らの元に、いよいよ都から迎えの使者が、許し状を携えてやってきましたが
許されたのは彼以外の二人だけ。
船は彼をあざ笑うように、無情にも島を去って行ってしまいました。
絶望のどん底で
もういっそ死んでしまおうとさえ思った俊寛でしたが
生と死のギリギリの縁で
……自分がおかれているこの環境(南の島)って、そんなに悪くないんじゃない?
という事に気が付くのです。
絶望の底から価値観を一変させた俊寛は
それから自給自足生活の楽しさに目覚め始め
みるみるうちに狩りの得意な
ワイルドなイケメンに大変身していきます。
権力や名誉や富貴などに価値を置く、都人たちからしてみれば
本人はそんな事にはもう興味無しで、南の島で幸福に暮らしているという───
とても勇気づけられる名作だと思います。
こういう話大好きです!
彼の随筆中には、菊池寛の話がちょくちょく出て来ます。
吉川英治曰く
「菊池氏の人格は
愛すべくして学ぶべからず」
菊池さんには人間としていい所がたくさんあった───
人間好きで世話好き。
聡明良識な大常識家。
だが、その一方で
ケタ違いな非常識さも持ち合わせている。
天衣無縫で、とてもスケールの大きな人。
吉川英治は随筆「折々の記」の中で菊池寛の人柄についてそのように評し
また、次のようにも語っています。
文学者としても人間としても「立派な大人」だと思った人は、明治以降二人しかいない。一人は幸田露伴翁、もう一人は菊池さん。
この本の巻末にある解説は、吉川英治が書いている体になっていますが
実は吉川の名を借りて
菊池寛自身が書いています。
戦後間もない昭和22年
菊池寛は文藝春秋や大映の社長として侵略戦争に協力したと言われ
GHQから公職追放されてしまいました。
なんで!?
僕はずっと
昔から一貫して
ヒューマニストでしたが!?
解説文からは、彼のそんな戸惑いと憤懣やるかたなさが伝わってくるように思えます。
彼は訴えています。
「この作品群を読んでもらえば、ぼくがどういう人間だったかわかるでしょう!?」
と……。
何度も次のようにぼやいていたそうです。
「 自分はいつも中道をあるいているんだ。
だから自然、時勢が極右すると自分の位置が左視され、時勢が左傾し出すと、こんどは急に右視された。これでは中庸も何もあったものじゃない。
正しいリベラリストの節操を保つことは日本では苦行にひとしい」
吉川英治「折々の記」から
「菊池寛氏と私」
まるで右翼や封建主義信奉者だったかのように、一方的に決めつけられ、
いっぺんに気力が衰えてしまった菊池寛は
この本が出た昭和23年3月に
失意の中、59歳の若さで急死してしまいました……。
なんとも傷ましい話ですが
人の心のちょっとした機微に焦点を当てて、ああいう物語を作り出すことが出来る菊池寛という人は
本人自身、そうとう繊細な心を持った
優しい人だったんだろうな……
そんな印象を
私は受けています。
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こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。