今回は
「梅里先生行状記」(ばいりせんせいぎょうじょうき)
のご紹介をいたします。
タイトルにある梅里先生とは
徳川(水戸)光圀(1628-1701)のことです。
「水戸黄門」として有名な
勧善懲悪のヒーローですよね。
梅がお好きなご老公には
梅里(ばいり)という雅号があるんです。
水戸光圀は、その存命中から
名君として民衆からの人気が高く
亡くなった際には
「天が下 二つの宝つきはてぬ
佐渡の金山 水戸の黄門」
なんていう
狂歌が流行るほどだったそうですよ。
実は
彼が諸国を漫遊したという記録は一切確認されておらず
したがって、ドラマや講談の勧善懲悪ストーリーは
完全にフィクションという事になるんですが
宝暦年間 (1751年~1764年)に
彼の伝記を元にして
「水戸黄門仁徳録」
という物語が作られ
幕末にもなるとそれを土台に
講談師が「東海道中膝栗毛」(弥次さん喜多さんで大人気)の要素を取り入れたりして
光圀公が俳人をお供に従えて、あちらこちらに世直しの旅をしてまわる、といった
「水戸黄門漫遊記」
の物語を作り出した ───
─── と、そんな風に考えられています。
江戸時代からすでにヒーロー物語の主人公になっていたなんて。
それほど、黄門様は人々に慕われていたんですねえ……。
(※「黄門」は「中納言」の中国風の呼び名です)
お供が俳人ではなく
家臣の佐々木助三郎&渥美格之進になったのは明治時代からです。
助さんのモデルは
佐々宗淳(さっさ むねきよ 通称・介三郎)
格さんのモデルは
安積澹泊(あさか たんぱく 通称・覚兵衛)
といって
二人とも、光圀に仕えていた儒学者です。
明治維新を経て
徳川家の威信や人気は
かなり低下してしまっていたのですが
(なにせ「朝敵」呼ばわりでしたからねえ……)
こと
水戸光圀に関して言えば
かなり尊王的な思想を持った人だったこともあって
明治の世になっても
評価や人気は依然、非常に高いままでした。
(……しかしながら戦後の「水戸黄門」では、彼の尊王的部分はほとんど描かれなくなっています……)
───さて
今回ご紹介する
「梅里先生行状記」ですが
こちらは、そのような
勧善懲悪の諸国漫遊譚ではなく
光圀(68歳頃)が水戸で隠居中
小姓時代から目を掛けて可愛がってやり、江戸家老を任せている藤井門太夫という家臣が
当時、将軍綱吉の側用人として権勢を振るっていた柳沢吉保と結託し
なにやら良からぬことを企んでしまっているようだ……
という騒動がありました。
この時
ご老公は
一体どのように対処したか!?
というのが
この物語の大筋となっております。
「あの恩知らずの恥知らず!」
「絶対に許さん!」
と憤り、藤井門太夫をやっつけようと血気にはやる、国許の家臣たち。
しかし
ご老公はなかなか動こうとはしません。
なぜなら
光圀にとっては、彼ら家臣たちと同様、藤井門太夫も我が子のように可愛い存在だったのです……。
そんな人情に厚いご老公が
図に乗りまくって悪事を重ねまくる藤井門太夫に
一体どのように
対処するのだろうか?
───というお話なのですが
これは
元禄7(1694)年に
実際にあった事件が題材になっているんですよ。
まるで芝居の一幕であるかのように
非常に劇的な
絵になる結末であっただけに
これが実際にあった事件だと知った時には、ちょっと驚いてしまいました。
(ここではネタバレはしませんので、気になる方はWikipediaの「徳川光圀」を覗いてみて下さい)
光圀という人は
家康の孫というサラブレットの血筋ではありますが
幼少時代から少年時代にかけての彼の生い立ちは
必ずしも順風とは言い難いものでした。
側室の子として
一時は堕胎されかかりながらも
心ある家臣に密かに匿われながら出生した彼は
6歳の時に、その聡明さを見込まれて
後継ぎとして正式に認められることとなります。
しかし
兄(頼重)を差し置いて世子(後継ぎ)になることを決定されたことは
光圀の気持ちに複雑な思いを抱かせてしまい
その後彼は
手の付けられない不良少年になってしまいました。
そんな彼も
18歳の時に
『史記』の「伯夷伝」を読んで
大きな感銘を受けてからは
人が変わったように
勉学に打ち込むようになります。
彼は、藩士たちに儒学を奨励し、江戸小石川の藩邸に彰考館を設立し、そこで歴史書「大日本史」を編纂しはじめました。
これが後の水戸学(尊王攘夷的な思想を持つ)に発展していくことになります。
「大日本史」の編纂は非常に大きな事業であったため、光圀の存命中には完成しませんでした。
「大日本史」は光圀亡き後も
水戸藩の事業として営々と二百数十年にわたって継続され
明治39(1906)年
水戸徳川家13代当主 徳川圀順(くにゆき)侯爵が完成させています。
本作品「梅里先生行状記」は
昭和16(1941)年2月18日から
「朝日新聞」夕刊に、5か月余りにわたって連載されました。
連載終了後の12月8日に帝国海軍は真珠湾を奇襲攻撃し
太平洋戦争の火ぶたが切って落とされたという年です。
国民を戦争体制に同調させるべく
マスメディアの情報操作やプロパガンダが始まっており
各種芸能言論方面へ、表現の自粛を押し付けるような言論統制が始まっている時代でもありました。
このような時代背景を考えあわせてみると
物語中
光圀が「大日本史」の編纂を決意するあたりや、
湊川に佐々介三郎を派遣して楠木正成の石碑を建てさせるあたりなどには
いささか皇国史観が強調され過ぎているようなムードを(現代人の目からしてみると)感じてしまうところも無きにしも非ず……
なのですが
しかしながら
明治〜戦前までの教育って、基本的にこういう感じの皇国史観でしたし
物語の主人公が勤王の水戸光圀ですから、そのあたりはそうなるべくしてなっているのかもしれません……。
───とはいうものの
本作品のそれらの部分からは
歴史観であるとか
歴史上の人物に対する考え方が窺い知れて
吉川ファンとしては
非常に興味深いものがありました。
特に楠木正成の石碑を、石工たちと共に汗を流しながら作っている佐々介三郎が
石屋の親方・権三郎と交わしている会話が、すごく良いんですよ。
───以下に引用してご紹介します。
「正成公ばかりではない。──古人はすべて死んでいない」
「秀吉は、もう白骨のひとだが、逆境の若い者が、秀吉の幼少や少年のときを胸に呼び起せば、逆境何ものだという気をふるい出されよう。
……どんな貧家に生れたものでも、自分をだめだと思い捨てるまえに、秀吉ほどではなくても、将来の夢を持とうという気になるだろう」
「てまえも小さいとき、うちは貧乏だし、体はよわいし、死のうと思ったことなんかありましたが……そんなときには、誰か、自分を力づけてくれるものをさがしますね、いまの人よりも古い人のなかに」
「生きているひとなら力になりそうなものだが世事雑多だ。
生きている同士はかえって、ほんの心の友にも力にもなれない。
──そこへゆくと、古人にそれを求めれば古人はいつでもわが師となってくれる、わが友となってくれる」
「この国の土中にかくれた、過去の偉大な白骨は、この国の非常な時に応じて、いつでも、その時にふさわしい古人が、現在の生きているものから呼び迎えられる。
そして文学やら絵やら口伝やら、あらゆる象(かたち)をとおして、ひとの知性や血液にまではいってゆく」
介三郎のこのセリフ
すごく納得できる感じで、私は嬉しくなってしまいました。
昔の人たちって、ほんとうに生きているんですよね!
生身の体こそ、もうどこにもないけれど
彼らの生き様や精神は、彼らの事を思う人々の心の中にずっと生き続けていて
励ましたり、慰めたり、アドバイスしてくれたり───と
今でも、すごいパワーを行使し続けていますもの。
それは本当に、私も深く深く実感しています。
本作品に描かれた水戸光圀像は
学者肌ではありながらも、若い頃の放蕩の経験もあるために、酸いも甘いも噛分けた、スケールの大きな大人。
(こういうオトナになりたいものですな~)
家臣や領民たちを、いつも暖かい目で見守っている
慈愛の人です。
(それだけに、悪徳家老・藤井門太夫に下した処分は衝撃的なんですが……)
楽しまずして何の人生ぞや。老公の口ぐせである。
楽しみある所に楽しむことはたれもする。が、そんな浅い楽しみ方ではまだ人生を真に噛みしめたものではない。
楽しみなき所にも楽しめる。
苦しみの中から苦しみの楽しさを汲み出せ。
こんこん人生の楽しさはそこから無限に湧いて来よう。
なぜならば、人生とは、母胎の陣痛から始まって、すべての快は、苦を越えなければつかみ得ないものになっているから───というのである。
吉川英治が梅の郷───西多摩郡吉野村(現在の青梅市)に転居したのは
戦局がより激しくなってからの
昭和19年3月のこと。
(その後、昭和28年まで吉野村で暮らす事になります)
したがって
本作品が書かれた昭和16年の時点では、彼はまだ「梅の里の先生」ではないわけですが
講談社刊・吉川英治歴史時代文庫「梅里先生行状記」の解説で進藤純考氏がお書きになっているように
この光圀像と吉川英治のイメージには
非常に重なる部分が多いように、私も感じています。
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