TODAWARABLOG

戸田蕨です。小説書いてます。よろしくお願いします。

「奇想の絵師達」は作品はもちろん、その性格も超個性的!〜辻惟雄「奇想の系譜」のご紹介と感想。

近年、日本画の世界において

「おっ!?」

一風変わった印象を与えられる感じの昔の絵

 

いわゆる

「奇想の画家」

と呼ばれる人たちの作品が人気になっていますよね。

 

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今回はこの

「奇想の画家たち」の魅力を世間に広め

ブームを巻き起こすきっかけとなった本

 

美術史学者の辻惟雄(つじのぶお)さんの

「奇想の系譜」(1969年)

をご紹介いたします。

 

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岩佐又兵衛浄瑠璃物語絵巻』(部分)

 

この本の中で紹介されているのは

江戸時代における

表現主義的傾向の画家────辻さんいわく

 

奇矯(エキセントリック)で

幻想的(ファンタスティック)な

イメージの表出を特色とする画家

 

岩佐又兵衛

狩野山雪

伊藤若冲

曾我蕭白

長沢蘆雪

歌川国芳

 

───の6人です。

 

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いずれも

存命当時から絵描きとしての名声高く

非常に人気のあった人ばかりなのですが

 

どういうわけか

明治から昭和にかけての日本美術界においては

彼らの評価は不当なほど低くなされていて

 

辻さんがこの本の元となった原稿を『美術手帳』誌上に連載されていた

1969(昭和44)年当時

 

日本のコレクターや専門家たちは

「あんなエゲツナイ絵」

などと言って

彼らの作品をスルーしている……という状況だったため

 

これらの作家の作品は

その良さを充分に知り尽くしている海外の愛好家たちによって買いまくられ

どんどん国外に流失してしまっている

 

──── という有様だったそうです。

 

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「サヨナラ〜」

 

そんな状況に歯がゆさを感じた辻惟雄さんが

一石を投ずるべく著したのが本書

「奇想の系譜」

です。

 

この本の中で

画家自身やその作品の魅力が

存分に紹介されたことにより

 

時代の流れの内に、忘れられたようになっていた6人の巨匠たちの業績

再びスポットライトを浴びることになったのです。

 

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それでは

この本で紹介されている画家たちについて

以下に

簡単にご説明をいたします。

 

 

エントリー№1

岩佐又兵衛(1578-1650)

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岩佐又兵衛浄瑠璃物語絵巻』(部分)



彼は織田信長に仕えていた戦国武将・荒木村重の息子です。

 

父の荒木村重織田信長を裏切った事により城攻めに遭い、長きにわたる籠城の末、密かに脱出して生き延びたのですが

 

城中に残された一族妻子は

信長によって全員処刑されてしまいました……。

 

── が

 

当時二歳だった庶子(妾腹の子)の又兵衛は、乳母の手によって密かに助け出され、生き延びていたのです!

 

その後、成長した彼は

織田信長の子の信雄に御伽衆のような形で仕えたり

「かぶき大名」松平忠直(家康の孫)に気に入られて越前北の庄で暮らしたりしています。

 

── と

そのような、非常に数奇な人生を送った

岩佐又兵衛ですが

 

実は、彼の絵こそが

浮世絵の源流だと言われているんですよ。

 

辻さんいわく

彼の画風には

「和漢諸流派の折衷をもととした雑種的要素」

があり

「どの流派にも属さぬ個性的感覚のアクが、すべての作品に染み透っている」

とのこと。

 

上に掲げてある絵は

彼が主宰していた工房で、複数の画工たちを率いて仕上げられたと考えられている

浄瑠璃物語絵巻』

という物語の一場面なのですが

 

隙間なくコテコテに描き込まれた絢爛豪華さ

ちょっと息苦しいほどで

私などは

いささか狂気を感じてしまったくらいです……。

 

この物語の内容は

牛若丸浄瑠璃ファンタジーラブロマンスなんですけれど

 

主人公たちの顔が……

表情が(特に牛若丸)……

あんまり素敵じゃない……(T_T)

(ディズニープリンセス達のお相手方とは大違い……)

 

まさに

「絢爛にして野卑」(近世文学者の廣末保氏・談)

といった感じです……。

 

同じく又兵衛工房製作と思われる絵巻物の

『山中常盤』(やまなかときわ)

 

こちらは

平家打倒のために奥州へ向かった牛若丸の身を案じ、その後を追って旅立った母、常盤御前に降りかかる悲劇の物語なのですが

 

そこに描かれたサディスティックな残虐さなどは

悪夢に魘されそうなレベルなので閲覧注意ですよ……。

 

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エントリー№2

狩野山雪(1590-1651)

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狩野山雪『雪汀水禽図屏風』(部分)



時の権力者たちから気に入られ、常に画壇の中心にあった狩野派

天下が徳川派豊臣派に分かれそうだ……と見て取るや

一門を東西二手に分け生き残り戦術を図りました。

 

江戸に行った狩野派(江戸狩野)は

幕府や大名を相手にして絶好調だったのですが

 

豊臣方に寵愛されていた京都の狩野派(京狩野)は

 

江戸時代に入ると、いまひとつパッとせず

貧乏クジをひいたような形となってしまいました……。

 

狩野山雪

そんな京狩野を率いる二代目当主(初代・山楽の養子)となります。

 

桃山の時代の空気をまとった豪壮な作風の師(養父)山楽とは打って変わり

 

山雪は几帳面な学者肌俗世間との交際を嫌い

家に籠って絵の事ばっかり考えているというタイプでした。

 

法橋の地位にまで叙せられ、功成り名を遂げた彼ですが

晩年、身内の借金の不始末で投獄されるという、非常に辛い目にも遭っています。

 

彼の絵には

奇妙に不自然な形でねじ曲がった木の枝や

奇怪な岩などがしばしば登場するのですが

 

その幾何学的な画面構成などからも

 

冷静で頭脳的な印象を受けるかたわらで

どこか鬱屈したような部分が感じられるような気がします……。

 

 

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エントリー№3

伊藤若冲(1716-1800)

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伊藤若冲動植綵絵』のうち『老松孔雀図』

 

京都の裕福な青物問屋にうまれた伊藤若冲

若くして身上を弟に譲り、楽隠居を決め込んでいます。

 

高価な材料を惜しみなく使って

心ゆくまで趣味的に独自の絵画を極めました。

 

彼は最初

狩野派から絵を学んだのですが

やがてそれに物足りなさを感じ

 

中国の古画を模写しながら

やがて

「写生」という所に行きつきます。

 

とはいっても、彼の場合

それは単に

物をそっくりそのまま描く、というわけではありません。

 

感性というフィルターを通し

内的なビジョンとして再構築され描き出されたそれは

 

華麗でファンタスティックな

若冲ワールドになっているのです。

 

そんな彼は

ほとんど、絵を描く事にしか興味が無いような人ではあったのですが

 

京都の市場の存続が危ぶまれた時などには

市場存続のために奔走するなど

 

世のため人のために一生懸命尽力するような一面もあったようですよ。

 

 

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エントリー№4

曾我蕭白(1730-1781)

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曾我蕭白『蝦蟇鉄拐図』(部分)

 

曾我蕭白(しょうはく)に関して知られている事は、非常に少ないのですが

本姓は三浦

丹波屋」を屋号とする京都の商家に生まれた

と考えられています。

 

グロテスク

エキセントリック

奇々怪々な絵を数多く描いているので

 

もしかしたら、画家本人も

相当な変り者なのでは……?

と思われるかもしれませんが

 

いやはや

まったくその通りでして

 

当時から奇人変人として有名だったようです。

性格は癇癪持ちで傲慢だったそうで。(^^;)

 

写生主義の円山応挙を敵視し(?)

「画を望むのなら俺の所に来い。絵図が欲しいんだったら円山主水(応挙)で良いだろうけどな!」

なんて事を言い放っていたそうです。

 

一方、円満な性格の池大雅とは仲良しだったようで

 

彼の家に誘われて蕎麦を食べに行ったところ

ついつい話に夢中になり、すっかりあたりが暗くなってしまい

 

(大雅)「うちに提灯ないから、行燈(あんどん)持ってってよ」

(蕭白)「そう?じゃ、この行燈使わせてもらうよ」

 

なんてエピソードが伝わっています。

暗い夜道を、両手で行燈抱えながら行ったんですかね……?(^^;)

 

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エントリー№5

長沢蘆雪(1754-1799)

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長沢蘆雪『虎図襖』(部分)

 

下級武士の子である長沢蘆雪(ろせつ)は、円山応挙の高弟です。

 

性格は快活で自信家で傲慢

 

(蕭白といい、蘆雪といい、どいつもこいつも……って感じですが)

 

そんな性格が災いしてか、何度か──少なくとも一回は──応挙から破門された事があるそうです。(-_-;)

 

多芸多趣味

馬術水泳剣術音楽なんでもござれ。

 

そんなある時

 

淀の藩主の前で独楽の曲芸を披露していたところ

 

ポーンと宙に投げた独楽を受け損じ

 

それが片目に突き刺さって流血!

 

そんな大惨事になりながらも、なおも平然として芸を続けようとしている蘆雪を、藩主お付きの侍が無理やり止めさせた……。

 

なんていうエピソードもあるそうです。(◎_◎;)

 

蘆雪の絵からは

なんというか……

 

「どうだい!」(^_-)

と言っているかのような

ケレン味みたいなものが感じられるような気がします。

 

辻惟雄さん曰く蘆雪のスゴさ

 

大画面を縦横自在に馳せめぐる線描の達人(バーテユオーゾ)としての水際立った腕前

にある────

 

とのこと。

 

やけにカワイイ無量寺『虎図』

もしかすると

悪戯心を起こした蘆雪が、巨大な猫を描いたのかも?

なんていう見解もあるそうです。

 

そんな蘆雪ですが

46歳の若さで大阪で客死しています……。

 

彼には、反感を持つ人が多かった事もあって

毒殺された

なんていう説もあるそうですよ……。

 

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エントリー№6

歌川国芳(1798-1861)

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歌川国芳『通俗水滸伝豪傑百八人之壹人 浪裡白跳張順』(部分)



歌川国芳

江戸末期の寛政9(1798)年

日本橋で紺屋を営む家に生まれた

チャキチャキの江戸っ子です。

 

12歳で人気浮世絵師歌川豊国の弟子となりました。

美人絵で評判の歌川国貞は兄弟子にあたります。

 

青春期にはなかなか評判があがらず、くすぶっていたのですが

 

葛飾北斎(37才年上)の仕事ぶりに影響を受け

 

30歳になるあたりから

豪快な武者絵でめきめきと頭角を現していきました。

 

西洋画の手法や怪奇趣味など

「良い!」と思ったものはどんどん取り入れて行く国芳

 

その後、作品の幅を広げていき

持ち前の想像力ユーモアセンス遊び心

人々をアッと驚かせるような絵をたくさん描き出していきました。

 

老中水野忠邦による天保の改革では

言論や風俗が厳しく取り締まられ

中でも

浮世絵などはやり玉に挙げられて

ギチギチに規制されていたのですが

 

そこは反骨精神にあふれた、江戸っ子気質の国芳

 

為政者を皮肉るような

暗喩をたっぷり忍び込ませた絵を描いてみせ

人々の喝采を浴びています。

(源頼光館土蜘蛛妖怪図』)

 

言いたいことが言えない、閉塞感の漂う時代にあって

風刺画スレスレの際どい絵を連発しまくる国芳

時代のヒーロー的な存在になっていました。

 

そんな痛快な男児国芳ですが

彼は猫が大好きでした。

 

彼の部屋にはいつも何匹もの猫がいて

絵を制作する際にも懐の中に猫を入れ、時折話しかけたりしながら、手を動かしていたそうですよ。

 

なんかちょっと、可愛いですよね。

 

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上にご紹介した

彼らに共通しているものは

「因習の壁を打ち破る自由で斬新な発想」

 

───とはいうものの

日本美術史を飾るような画家には、実はそういう斬新な人たちって多いんですよ。

(尾形光琳然り、葛飾北斎然り)

 

なので

 

「奇想の画家たち」は決して異端な存在ではなく

主流の中の前衛なのだと

辻さんは言われています。

 

(この本が出された1969年当時、彼らの存在はすっかり忘れ去られていたため、日本絵画に詳しい人の間でも「傍流」「異端」であると見なされ、まともに評価されていませんでした)

 

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伊藤若冲『向日葵雄鶏図』(部分)


それにしても、私が腑に落ちないのは

 

これほどまでの技量を持ち

同時代人からは「大家」という扱いを受けていた彼らをもってしても

 

時流によっては

顧みられる事が無くなってしまう

って所なんですよね……。(-_-;)

 

伊藤若冲のあんなに素敵な絵ですら

「エゲツナイ」

なんて言われてしまう時代もあったなんて

 

いかに芸術の評価というものが

移ろいやすい人心に左右されるか

 

ってことを物語っていますよねえ……。

 

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そんな事から考えると

 

芸術家という人達は

 

移ろいやすくアテにならない「他人の心」に合わせて作品を作るより

 

自分の感性を信じて

自分が「良い」と感じられるものを作る

という方が

正解なんだろうな、という気がします。

 

たとえ「自己満足」と言われようとも

自分自身が作品に対して納得できるのならば

 

少なくとも

その点においては一定の満足を得られますから。

 

最初から

受けを狙うために他人の好みに合わせる

という姿勢でいるよりは

 

好きな事をやっていたら

結果として他人にも受け入れられた

という方が

 

やっている方としても、ずっと幸せだろうし

それこそが理想的なあり方なんじゃないかな、と思います。

 

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ここに挙げられた「奇想の画家」の面々からは

 

自分のセンスに絶対的な自信を持っている

堂々たるところ感じられてきます。

 

世間から浮こうが

やりすぎ感があると言われようが

 

「これが好きなんだ!」

「これが俺のやりたい事だ!」

っていうのが

作品に強烈にあらわれている。

 

斬新さって、まさに

そう言う所から生まれてくるんじゃないでしょうか。

(画期的な芸術って、むしろ浮いてナンボって所がありますよね)

 

まあ

なんにせよ

 

自分のやりたいことを

自分のやりたいように表現できる

 

そこにこそ

 

芸術家の幸せのうちの、かなり大きな要素があるんじゃないかな……。

という気がします。

(作品が他人にウケるウケないは、その後の話)

 

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歌川国芳『其のまま地口 猫飼好五十三疋』(部分)



 

 

関連記事のご案内

 

国芳の弟子、落合芳幾&月岡芳年による明治の「新聞錦絵」もかなり強烈!

todawara.hatenablog.com

 

 

 

こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

 

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