先日、日本画の巨匠
鏑木清方(1878-1972)の随筆集
「明治の東京」(岩波文庫刊)を読みました。
その中にちょっと面白い事が書いてありましたので
今回はそれをご紹介したいと思います。
この本の中の
「明治の東京語」という章に
こんなエピソードが披露されておりました。
それはおそらく
この文章が書かれた昭和10年ごろの話だと思われます────
ある酒席で、作家の久保田万太郎(明治22年生まれ・当時46歳くらい)が
「お汁粉を……この次に何と言いますか?食べる?飲む?」
と訊ねてきました。
明治11年生まれ・当時57歳くらいの鏑木清方は、ためらうことなく、こう答えました。
「食べる」
すると、そばにいた芸者たち────特に、若い(おそらく大正生まれの)人達が口々に言いました。
「あら、そりゃ『飲む』だわ」
「そうよ、『飲む』に決まってるわ」
清方が
「餅も飲むのかい」
と反論すると、彼女たちは口々に
「お餅は食べるけど、お汁粉は飲むじゃありませんか」
昭和10年時の
ジェネレーション・ギャップ!
この当時、お汁粉に関しては
年配者は「食べる」
ヤング勢は「飲む」
が優勢だったそうですよ。
「こんなところにも言葉の移り変わりが窺われる」
と鏑木清方は書いていますが
令和を生きるみなさんは、どう思いますか?
昭和生まれの私としては
う~ん……
お餅が入っているのや、小豆の粒が残っているのはやっぱり
「食べる」なんじゃないの?
と思うけど
自販機で売っているような缶のお汁粉だったら
「飲む」かなあ……。(^^;)
明治11年に神田に生を受け
太平洋戦争末期に疎開するまで66年間
ずっと東京で暮らしてきた清方は
江戸の頃から下町で使われて続けて来た言葉に
自然と馴染みがありました。
そんな彼によると
昭和初期当時、東京下町で使われている言葉の中には
式亭三馬(江戸時代後期の作家)の「浮世風呂」や「浮世床」などに出てくるような言葉がたくさんあったそうです。
たとえば自分の事を
「おいら」
という類 ────
令和の今では
ヤンチャ坊主が使っていそうな自称ですが
清方の妻(照)のお父さん────都築家という旗本のお侍さんでしたが────
この方なども、自宅で目下の人々と対している時などには自分の事を
「おいら」
と言っていたそうです。
ちなみに
目上の人といる時には、さすがに
「わたくし」と言っていたそうですが。
旗本が「おいら」って
なんだか意外なような気もしますけど
実は私、時代小説の中で旗本が自分の事を「おいら」って言っているの
結構、読んだ事があります。
時代小説の作家さんって
こういうの、ちゃんと調べているんですねえ。
さらに意外な事には
奥さんのお祖母様────つまり旗本・都築家の大奥様だった方も、自分の事を
「おいら」
と言っていたそうです。
なんでも
江戸時代には女性も
「おいら」
という言葉を普通に使っていたそうで。
とはいえ、このお祖母様の使う「おいら」は決してガラッバチな言い方などではなく
軽~く、お上品な口調で
「おいら」
と言っていたそうですよ。
調べてみた所
「おいら」という言葉の由来は
「俺ら」だそうで
元々は複数形だったものが
単数複数どちらにも使われるようになったものだそうです。
かつては女性にも用いられたそうですが
考えてみれば
東北地方では女性の自称で
「おれ」「おら」が使われていますものね。
私の母(福島出身)も、娘時代には自分の事を
「おれ」
と言っていたそうです。
また
それ以外にも
「よくってよ」
「知らないわ」
などという女性言葉は
海老茶式部と言われた明治30年代の女学生から生まれたように覚えている……と清方は書いています。
彼曰く
明治25年に書かれた
尾崎紅葉の「夏小袖」あたりでは
女性の言葉遣いもまだまだ古風で
「~よ」「~わ」はまだ出て来ていない────とのこと。
今日び、リアルではあまり使われなくなりましたが
文芸やフィクションの場などでは、まだまだ広く使われている
「わ」「よ」などの女言葉
起源は、明治時代の女学生だったんですねぇ……。
この他にも
明治の初めにウサギブームや万年青(おもと)ブームがあったとか
築地の明石町には外国人居留地があったとか
色々と興味深い事が書いてありました。
章の一つ一つは割合と短く
ところどころに直筆の挿絵も入っていて
文章は平易で読みやすく
古き時代の日本の姿に、なんとなく懐かしさを感じるような随筆集でした。
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