TODAWARABLOG

戸田蕨です。小説書いてます。よろしくお願いします。

「富岡日記」~日本の近代製糸業の立ち上げ期に全力で頑張った武家娘お英ちゃんの手記

明治から昭和にかけて

我が国の主要な輸出品であった生糸

 

f:id:TODAWARA:20200116154213j:plain

その生産の現場を描いたものといえば、まず思い浮かぶのが

ああ野麦峠

などで劣悪な環境下

過酷な労働に従事させられていた若い女工さん達の姿ですが

 

今回ご紹介いたしますのは

現場がそこまでブラック化してしまうなど夢にも思えなかったであろう

日本の器械製糸の黎明期。

 

蒸気式の製糸工場というものが日本に初めて誕生し

 

これから新しいやり方で日本を豊かにさせるんだ!

 

という志と理想にあふれていた頃に

官営富岡製糸工場に派遣され

そこで得た技術を故郷に持ち帰り

地元の製糸業発展に貢献した士族の娘

 

和田英(えい)(1857年-1929年)が書いた

「富岡日記」という手記

です。

 

f:id:TODAWARA:20200119102208j:plain


幕末、鎖国が解かれると

日本から海外に向けて生糸バンバン輸出されました。

 

当時、ヨーロッパでは蚕の病気が広がっていて

繭や生糸の生産が落ち込んでいたせいもあり

日本の生糸はジャンジャン売れました。

 

しかし

質の悪い生糸まで輸出してしまったために

次第に

日本の生糸の評判は悪くなりつつもありました。

 

時代が改まり

明治となり

 

新政府はこの状態を

なんとか改善しなければ

と思いました。

 

さらに大局的な見地から

富国強兵・殖産興業という政策をすすめるため

 

生糸生産の模範工場として

フランス製の製糸機械を取り入れた

富岡製糸場群馬県に建設し

 

フランス人技術者の指導の元

明治5年に操業を開始したのでした。

 

f:id:TODAWARA:20200116153912j:plain

 

 西洋式の高度な製糸技術を全国的に広めるため

政府は工女を募集したのですが

 

まだまだ外国人に対する知識の乏しい、当時の一般庶民の中には

 

「西洋人は女の生き血を飲む」

 

などというデマを本気で信じている人もたくさんいて

工女集めは、なかなかはかどりませんでした。

 

f:id:TODAWARA:20200119113513j:plain

f:id:TODAWARA:20200119114344j:plain

「ひぇぇぇ~!!」「あいつらは本物の鬼じゃ~!!」

 

そこで業を煮やした大蔵省は各府県に通達を出し

ほとんど強制的に人員(13歳から25歳までの娘)を集める事にしたのです。

 

明治6年

 

かつて松代藩藩士であった英の父

横田数馬が区長を勤めている長野県の松代にも

「1区につき16人の工女を出すべし」

という県庁からの達しが届きました。

 

しかし、やっぱり

娘を人身御供にでも差し出すように考える人が多く

誰一人応じる人がありません。

 

やがて

「区長の所に娘がいるのに出さないのは、危険な所である何よりもの証拠だ」

などと言う声も現われだしたため

父は15歳になる次女の富岡に出すことに決めました。

 

ところが

 

実は英は、行きたくて行きたくて

「私一人でもいいから行きたい!」

と、ウズウズしていたのです。

 

f:id:TODAWARA:20200119104927j:plain

 

大喜びの英が富岡行きを決めると

「お英さんが富岡に行くらしい」

という噂が広がり

 

そのうち親類や友達の間で

「私も行きたい」

という娘が続々と現われ

16人の人数がそろいました。

 

富岡製糸場の門前に着いた時

その立派さを見て、英は夢かとばかり驚いてしまいました。

 

彼女たちはこれまでに

煉瓦造りの建物など、錦絵でしか見たことが無かったのです。

 

f:id:TODAWARA:20200116153755j:plain

 

後年、利益を追求することに闇雲になってからは

悲惨な状態になる工女の労働状況ですが

(どんな業界でも、上にいる人たちが利益追求ばかりを考えるようになると、現場はブラック化してしまうものですよね……)

 

出発の時点では理想も高く

かなり恵まれた労働環境にありました。

 

英達はそこで

「まゆえり」(駄目な繭を取り除く作業)

から始めて

「糸揚げ」へと進み

「糸取り」の技術を習得していきます。

 

ところで

 

明治初期の士族の娘さんというの

現代の女の子とは色々な点において

かなり違っています。

 

「まゆえり」から「糸揚げ」に昇格したばかりの時

 

揚げた糸がすぐに切れてしまうことに悩んだ英は

毎日毎日、作業場で両手を合わせて組み

大声はりあげて

 

「南無天照皇大神宮様、

この糸切れませぬよう願います!」

と祈るのです。

(蒸気の音がうるさいので他の人には聞こえないらしいです)

 

f:id:TODAWARA:20200119111834j:plain

 

そんな事をしているのが

ある時、旧旗本の娘である優しい先輩

おけいさんに気付かれてしまいました。

 

「あなたは毎日何を言っておいでなさるのです?」

 

「実は糸が切れて切れて困りますから、大神宮様を信心しているのであります」

 

そう答えた英に、おけいさんは

「それなら、私が切れぬように骨を折ってさしあげましょう」

と言って、それから仕事をフォローしてくれるようになりました。

 

そのおかげで英の仕事は上達し、彼女は

「これもひとえに神の恵み」

と喜んだのでした。

(神の恵みと言うよりは、優しい先輩の恵みなんじゃないかと思いますが……)

 

この無骨な真っすぐさ、純粋さが

いかにも侍の娘!

と言う感じでなんだか新鮮です。

 

まるで女子高生活のように楽しい

1年余りの研修期間を終え

 

英達は故郷、松代に

人力車を連ねて誇らしげに凱旋帰郷したのでした。

 

f:id:TODAWARA:20200118120543j:plain

 

「富岡日記」

ここで終わるのですが

 

帰郷した英達はこの後

地元に誕生したてホヤホヤの

六行社(1874-1878までは西条村製糸場という名称)に入ります。

 

出来たばかりの工場の稼働を

どうにか軌道に乗せていくまでの英の尽力が

 

続編にあたる

「富岡後記」

という手記に書かれています。

 

 

地元の有志達が資金を出し合って作った六行社

50釜を備えるフランス式の器械製糸場です。

 

民間としては精いっぱい頑張って作った工場でしたが

ピカピカに立派だった官営の富岡製糸場にいた英達の眼から見ると

それはいかにも貧相でお粗末なものでした。

 

最新の技術を身に着けてきた英達「富岡帰り」の工女たちは

一流エリートとして一目置かれ

新入りの工女たちの指導に当たりました。

 

けれども

 

莫大な資金を費やして造られた製糸工場については

うまくいくかどうか

疑問視している人が多かったようで

 

英達工女が道を通ると

「ぶた、ぶた」などと言われたり

「やめておくれよ西条の器械、末は雲助丸はだか」

などと大声で歌い囃されたりもしたそうです。

(酷いですね)

 

もしこの歌のようになったらその時は世間の人が何と申すであろう。

私共はどうしたらよかろうと、実に心配で心配で夜の寝覚めにもそのことが心にかかります。

もしそのようなことがありますれば、私などは地下に入りましても目を眠ることは出来ぬであろうと思いまして、何事も神仏の御力を願うより外はないと存じまして、毎朝祈念をして居りました。

 

f:id:TODAWARA:20200119112313j:plain

 

「富岡日記」

「富岡後記」

は日本の近代製糸業の草創期を記した貴重な資料なのですが

 

これを書いたお英さんの思考や行動のパターンが

良い意味で現代娘とはギャップがあり過ぎるため

 

彼女が非常に可愛らしく感じられてしまう所に

読み物としての魅力があると感じます。

 

武家って

「娘」ではあっても

「武士」の要素がものすごく濃いんですねえ。

 

何か困難にぶつかってめげそうになっても

そのたびに

「こんな事では、期待してくれている人々に対して申し訳が立ちませぬ!」

キリッ!と思い直して頑張るんです。

健気です。

 

決して泣き言は言いません。

 

f:id:TODAWARA:20200119105837j:plain

武士の娘!!!!

 

六工社が操業を開始してからの1年目は

富岡仕込みの近代的な製糸法で作られる糸と

日本で昔から行われていた伝統的な製糸法(座繰り)で作られる糸の違いが

経営陣にはあまり理解できていず

 

英たち富岡帰りの工女たちとの
意見の対立があったりもしたのですが……

(西洋人が求めていたのは、日本人から見ると見栄えはしなくとも、器械で作られている糸だったのです)

 

2年目以降

英たちが「良し」とする生糸横浜に持って行った所

本当にそれが西洋人に高値で売れたため

 

その評判は各地に伝わって

六工社といえば

生糸では並ぶものがない

とまで言われるようになりました。

 

そうなるともう

工女に向かって「豚」などと言ったり

酷い歌を歌いかける人などもいません。

 

f:id:TODAWARA:20200119112803j:plain

実に人は正直だと感心しました。私たちは嬉しかったけど、前から分かっていた事だから、別に威張ったりもいたしません。

 

 

後日

 

富岡製糸場の方から英たちに

「もう一度富岡に何人か来て欲しい」

と声が掛けられた事がありました。

 

英は「行きたい」と望んだのですが

父に

「何のために六工社を捨てて富岡に行く必要があるんだ」

と叱りつけられたため、思いとどまりました。

 

「花やかな富岡のこと

一日も忘られぬ所であります」

 

このように語る英にとって

富岡製糸場は、少女期の楽しい思い出がいっぱい詰まった

懐かしい母校みたいな場所だったんでしょうね。

 

f:id:TODAWARA:20200118125248j:plain

 

英はその後、県営長野県製糸場の教授となり

 

1880年(明治13年) 

23歳の時に、かねてから婚約していた同郷の陸軍軍人和田盛治と結婚します。

 

実子に恵まれなかったため迎えた養子の盛一

大人になってから鉱山技師になりました。

 

夫亡き後、息子と共に足尾銅山の社宅に暮らしていた英は

 

1907年(明治40年)から1913年(大正4年)

50歳から56歳にかけて

 

病床の母を慰めるために、少女期の事を振り返り

「明治六、七年松代出身工女富岡入場中の略記」

という手記をしたためました。

 

1927年(昭和2年)

英が70歳の時にこの手記は私家版として出版されました。

 

それから2年後の

1929年(昭和4年)

英は足尾で亡くなりました。享年72歳

 

 

その後

 

英が書いた

「明治六、七年松代出身工女富岡入場中の略記」

1931年(昭和6年)

信濃教育界により

「富岡日記」と改題され学術文庫として刊行されました。

 

 

富岡日記 (ちくま文庫)

富岡日記 (ちくま文庫)

 

 

 

以下

お英ちゃんゆかりの地

のご紹介をさせていただきます。

 

 

長野県松代市

 

英が生まれ育った松代は

真田十万石松代城の城下町。

 

現在もなお

歴史的建造物や武家屋敷が多くのこされています。

 

 

f:id:TODAWARA:20200118115904j:plain

 

真田邸や真田宝物館などを始め

観光案内所の周辺に見どころが集まっているので

ぶらぶらと歩いて散策するのに楽しそう。

 

六工社の跡はもう無いそうですが

英の生家

「旧横田家住宅」は今も立派に残ってます。

 

横田家は松代藩で郡奉行を務め

のちには最高裁判所長官や鉄道大臣なども輩出した名門。

 

屋敷は松代の中級武士の邸宅の典型的な間取りだそうです。

庭園には池などもあって

とても素敵な佇まいです。

 

 

松代までのアクセス

 

 上信越自動車道「長野IC」下車5分

電車 JRほか各社線「長野駅」下車 

そこからバス「古戦場経由松代高校行」に乗り換え「松代駅」下車(長野駅からは30分ほど)※バスは1時間に2~3本です。

 

f:id:TODAWARA:20200118131254j:plain

 

世界遺産 富岡製糸場

(群馬県富岡市富岡1-1)

 

製糸を行う繰糸場や繭倉庫などは

木の枠組みで壁に煉瓦を積み入れる木骨煉瓦造り。

(鉄筋じゃないんですねぇ!)

 

創建当初の状態のままで残されています。

 

 

f:id:TODAWARA:20200118120119j:plain

 

平成24年に誕生したキャラクター

「お富ちゃん」(永遠の14歳)の姿が

どことなく

15歳の「お英ちゃん」を偲ばせてくれます。

 

富岡製糸場周辺には色々と美味しいものが食べられるお店が多いみたいですよ。

 

個人的には群馬県の郷土料理だという

「おっきりこみ」

(きしめんほうとうをもっと太くした感じの麺を煮込んだ、うどんっぽい料理)

が気になります。

 

f:id:TODAWARA:20200119115557j:plain

 

富岡までのアクセス

 

 上信越自動車道「富岡」IC下車

電車 JR「高崎駅」から上信電鉄に乗り換えて「上州富岡駅」下車

 

駅から富岡製糸場までは徒歩15分ほどです。

 

 

f:id:TODAWARA:20200118131929j:plain




 

 

 こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

 

 f:id:TODAWARA:20210523073254j:plain

 

 

台風スウェル

台風スウェル

 

f:id:TODAWARA:20210523073316j:plain



 

 

f:id:TODAWARA:20200505115552j:plain