今回は漂泊の俳人
種田山頭火(1882-1940)の、俳句とその人生のご紹介をいたします。
大酒と自堕落に身を持ち崩しながらも
俳句の道に全霊を注ぎ
九州から東北までの日本各地を行乞して歩いた、明治生まれの俳人
漂泊の俳人であった事から
世間的な束縛から解き放たれた自由さだとか、旅情的なイメージも重なって
「 分け入っても分け入っても青い山」
「どうしようもないわたしが歩いてゐる」
「うしろすがたのしぐれてゆくか」
などの句が、多くの人に愛されています。
そんな山頭火
出家する以前から生活能力は皆無。
出家をしてからも
酒に溺れ、時には女を買う事すらあったという破戒僧。
俳句仲間からの評価は高かったものの
生前にはあまり広く世間に知られる存在ではありませんでした ────
《山頭火の生涯》
山頭火は
1882(明治15)年
現在の山口県防府市でを大地主していた種田家の長男として生まれました。
本名は種田正一。
上に姉が1人おり
下には妹1人と弟が2人。
(この後、青年期になってから、さらに腹違いの妹が3人生まれています)
彼が10歳の時
母・フサが井戸に身を投げて
自殺してしまいます。(享年33歳)
原因は父・竹治郎が
政治運動に夢中で家庭を顧みなかったためだとか
夫の女遊びに苦しんだせいだとか
色々言われているのですが
この事は、正一(山頭火)の心に
終生暗い影を落とすこととなりました……。
草しげるそこは死人を焼くところ
私が自叙伝を書くならばその冒頭の語句として──私一家の不幸は母の自殺から初まる──と書かなければならない
(山頭火の日記より)
母の死から1年後
末弟・信一が病死し
姉のフクは彼が進学して東京に行っている間に、嫁ぎ先にて21歳で病死。
母が亡くなってすぐに養子に出された、もう一人の弟・二郎は
のちのち種田家が破産した折
父が養家に借金をし、それを踏み倒したことから養家を追い出され
31歳で自殺…………
母を同じくする彼の姉や弟たちは
どういうわけか
次々に不幸に見舞われて
若くして命を落としています……。
ここを墓場とし曼珠沙華燃ゆる
14歳から
学友らと共に文芸同人誌を始めた正一は
地元の句会に顔を出したりし始めます。
19歳で上京し
早稲田大学文学科に進学するものの
神経衰弱のために大学を中退。
山口の実家に戻ります。
1906((明治39)年
父が近隣にあった酒造場を買い取り
種田酒造場を開業させたため
一家はそちらに移り住むことになりました。
ところが
事業はうまくいかず……
1908(明治41)年 正一が26歳の年
大地主だった種田家は家屋敷を全て売り払い
残ったのは酒造場だけになってしまいました。
「どうせいずれは禅坊主になるのだから、嫁はもらわん」
そう言っていた正一ですが
1909(明治42)年 28歳の時
7つ年下の佐藤サキノ(咲野)と見合い結婚します。
サキノさん、写真で見てみると
楚々とした、かなりの美人なんですよねぇ……。
彼女は結婚直後から
大酒飲みで生活能力皆無、読書ばかりしている正一を支え、大変な苦労をすることになります。
翌年、夫婦の間に
長男・健がうまれます。
吾妹子の肌なまめかしなつの蝶
味噌汁のにほひおだやかに覚めて
子とふたり
このような句を詠むほどまでに
妻子との間に愛情を育み
ささやかな幸せを掴みかけているにもかかわらず
正一はこの後、次第に
無軌道な酒の飲み方をするようになって行きます……
独り飲みをれば
夜風騒がしう家をめぐれり
正一は29歳の時に郷土文芸誌「青年」に参加し
山頭火というペンネームで、ツルネーゲフの翻訳などを発表しています。
(相当なインテリですよね……)
俳句の活動も活発で
田螺公(たにしこう)の俳号で定型俳句を作ったりしていました。
彼が俳号として「山頭火」を使い始めたのは
1913(大正2)年 31歳の時
荻原井泉水(おぎわらせんせんすい)主宰の俳句誌
「層雲」3月号に句を掲載された時からです。
「山頭火」というのは
60通りある干支(甲乙などの十干と十二支を組み合わせたもの)と中国古代の音韻理論を使用し
五行説による「火水木金土」などを組み合わせて作った
「納音(なっちん)」
というものの一つです。
たとえば
甲子(きのえね)の年であれば
「海中金」(かいちゅうきん)
乙酉(きのととり)の年であれば
「井泉水」(せんせんすい)
といったように
干支に対応して30種類もの納音があり
(2つの干支に1つの納音が対応)
2年ごとに移り変わって
60年で一巡するようになっています。
(主に占いなどの場で使われています)
とはいうものの
山頭火の場合は単に語の響きの良さで決めただけだそうで
彼の生まれ年(1882年)の納音は
「楊柳木」(ようりゅうぼく)
と、なっております。
1916(大正5)年
酒蔵の酒が腐敗するなどして
種田酒造場はついに倒産……。
種田家は破産し、父・竹治郎は行方不明になってしまいました。
山頭火とサキノの夫婦は
息子の健を連れて熊本へ移り住み
やはりというか何というか
経営は次第に
妻任せになっていきます。
(「雅楽多」はその後、額縁などを売る文具店になっていきます)
そんな
1918( 大正7)年の6月……
養家から離縁された弟・二郎が
岩国愛宕の山中で首つり自殺してしまい
度重なる不幸に打ちひしがれた山頭火は
ますます酒に溺れるようになっていきました……。
またあふまじき弟にわかれ
泥濘ありく
1919(大正8)年
37歳の山頭火は単身上京して
アルバイト生活を始めます。
雪ふる中をかへりきて
妻へ手紙かく
1920(大正9)年
夫婦は戸籍上の離婚をしています。
とは言うものの
夫婦の仲が決定的に悪くなってしまった、というわけではなく
その後もサキノは山頭火を経済的に支え続け
という間柄が終生続いていきます。
(このあたりの二人の心情は、どんなもんだったんでしょうねぇ……)
サキノは「雅楽多」を営み続けながら
女手一つで健を育てあげました。
ま夜なかひとり飯あたゝめつ
涙をこぼす
1923(大正12)年
東京で不安定な生活をしていた山頭火(41歳)は
関東大震災に見舞われてしまいます。
焼け出され、避難をしていたところを
巣鴨刑務所に拘置され
厳しい尋問を受ける羽目となってしまいました。
こうして
次から次へと襲い掛かって来る不幸に打ちのめされてしまった彼は
「諸行無常……」
ということをつくづく実感するのでした。
翌1924(大正13)年
熊本に戻った山頭火は
酒に酔って進行中の電車を急停止させる
という事件を起こし
顔見知りの記者によって、熊本市内の曹洞宗の法恩寺に連れていかれ
住職・望月義庵の元に預けられます。
これをきっかけにして
彼は禅の道へと入っていく事になりました。
法恩寺にて出家得度をし、名を「耕畝」とあらため
1926(大正15)年
44歳にして観音堂を去り
行乞流転の旅に出ることを決意します。
※行乞…僧侶が鉢を持って各家を訪ねて回り、食べ物を貰う修行
大正十五年四月、
解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た。
分け入っても分け入っても青い山
山陰、四国、小豆島
山陽、北九州、宮崎などを行乞して歩き
旅先で詠んだ俳句を「層雲」に投稿し続けました。
しかしながら
煩悩を打ち破る境地までにはなかなか辿りつけず
昭和6年には
泥酔して留置所にぶちこまれたりしています……。
(この時、彼は熊本に一室を借り、半年余り自炊生活をしていました)
うしろすがたのしぐれてゆくか
1932(昭和7)年
50歳になった山頭火は、行乞して歩き続けることに疲れを感じ
川端温泉(山口県)に庵を結ぼうと望んだのですが、それは叶わず
友人らの支援で山口市内小郡の地に
「其中庵」を編み、そこに落ち着きます。
(この頃、句集「鉢の子」「草木塔」刊)
この其中庵を拠点として
彼はその後
福岡、広島、神戸、京都、名古屋、信州……と旅に出たのですが
信州で体を壊して発熱し、入院の後、其中庵に戻ってきます。
(句集「山行水行」刊)
1935(昭和10)年
精神状態が悪化した山頭火は
カルモチン(催眠薬)を大量服用して自殺をはかるものの一命をとりとめ
死に場所を求めて
東へと旅立って行きました。
てふてふもつれつつかげひなた
岡山、広島、関西地方
鎌倉、伊豆、東京、山梨、
長野、新潟、東北、福井……
などなどの地を旅してまわり
俳句を作って歩きます。(旅の北限は平泉)
(この頃、句集「雑草風景」刊)
1937年(昭和12年)
55歳になった山頭火は
息子の健やサキノを訪れたのちに
下関の材木商店に就職したのですが長続きせず
べろんべろんに酔っぱらた末に
無銭飲食をして山口警察署に留置されてしまいます。
(この年、句集「柿の葉」刊 )
──私はその日その日の生活にも困つゐる。食ふや食はずで昨日今日を送り迎へてゐる。
多分明日も──いや、死ぬるまではさうだろう。
だが私は毎日毎夜句を作つてゐる。飲み食ひしないでも句を作ることは怠らない。
いひかへると腹は空いてゐても句は出来るのである。
水の流れるやうに句心は湧いて溢れるのだ。
私にあつては生きるとは句作することである。
句作即生活だ。
山頭火の随筆「述懐」より
彼が書いたこの文章は
また
次のように続けられています。
私の念願は二つ。ただ二つある。
ほんたうの自分の句を作りあげることがその一つ。そして他の一つはころり往生である。
病んでも長く苦しまないで、あれこれと厄介をかけないで、めでたい死を遂げたいのである。
── 私は心臓麻痺か脳溢血で無造作に往生すると信じてゐる。
「述懐」より
五・七・五という定型に収まっていない山頭火の句は
一見、俳句らしくなく
ほとんど詩のようにも見えますよね。
鴉啼いたとて
誰も来てはくれない
彼の句は
明治の終わり〜大正の初め頃に
正岡子規門下であった
河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が提唱した
「五・七・五の形にとらわれず心から湧きおこる自然なリズム(律動)で表現しよう」
という
自由律俳句の流れを汲んでいます。
山頭火の師匠的存在の
荻原井泉水(おぎわらせんせんすい)も、その流れにあり
井泉水の門下からは山頭火以外にも
「咳をしても一人」
などの句で知られる
尾崎放哉(ほうさい)なども輩出されているんですよ。
しぐれてぬれて
旅ごろもしぼつてはゆく
1938(昭和13)年
其中庵が崩れて住めなくなってしまったため
「風来居」と名付けて住みました。
そして翌
1939(昭和14)年
近畿、東海、木曽などを旅してまわった後、四国に渡り
お遍路の途上で
松山市城北の御幸寺の境内にあった納屋を改造し
「一草庵」と名付けました。
(この年、句集「孤寒」刊)
今日のをはりのうつくしや落日
1940年(昭和15年)
この年の4月、これまで折本(長く継ぎ合わせた紙を屏風のように折り畳んで作った昔の本)という形で出してきた句集を集成し
一代句集として
「草木塔」を東京の八雲書林から刊行しました。
出来上がったその本を句友らに配り歩くため
四国、中国、九州を旅してまわった後
(この年7月に句集「鴉」刊)
10月10日
一草庵で句会が催されましたが
庵主の山頭火はその最中
べろべろに酔っぱらって隣室で横たわっていたそうです。
彼がこのような状態になるのは、参加者は皆慣れっこになっている事なので
会はそのままお開きとなりました。
明くる10月11日の朝 ────
山頭火は
冷たくなった姿で発見されました。
死因は脳溢血に引き続いての心臓麻痺……。
享年58歳 ────
ほろほろほろびゆくわたくしの秋
あまりにも辛すぎる不幸の連続や
どうにもままならない
自分の心のありようなど
迷い、苦しみ、もがきぬく中で
彼は自分という存在や自分の人生そのものを
俳句や行乞といったものを通して
芸術として昇華させていったように感じます。
すぐれた俳句は──そのなかの僅かばかりをのぞいて──その作者の境涯を知らないでは十分に味はへないと思ふ、前書なしの句といふものはないともいへる、その前書きとはその作者の生活である、生活といふ前書のない俳句はありえない
昭和5年12月7日の行乞記より
彼はお世辞にも「立派な人」「悟った僧」だったとは言えませんでしたが
少しでも悟りの境地に近づきたいと願い、悪戦苦闘している、弱い、等身大の人間だったからこそ
彼の句は、たくさんの人々に共感される部分があるのではないかと思います。
寒空とほく夢がちぎれてとぶやうに
山頭火の俳句は
一つ一つを取り出してみても
とても味わい深いものが多いのですが
「句集」という形で並べられている
複数の句を読んでいくと
その瞬間瞬間の
彼の視点、感情、息遣いなどを
今、同じように体験しているような……
彼がいたその空間が
今ここに再現され、広がっているような……
──── そんな感覚になってきます。
人生というのは
得てして思うようには行かないものですが
そんな中にも
時には、ささやかな喜びがあり
生の中に
苦しい、楽しい、嬉しい、悲しいが
隣り合わせに(同時に)存在している……
彼の句集を読んでみた後、私はそんな感慨を抱きました。
たたずめば
風わたる空のとほくとほく
この記事の参考文献はこちら
ちくま文庫刊の
「山頭火句集」(村上護編)です。
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