今回は
与謝野晶子(1878-1942)が自らの歌を選び
昭和13年(60歳の時)に刊行した
「与謝野晶子歌集」
のご紹介をいたします。
与謝野晶子と言えば
「みだれ髪」
での情熱的、官能的な歌や
日露戦争出征中の弟に向けて詠んだ詩
「君死にたまふこと勿れ」
などで知られていますが
実は、彼女自身
若い時分に作った歌で
自らの歌風をこうだと決めつけられてしまう事には
大変不本意なものを感じていたらしく
この本に収められている2963首の短歌の内
23歳から27歳までに詠んだ
「みだれ髪」「小扇」「毒草」「恋ごろも」
などの歌集からは
54首しか選ばれていません。
それなのに
表紙に載っているのは「みだれ髪」なので……
もしこれを晶子さんが見たら
不満を漏らすかもしれませんねぇ……。(^^;)
本人が書いたあとがきによると
彼女が20歳前後で歌を作り始めた時には
若い頃の作品は、泣菫や藤村の模倣に過ぎなかったように思えるのだそうです。
彼女は、このように書いています。
後年の私を「嘘から出た真実」であると思って居るのであるから、この嘘の時代の作を今日も人からとやかくといわれがちなのは迷惑至極である。
教科書などに、後年の作の三十分の一もなく、また質の甚しく粗悪でしかない初期のものの中から採られた歌の多いことで私は常に悲しんで居る。
さらには
この本に初期の歌が54首入っている事にさえ
「実は入れたくなかったんだけれど
出版社が入れろって言うから仕方なしに入れたのよ」
というような事を述べています。
長く歌を詠んでいて
年を取るごとに円熟味や深みを増した
本当に良いと自分でも思えるような作品がたくさん出来ているのに
いつまでも世間の人からは
若い頃の鮮烈なイメージの作品ばかりが
「与謝野晶子の代表作」
みたいに言われるのが
どうしても納得いかなかったんでしょうね。
その気持ちは良くわかりますが
若い頃の作品をそんなに卑下しなくても……。
「乱れ髪」から選ばれている
この歌とか
やっぱり素敵だと思いますけどねえ。
詩や短歌の本って、文字数こそ少ないけれども
一編、一首読むたびに、それをじっくり味わう必要があるから
読むのには結構時間がかかりますよね。
でも、その分
読んでいる時には、ゆったりした時間が流れているようで
精神的にとても贅沢な気分にさせてもらえます。
日常の忙しなさからは切り離されて
心が保養をしている感じ
とでも言いましょうか。
ところで
この本に収められた短歌をよんでいるうちに
ひなげしの花を詠んだ歌が多い事に気づきました。
それが目立ち始めるのは
「夏より秋へ」(大正3年1914年刊)
という歌集以後です。
「夏より秋へ」に所収されているこの歌は
1912年(明治45年)
晶子が34歳の時、夫鉄幹の後を追ってパリに行った時のもの。
彼女の夫、与謝野鉄幹は
彼女より5歳年上で
10代の時から自他ともに認める
大変なプレイボーイでした。
晶子と出会った時
彼はすでにバツイチで妻がおり
(その時の妻も前妻も鉄幹が女学校で教師をしていた時の教え子!)
その上
何人もの女性と付き合っていたんです。
「それでも好き!」
という
火の玉のような情熱で結婚した晶子。
結婚してからも
鉄幹のプレイボーイっぷりは相変わらずだったそうですが
幼い頃から「源氏物語」に親しみ
「源氏物語」の現代語訳をライフワークとしていた晶子ですから
呆れたり妬いたりはしながらも
光源氏さながらの夫の行状に
決定的に愛想を尽かさないくらいの理解はあったのかも知れませんね……。
さらに
晶子が歌人として有名になるにつれ
鉄幹は歌人、詩人としてのスランプに陥ってしまい
うじうじするところもあったらしいですが
「でも大好き!」
とばかり
スランプに燻ぶる夫を救うため
フランスに遊学させてあげます。
その後まもなく
彼のいない寂しさに耐えかねたのか
それとも
恋の都パリにあの夫を長期間放流してしまうことに危険性を感じたのか
晶子は7人の子供たちを日本に置いて
彼の後を追い
フランスへと旅立ったのでした。
その時の旅で、夫と二人で見た満開のひなげしが
彼女の心に、よほど強い印象を残したのか
これ以降
ひなげしの花を詠んだ歌が非常にたくさん出て来ます。
燃えるように鮮やかに咲き
ほんの微かな風のうごきにハラリと散ってしまう
ひなげしの花
そんな花に
彼女は何か、自分に重なるものを見ていたのでしょうか……。
パリに続き、ロンドン、ウィーンなどを歴訪し、帰国した夫妻は
ヨーロッパの先進的な思想に魅せられていました。
その強い影響のせいか
その後生まれた四男は
「アウギュスト」
五女は
「エレンヌ」と名付けられてしまいます。
(※アウギュスト君は、後に「いく」に改名しました)
夫の浮気やスランプや
選挙に出て落選だとかなんだとか
色々あっても
晶子は鉄幹LOVE!!をつらぬき
夫婦の間には子供が12人という
おしどり夫婦でした。
(残念ながら一人は亡くなってしまいましたが)
鉄幹の長~いスランプ時代
与謝野家の家計は
晶子が孤軍奮闘しながら、ようやっと支えていました。
(なにしろ子沢山の大家族ですからねぇ~)
結婚してから40歳過ぎまでのほとんどの期間が
妊娠中か産後の大変な状態で
そんな体でありながら
大勢の子育てや家事をし
その上
文筆仕事までこなしているのですから
晶子さん
恐るべき
スーパーウーマンです!!
(◎_◎;)
それなのに
ここに載っている歌には
そんな生活の苦労なんて全然見えないんですよ。
スゴイですよねぇ……。
彼女の歌の源泉となっている精神世界には
生活とは切り離された豊かさがあったんでしょうね。
(芸術家って、そういうものなのかもしれません)
与謝野家はかなりひんぱんに旅行に行っていたようで
旅や温泉の歌もたくさん出てきます。
ほとんど一家の大黒柱となりながら家事育児をこなし
5万首もの歌を詠んで
さらに
女性の権利向上のための評論活動や
「源氏物語」の現代語訳もするなど
大変エネルギッシュに活動した彼女ですが
彼女の詠む歌には
肩ひじ張ったような所は全く感じられず
まったりと一緒に観光して
仲良く一緒に温泉に浸かっているような気分になります。
最愛の夫鉄幹は
昭和10年に気管支カタルが元になり
62歳で亡くなってしまいました。
この本の巻末には
彼の死後に詠まれた挽歌集
「白桜集」が収載されています。
そこには
まるで片翼を捥がれてしまった鳥のように
痛切な悲しみに満ちた歌たちが並んでいました。
鉄幹の死から5年後となる昭和15年
晶子は脳出血のため右半身不随になり
以降、病床生活を送ることになります。
その2年後の昭和17年
彼女は荻窪の自宅で亡くなりました。
享年63歳 ───
与謝野晶子、鉄幹夫婦のお墓は
多磨霊園に仲良く並んで建てられています。
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