今回は
「The Book of Tea」
として出版された名著
「茶の本」(村岡博訳)
のご紹介をいたします。
「茶の本」というタイトルではありますが
こちらの本は、茶道の細かい作法を記したものではなく
茶道というものを通して、そこにある
美的な精神や哲学などを
わかりやすく伝えるような内容となっております。
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岡倉天心(覚三) 略年表
1862(文久2)年
福井藩が横浜に開いていた商館「石川屋」(現在、横浜市開港記念館がある場所)に
そこを任されていた藩士の次男として生れる。
当初の名前は「角蔵」だったが、後「覚三」に改められる。
幼い頃より英語や漢学に親しんで育つ。
1875(明治8)年 13歳
東京開成所(2年後に東京大学に改編)に進み、絵を学びながら政治学と理財学を修める。
英語が得意だったため、講師のアメリカ人アーネスト・フェノロサ(1853-1908)の助手となり、彼の美術品収集を手伝う。
1880(明治13)年 18歳
東京大学文学部を卒業し、文部省に務めはじめる。
1881(明治14)年 19歳
フェノロサと共に日本美術の調査をする。
※当時の日本では、西洋文化崇拝の風潮や廃仏毀釈の余波などがあって、伝統的な日本美術が軽視される傾向がありました。
1882(明治15)年 20歳
文部省に籍を置きながら、専修学校(現・専修大学)の教官となり大活躍。
1886-7(明治19-20)年 24-25歳
フェノロサと共に欧米視察旅行。
1887(明治20)年 25歳
東京美術学校幹事となる。
1888(明治21)年 26歳
パトロンであった文部官僚・九鬼隆一男爵の身重の妻・波津子と不倫してしまう。
(九鬼夫妻の離婚後に生れたのが「いきの構造」で知られる哲学者の九鬼周造)
1889(明治22)年 27歳
美術雑誌「国華」を創刊。
1890(明治23)年 28歳
開校した東京美術学校の初代校長に就任。(副校長 フェノロサ)
1898(明治31)年 36歳
美術学校内に騒動が起こる!
(学内の派閥争い。先の不倫のために九鬼隆一と岡倉との仲が悪くなっていたという事情も、微妙に尾をひいていたようです……)
東京美術学校校長を辞職し、連帯辞職した横山大観や下村観山らと共に日本美術院を創立する。
(現在もある「院展」はここ主催の公募展覧会です)
1901-2(明治34-5)年 39-40歳
インドに渡りタゴール家に迎えられる。
1903(明治36)年 41歳
「The Ideals of the East(東邦の理想)」上梓
1904(明治37)年 42歳
この年からボストン美術博物館の東洋部顧問、部長として半年はボストン、半年は茨城県の五浦(いづら)で暮らすようになる。
「THe Awakening of Japan(日本の目覚め)」上梓
1906(明治39)年 44歳
「The Book of Tea(茶の本)」上梓
1913(大正2)年 51歳
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今では岡倉天心という名前の方で良く知られている彼ですが
「天心」と雅号で呼ばれる事は
生前にはほとんど無かったそうで
もっぱら「岡倉覚三」で通っていたそうです。
(私が読んだ岩波文庫版の著者名も岡倉覚三になっています)
日本美術界を復活させた
大功労者である天心ですが
第二次世界大戦の時に
京都が空襲を免れたのも
天心のおかげだった!
という説があるんですよ。
ラングドン・ウォーナー(1881-1955)が
日本の古美術を守るために
アメリカ政府に働きかけてくれたんだそうです。
※ただし異説もアリ……
このように
日本の伝統美術の恩人のような存在であった岡倉天心。
「茶の本」では、そんな彼の
美というものに対する考えや
芸術観が随所に披露されており
大変に興味深かったです。
たとえば
芸術作品と鑑賞者との間には
お互いを良く知ろうとする謙虚な心の交流が必要である
と説くこのくだり
同情ある人に対しては、傑作が生きた実在となり、僚友関係のよしみでこれに引きつけられるここちがする。
名人は不朽である。
というのは、その愛もその憂いも、幾度も繰り返してわれわれの心に生き残って行くから。
われわれの心に訴えるものは、伎倆(ぎりょう)というよりは精神であり、技術というよりも人物である。
呼び声が人間味のあるものであれば、それだけにわれわれの応答は衷心から出て来る。
各人とわれわれの間に、この内密の黙契があればこそ詩や小説を読んで、その主人公とともに苦しみ共に喜ぶのである。
「芸術鑑賞」の章より
技術的に、どんなに上手に仕上がっていようとも、作者の真摯な心がこもっていない作品は傑作にはなり得ない。
「全く、その通り!」
と、胸のすくような思いがしました。
この文章に続けて天心は
傑作と言われるものからは肝胆相照らすような親しみが感じられる一方、
技術にばかりに没頭して
「どうだ、おれってスゴイだろ?」
という域を脱せないような作品は、親しみが感じられず、平凡に終わってしまう。
という趣旨の事を語り
次のように述べています。
日本の古い俚諺(りげん)に「見えはる男には惚れられぬ。」というのがある。
そのわけは、そういう男の心には、愛を注いで満たすべきすきまがないからである。
芸術においてもこれと等しく、虚栄は芸術家公衆いずれにおいても同情心を害することはなはだしいものである。
「すきま」が必要である、っていう所がなんだか面白いですよね。
いっぱいいっぱいの状態ではなく
心には余白が必要なんですねえ……。
序文で弟の岡倉吉三郎(英語学者)が述懐しているところによると
天心の性格は狷介(頑固)で直情径行気味だったようですが
この本からは、そういうイメージとはちょっと違う
美を愛するロマンチストな部分とか
優しくて温かい、彼の一面が伝わってくるような気がしました。
まあ、茶でも一口すすろうではないか。
明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟(しょうらい)はわが茶釜に聞こえている。
はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。
「人情の碗」の章より
こちらの本は、英語で書かれていたものなので
村岡博(弟・吉三郎の弟子)によって、日本語に訳されているのですが
詩的で美しい表現に
「さすがは美術界の泰斗……」と
ウットリさせられてしまうような文章が随所に見受けられました。
たとえば
こちらのような……
原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。
彼はこうして、粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。
彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国に入ったのである。
「花」の章より
花によっては死を誇りとするものもある。
たしかに日本の桜花は、風に身を任せて片々と落ちる時これを誇るものであろう。
吉野や嵐山のかおる雪崩の前に立ったことのある人は、だれでもきっとそう感じたであろう。
宝石をちりばめた雲のごとく飛ぶことしばし、また水晶の流れの上に舞い、落ちては笑う波の上に身を浮かべて流れながら
「いざさらば春よ、われらは永遠の旅に行く。」
というようである。
「花」の章より
茶はもともと中国南部発祥で
薬として利用されていたのですが
4、5世紀になると揚子江流域の人々の愛好飲料になりました。
唐代に入り
詩人の陸羽が、茶の聖典「茶経」を著し、茶道を組織立てます。
宋代になると
茶道は、当時広く信じられていた道教思想と合わさり
やがて
道教的な教義を持つ仏教の南方禅宗が、茶の儀式を組み立てていきました。
達磨像の前に集まった僧たちは
一つの碗から聖餐のように儀式ばって茶を飲みました。
(これが日本の茶の湯の源流)
茶の葉は遣唐使によって我が国に輸入されます。
最澄が茶の種を持ち帰り、叡山に植えました。
1191年
南方禅を研究するために宋に渡っていた栄西も、茶の種を持ち帰り
宇治、栂尾(とがのお)、背振山(福岡と佐賀の間)の三か所に植えました。
南宋禅の広がりと共に
茶の儀式や茶の理想も広がって行き
室町時代には
将軍足利義政が奨励するところとなり
日本の茶の湯は完全に仏教から独立し
世俗の物として確立されました。
そのため、茶の美術では
「虚」
というものが大切にされます。
何物かを表わさずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。
かようにして大傑作は人が実際にその作品の一部分となるように思われる。
「道教と禅道」の章より
また
完成ということそのものよりも
不完全なものを完成させる過程こそが重要
(完成された状態は、見る者に生き生きとした想像力を働かせないから)
ということで
装飾においても、完成された状態とか、均斉などをことさらに避けたり
重複を避けたりする
などという所も大変に興味深かったです。
(生花があれば草花の絵は駄目、香炉や花瓶で床の間を二等分してしまうのもNGだそうです)
天心はこの本の中で
「茶は生の術に関する宗教である」
と言っています。
茶は純粋と都雅を崇拝すること、すなわち主客協力して、このおりにこの浮世の姿から無上の幸福を作り出す神聖な儀式を行なう口実となった。
茶室は寂寞(せきばく) たる人世の荒野における沃地であった。
疲れた旅人はここに会して芸術鑑賞という共同の泉から渇(かわき)をいやすことができた。
(中略)
そのすべての背後には微妙な哲理が潜んでいた。
茶道は道教の仮りの姿であった。
「茶の諸流」の章より
昨今
世界中で様々な意見の違いが先鋭化して
「人々が分断されている!」
などと言われていますが
本気で分断を憂い
心の通じ合いを求めるのならば
茶室に入る際に
武士が刀を外していくように
各々の思想信条は極力排除して
美しいとか
楽しいとか
美味しいとか
共通の体験や感情を通して、人々が無心に繋がることが出来る
茶の湯のような
思想上の空白地帯が 必要なんじゃないかな……
などと思ったりいたしました。
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