先日
アメリカを代表する文豪
マーク・トウェイン(1835-1910)
の短編集を読みましたので
今回は
その感想とご紹介を書こうと思います。
「トム・ソーヤーの冒険」(1876年)
「王子と乞食」(1881年)
「ハックルベリー・フィンの冒険」(1885年)
などの作品で
今なお世界中の人々に愛され続けている
アメリカの国民的大作家
ディズニーランドにも
「マーク・トウェイン号」っていう蒸気船や
「トム・ソーヤー島」っていう島があったりして
その名前の響きひとつにも
ノスタルジックな古き良きアメリカの風景が、心に浮かんでくるような気がしますよね。
今回私が読んだのは新潮文庫刊の
「マーク・トウェイン短編集」
こちらは
英米文学者の古沢安二郎氏(1902-1983)による翻訳となっております。
ここに収録されている小説は
「私の懐中時計」
「私が農業新聞をどんなふうに編集したか」
「百万ポンド紙幣」
「噂になったキャベラス郡の跳ぶ蛙」
「エスキモー娘のロマンス」
「実話」
「ハドリバーグの町を腐敗させた男」
以上の7編。
「文章には人柄が出る」
とはよく言われる所ですが
これらの物語や文章からは
活力にあふれた悪戯っ子的な作者の人柄が
滲み出ているように感じられました。
社会に対しての皮肉や風刺の効いた
ブラックユーモア的な作品が多くて
血の気が多そうな人だね!
(;・∀・)
って印象です。
収録されていた作品は
全て面白かったのですが
私のツボに特にハマったのは
「私が農業新聞をどんなふうに編集したか」と
「エスキモー娘のロマンス」の2編。
そのうち
「私が農業新聞を
どんなふうに編集したか」の方は
どんなお話か?と言いますと……
(以下、ネタバレします)
ーーーーーーーー
農業新聞の主筆が休暇をとっている間に、彼の代わりに新聞記事を書くことになった主人公。
農業に関しては素人以下の知識しかないのに
なぜか彼は自信満々です。
得意満面でデタラメな記事を書き
案の定
大炎上状態を引き起こしてしまいました。
世間の注目は大いに集めたものの
読者たちは怒り狂って
新聞社に押し寄せてくるし
社の信用はもはやガタ落ち……。
それなのに
この主人公ときたら
全く悪びれる所が無いどころか
困り果てている主筆に向かい
いけしゃあしゃあと、こんな事を言ってのけるんです。
私はお前さんの新聞をどんな階級の人間にも面白く読めるようにしてやることができると言ったが────そのとおりやったんですぞ。
お前さんの新聞の発行部数を二万部にふやしてやることができると言ったが、もう二週間もあればそこまで漕ぎつけたはずさ。
しかもいままでの農業新聞についたこともないような最高級の読者層をお前さんのために獲得してやれたはずなのさ
────ただしその中には百姓は一人もはいっていないだろうさ
ーーーーーーーー
だめじゃん!(笑)
ロクでもない 主人公が開き直って
皮肉交じりの偉そうな御託を並べている所も可笑しいのですが
(関係者からしてみればたまったもんじゃないですけど)
素っ頓狂な記事に逆上して新聞社に押し寄せて来た読者たちのクレイジーさも
なかなか強烈で笑えてきます。
これってなんとなく
現代における炎上マーケティングに似てるかも……。(;'∀')
「エスキモー娘のロマンス」の方は
文化的な違いからくる
価値観の相違のチグハグさが可笑しい、ユーモア作品です。
こちらもすごく面白かったのですが
人種問題やポリティカルコレクトネスに過敏な現代では
ちょっと際どい扱いを請けそうな作品かもしれませんね……。(^^;)
娘さんの話を
「ふんふん」と聞きながら
調子良くおだてたり、驚いたりしている聞き手の「トウェーンさん」
彼のあまりのノリの良さが
これまた笑えてくる感じの作品です。
巻末の解説では
この本を翻訳した古沢安二郎先生が
マーク・トウェインの人生を紹介しているのですが
これがなかなか
小説さながらの
波乱万丈っぷりでして
非常に興味深いものがありました。
一攫千金を夢見て銀山を堀りに行ったり
筆禍事件に絡んで決闘をやらされる羽目になり
その罪をのがれるためにカルフォルニアに逃亡したり
お金持ちの令嬢とロマンスの果てにゴールインしたり ────
1835年
ミズーリ州のフロリダという
ミシシッピー河流域の町に判事の息子として生まれました。
本名 サミュエル・クレメンズ
古沢安二郎先生の解説によりますと
彼はとんでもない腕白小僧だったそうです。
(トム・ソーヤーやハックルベリー・フィンを彷彿とさせますねぇ)
兄の印刷工場で働いていた17歳の時
アマゾン川を初めて下ったウィリアム・ハードン海軍中尉の冒険記事を読んだサム少年(後のマーク・トウェイン)は
自分も冒険がしたくてたまらなくなり
偶然拾った50ドル紙幣を元手に
ニュー・オリンズへと向かいました。
そこからブラジル行の船に乗りたかったものの
南米行の船の便はなかなか無く
それを待っているうちに、手持ちのお金はわずかになってしまいました。
そこで彼はアマゾン行きを断念し
水先案内人の見習いとして働き始めることになったんだそうです。
────このエピソード
いかにも「トム・ソーヤー」の作者らしい
ヤンチャ坊主的行動力が
非常にロマンを感じさせてくれるのですが
Wikipediaの方を見ると
どういうわけか
結構、書いてある事が違うんですよね……。
(オーマイガー!)
そちらの方では
兄が経営していたのは印刷工場ではなく新聞社で
サム少年はそこで2年間働いています。
オーリオンの新聞で最も活発な論争の的になった記事のいくつかは、弟のサミュエルの手によるものであるが、オーリオンが町を離れているときに書かれたものであった。
(Wikipediaより)
このあたり
「私が農業新聞をどんなふうに編集したか」
を彷彿とさせて、非常に興味深いのですが
(もしかして、アレは自分の実体験を元に書いたのか……!?)
こちらの説明では
17歳の時に
印刷工として働くため、故郷を後にセントルイスへ移った────となっております。
(アマゾン川を冒険したくてニュー・オリンズへ、という話では無い!)
そして
1857年 22歳の時に水先案内人の見習いとなり
翌1858年には水先案内人の資格を取って
──── と
このようになっています。
うーーーん
本当の所は、どっちなんでしょうね……!?
とはいえ
どちらの説明も
水先案内人としての仕事は
南北戦争で南軍に入隊することになる
25歳まで続けていた
という部分では一致していました。
蒸気船が座礁することなく
安全に通航できる限界の浅さは
水深2尋(約3.6m)だそうです。
そのため
船が難所に差し掛かった時
水先案内人は投鉛手に
計測した水の深さを報告させていました。
投鉛手は水の深さを
怒鳴るようにして報告します。
「測標3尋!──2.5尋!──2.5尋!──2尋(マーク・トウェーン)!」
──── 彼のペンネーム
「マーク・トウェイン」は
ここから来ているんだそうですよ。
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