TODAWARABLOG

戸田蕨です。小説書いてます。よろしくお願いします。

飽くことなき冒険魂!~植村直己「青春を山に賭けて」のレビューと感想

冒険家の植村直己さん

犬ぞりによる北極点到達を世界で初めて成し遂げ

さらに、犬ぞりによる単独でのグリーンランド縦断を成し遂げた1978年

私はまだ子供だったため

植村さんに対するイメージは

犬ぞりの人」

として心に焼き付いていました。

 

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実際の植村直己さんは

犬ぞりだけではなく

 

日本列島3000キロを徒歩で縦断したり

ロシア最高峰のエルブルス(5642m)に登ったり

南アメリカ大陸の最高峰アコンカグア(6960.8m)に冬山登山したりと

 

次々に心の中を占めて来る

実現困難な夢に挑み続け

それを達成し続けているという

不屈の冒険家だったのでした。

 

その植村さんが

1984年2月12日43歳の誕生日に

 

北米大陸最高峰のマッキンリー(2015年からデナリが正式呼称となる)に、世界初の冬季単独登頂を果たしたのち

消息不明になってしまったというニュース。。。

 

その頃、ティーンエイジャーになっていた私は

今もその時の衝撃を覚えています。 

 

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マッキンリー(デナリ)


今回ご紹介する

「青春を山に賭けて」

という本は

 植村さんが数多く書かれた手記の中で一番最初となる

29歳(1971年)の時に書かれたもので

 

彼が冒険の道へと踏み出すことになったいきさつや

世界初となる五大陸の最高峰に登頂するという

 

植村さんが二十代の青春の日々をかけて成し遂げた、快挙にまつわる苦労話などが

「近い過去の話」として語られています。

 

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昭和16(1941)年

兵庫県の農家に、7人兄弟の末っ子として生まれた植村さんは

 

高校生のころまでは、農業の手伝いをするのが嫌いで

部活動も勉強もあまりやる気がしない

悪戯ばかりしている少年だったそうです。

 

明治大学農学部に入ってから、ふと

「山岳部に入ろうかな」

と思いたち

駿河台の校舎の地下にある部室を訪ねた時から

彼の冒険人生はスタートしました。

 

様子を探るために見学に来ただけなのに

強引に入部させられてしまい

 

(こういうのって、大学の部やサークルでは非常~によくあるパターンですよね。。。(;・∀・))

 

新人のうちはシゴかれ怒鳴られ、いやいや山登りをしていたものの

学年が上がり、教えられる立場から教える立場になるにつれ

 

彼は山に対して

自分なりの考えを持つようになってきます。

 

4年生になった時

 

山岳部の友人である小林正尚さんが植村さんに

「アラスカに行って、氷河の山に登ってきたよ!」

という話をして聞かせました。

 

うらやましい~!!

 

と思った植村さんは、無性にライバル意識を掻き立てられました。

 

その時の、その強い思いが

この後の植村さんの冒険人生を決定づけました。

 

卒業してからの就職なんかどうなってもいい、せめて一度でもいいから外国の山に登りたかった。

それが自分にとってもっとも幸せな道だと思った。

 

「 ヨーロッパ・アルプスに行き

日本にない氷河をこの目で見たい!!」

 

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彼は、そう思い立ちました。

 

しかし、手元に金がありません。

両親はもともと山岳部生活に反対していたため

実家を頼る事も出来ません。

 

「とりあえず生活水準の高いアメリカに渡り

働いて資金を稼ぎ(=不法就労)

ヨーロッパ・アルプス山行の資金を貯めよう」

 

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そう考えた彼が

アメリカにいる先輩の知人にアメリカの事情を問い合わせてみた所

 

「悪いことは言わないから、事を起こす前に計画をやめた方が君のために良い」

 

とお叱りの返事が来てしまいました。

(;・∀・)

 

しかし、この言葉がかえって植村青年を意地にし

やってやるぞ!

と闘志を燃え立たせてしまったのです。

 

その後、植村さんは移民船でアメリカに渡り

カリフォルニアの果物農場で

不法就労のメキシコ人たちと共に働きながら

ヨーロッパ行きの資金を貯めていたのですが

 

移民局に捕まってしまいました。

 

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 そして

あわや日本に強制送還!?

という所まで追い詰められたのですが

 

アルプスへの情熱を理解してくれた当局の温情で許されて放免(国外追放)となり

彼はフランスに渡ります。

 

やがて植村青年は

オリンピックのスキー滑降の金メダリスト

ジャン・バルネ氏が経営するスキー場で働くこととなりました。

 

ジャン・バルネ氏はとても良い人で

植村さんの最大の理解者にもなってくれました。

 

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植村さんは、そこを拠点としながら

 

1965(昭和40)年 24歳の時

明治大学山岳部による

ヒマラヤ遠征隊に途中参加し

 

シェルパペンパ・テンジンさんと共に

ゴジュンバ・カン峰(7646m)に

世界初の登頂を果たしました。

 

これは大変な快挙として日本の新聞などにも取り上げられます。

 

しかし

 

植村さんには

「自分は途中参加で、登らせてもらったに過ぎない」

という思いが強く

心から喜ぶ気持ちにはなれませんでした。

 

そして

他の隊員たちのように骨身を削って下準備をしたわけでもないのに

自分だけがマスコミに大きく取り上げられたことに対して

申し訳ないような気分さえ抱いてしまうのでした。

 

私自身は他の隊員よりすべての面で劣っていると思う。

自分はもっと自分をみがき上げ、自分という人間を作らねばならないことを、この遠征でさとった。

私がこのあと、強く単独遠征にひかれたのはまさにそのためだった。

どんな小さな登山でも、自分で計画し、ひとりで行動する。

これこそ本当に満足のいく登山ではないかと思ったのだ。

 

 その後植村さんは

1966(昭和41)年7月 25歳の時

 

モンブラン(ヨーロッパ大陸最高峰4807m)単独登頂

および

マッターホルン(4475m)単独登頂を果たし

 

9月にはアフリカに渡ります。

 

10月

ケニアで一番高い山

ケニア山(5199m)のレナナ峰(4985m)に登頂しました。

 

ケニア山のふもとの樹林地帯には猛獣たちがたくさん生息していて

「食い殺された登山者もいるんだぞ!」

と、地元警察に止められたのですが

 

ジャングルに詳しいという地元民、キクユ族青年のジョンさんに

 

野牛が出たらザックを捨てて木に登れ。

 

象が出たら大きな木の間をジグザグに走って逃げろ。

 

ヒョウが出てきたら、絶対に背中を向けて逃げちゃ駄目だ。目をジッと合わせながらその場を通過すればよい。

 

などとアドバイスしてもらいながら登りました。

 

(現在では、このあたりもかなり観光地として整備されているらしく

ケニア山登山もここまで恐ろしくはないそうです)

 

 

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その8日後に、今度は

キリマンジャロ(アフリカ大陸最高峰5895m) の単独登山を成功させ

 

植村さんはフランスに戻りました。

 

昭和42(1967)年12月 26歳

 

お世話になったバルネ氏のスキー場を去った植村さんは

今度は南アメリカに渡ります。

 

翌昭和43(1968)年1月

 

アンデス山脈

エル・プラタ(6503m)に登頂

 

2月には

アコンカグア(南アメリカ大陸最高峰 6960m)の単独登山を成功させました。

 

この当時、アコンカグアは遭難する登山者があまりに多かったため

登山許可がなかなか出なくて大変でした。

 

さらに植村さんが計画していたのは単独での登山であったため

アルゼンチンの地元当局からは

「ロコ(馬鹿)」呼ばわりまでされた末での登頂だったのです。

 

アコンカグア登頂から10日後

27歳の誕生日を挟んだ2月15日には

 

アコンカグアから南に150~200㎞のボルティーロ山脈にある

5700mの無名峰に初登頂

 

地元のメンドサ山岳会から

「この山に命名してほしい」と言われて

 

母校の名前にちなみ

「ピッコ・デ・メイジ」(明治山)と名付けています。

 

その後

植村さんの冒険は、一旦

山から川へと移ります。

 

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ペルーのユリマグアスから

河口にあるブラジルの町マカパまで

 

アマゾン川6000㎞もの距離を60日間かけて

 

バルサという、簡易的な小屋を乗せた筏で

川下りの一人旅をしたのです。

 

川の中にはラニ

 

毎日、スコールに襲われて

突風、大雨、高波に嬲られ

死にそうな目に遭います。

 

強盗の二人組が丸木舟で近づいてきたのを

片手にナイフ、片手に櫂を構えて

仁王立ちで威嚇して追っ払ったりもしました。

 

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釣りあげたピラニアは煮て食べます。主食はバナナやタロイモです。

 

マカパに到着した植村さんは

多くの日系移民の人々から歓迎を受けるのですが

そこで思いがけない悲報を受け取りました。

 

植村さんの目を海外へと向かせてくれた

明大山岳部時代からの盟友で

ゴジュンバ・カン峰への遠征時にも苦楽を共にした小林正尚さん

交通事故で亡くなったというのです。

 

植村さんはアマゾンに入る前に

彼から手紙を受け取っていました。

 

そこには

「結婚したんだ」

という報告と

「アマゾンに入るとか聞いたが、山ならまだしも、アマゾン川下りなどという危険な冒険はするな」

という忠告が書いてありました。

 

だからこそ

小林君には今回のアマゾンの旅の話を

一番先に聞いてもらいたかったのに。。。

 

 

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その後、植村さんはアメリに渡り

北米最高峰のアラスカ、マッキンリー(6194m)単独登頂を試みたものの

 

4人以下の登山は禁止!

と言う国立公園のルールに阻まれ

一旦断念します。

 

そうかといって、せっかくアラスカまで来てどこにも登らないというのも残念至極

ということで

アラスカ東部にあるランゲル山脈の

サンフォード山(4952m)に登り

 

4年5か月ぶりに日本に帰国しました。

 

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都心には高速道路が縦横に走りまわり、めまぐるしい東京に、私はしばしとまどいを感じた。

五年近くのブランクのある私は、もう生存競争の激しい日本の社会には、ついていけないような気がしてならなかった。

 

これが久々に日本に戻って来た

27歳の植村青年の気持ちです。

 

あれだけバイタリティにあふれる冒険家が

経済発展著しい大都会のコンクリートジャングルに対しては

このような感慨を抱いてしまうのが

なんだか意外じゃありませんか?

 

魚にも、真水でなければ生きられない魚

海水でなければ生きられない魚がいるように

人はそれぞれ、自分の本分を活かせる場所が違う、って事なのかもしれませんね。。。

 

(中には真水でも海水でも生きられる器用な魚もいますけど)

 

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昭和44(1969)年

日本山岳会エベレスト(世界最高峰8848m)登山隊の派遣を決定。

 

植村さんはこれに参加します。

 

そして

昭和45( 1970)年5月11日 29歳

 

植村さんは、共に東南稜ルート第1次アタック隊を任されていた松浦輝夫さんと二人で

日本人初のエベレスト登頂を果たしたのでした。

 

二人はエベレスト山頂の雪の中に

この作戦の途中で心臓麻痺により亡くなってしまった成田隊員の写真と

明大山岳部の盟友、小林正尚さんの写真を

涙を流しながら埋めました。

 

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エベレスト登頂を果たしたことにより

植村さんはヨーロッパ、アフリカ、南米、アジアの最高峰を登った事になりました。

 

彼の目はいよいよ

唯一残されている北米大陸最高峰

マッキンリーに向かいます。

 

とはいえ

今度もやはり、なかなか単独登山の許可は下りませんでした。

 

ぐったりとしてしょげ返る植村さんに

アメリカ人登山家ジン・ミラー氏が協力してくれて

なんとか公園長の許可をもらい

 

1970年8月

ついにマッキンリーの単独登頂を成功させたのでした。

 

こうして植村さんは

 

29歳にして世界初

五大陸最高峰登頂者となったのです。

 

 ところが

 

マッキンリーの頂に立つやいなや

植村さんの胸にはもう

新たな夢が沸き上がっていました。

 

それは

南極大陸

単独横断。

 

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一つの目標をクリアしたら

すかさず新たな目標が出て来るという

 

植村さんの冒険家魂は止まる所を知りません。

 

おそらく

昭和53(1978)年犬ぞりによる北極点到達

犬ぞりによるグリーンランド縦断

南極横断を視野に入れてのものだったのでしょう。

 

しかし

 

昭和59(1984)年2月

真冬のマッキンリーでの遭難のため

 

南極大陸横断は

果たせぬ夢となってしまいました。。。

 

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もしかしたら

死んでしまうかもしれない。

 

よしんば死なないまでも

 

取り返しがつかないほどの

大怪我をするかもしれない。

 

それなのに

 

どうして冒険などするのか?

 

そう思う人は多いかと思います。

 

私の単独登山にしても、やはりひとつの登山形態として、未知なものへの探求と可能性への挑戦、さらに大きくいうなら、人間の可能性への挑戦ではなかろうかと思っている。

 

 本書の中で植村さんはこのように書いています。

 

そしてまた

このようにも。

 

山登りはたとえどんな山であろうと、自分で計画し、準備し、自分の足で登山する。

その過程が苦しければ苦しいだけ、それを克服して登りきった喜びは大きい。

 

 

この本は

「青春を山に賭けて」

というタイトルですが

 

冒険で命を完全燃焼させた植村さんの

43年という短い人生は

最後まで青春だったのではないかなと思いました。

 

 

1976年に補筆された本書の

「文庫版のためのあとがき」

35歳の植村さんはこのように語っています。

 

 

結局、というよりも、最初からわかっていたことかもしれないが、山は他人のために登るものではないのだと思う。

誤解されてもしかたがないけれど、山は自分のために登るものだと思う。

誰からも左右されない、自分の意志ひとつで行動できる単独行であれば、それが人のためではなく自分のためであればあるだけ、すべてが自分にかえってくる。

喜びも、そして危険も。

私は五大陸の最高峰に登ったけれど、高い山に登ったからすごいとか、厳しい岩壁を 登攀したからえらい、という考え方にはなれない。

山登りを優劣でみてはいけないと思う。

要は、どんな小さなハイキング的な山であっても、登る人自身が登り終えた後も深く心に残る登山がほんとうだと思う。

 

 

 

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こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

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台風スウェル

台風スウェル

 

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