今回は、戦前のスター作家
直木三十五の生涯を
甥御さんにあたる元㈱テレビ東京社長
植村鞆音さんがお書きになった本
「直木三十五伝」の
ご紹介をいたします。
この賞の名を知らない人はほとんどいないほどであるにもかかわらず
今や、作品や人柄について語られることが、極端に少なくなってしまっている作家
彼に対する文学界隈のその冷淡さに、私は訝しさをと憤りを感じています。
これこそがまさに
表舞台に立ち、稼ぎ頭として文学界、出版界に多大な貢献をしているにも関わらず
作者の死後には不当なほど顧みられることがなくなり
文学史の年表などでは、どういうわけか、ほとんどその存在が無視されているという
大衆文学(エンターテインメント小説)の扱いを
象徴しているかのように思えてなりません。
なんなんでしょうね?
この、文学史上における
純文学至上主義というか
大衆文学差別みたいな状態は!
大衆文学の人気があってこそ、商売面で成り立つ事が出来ている日本の文学界が
過去の大衆小説作家たちの実績を余りにも軽視(というか、ほとんど無視)している。
そのような態度はもはや
「忘恩!」
と言うしかありません。(-_-メ)
─── とまあ
言いたいことは色々あるのですが
その辺の憤りはひとまず、置いておきまして……。
今や、語られることがあまりに少ないため、謎のベールに包まれているような
直木三十五ですが
彼の10歳下の弟、清二さんのご子息である、植村鞆音さんがお書きになったこの本を読むと
彼の表情、仕草、息吹までもが、眼前に生き生きと蘇ってくるような気がします ───
昭和9年2月24日
43歳の若さで亡くなった直木が
死のほんの2か月前に完成させたという、横浜市金沢区富岡の邸宅。
その跡地にある彼の文学碑には
「藝術は短く 貧乏は長し」
という言葉が刻まれているのですが……
しかし、植村さんによると
これはどうやら直木本人の言葉ではないそうです。
直木の「哲学乱酔」という随筆の中に
「恋は短く、貧乏は長し」
という言葉があったのを
昭和35年に記念碑を建てるにあたって
発起人達(大佛次郎や平野零児など直木の友人達)が
「この方が直木らしいよ」
と作り直したのだそうです。
「恋は短く」のままの方が良かったか?
「藝術は短く」にして良かったか……?
まあ、どちらにしても
「貧乏は長し」の部分は
全くその通りだから変える必要無し!
って事なんでしょうね。(^^;)
当代随一の人気作家で
書けば書くだけジャンジャン稼げたにもかかわらず
直木はどういうわけか
常に
借金に追われていました。
お金が手元にあればあるだけ
いや
たとえ無かったとしても
人から借りてまでして
パッパと散財してしまうタチだったようです。
経済観念が貴族的……
と言いましょうか
(実家は大阪の古着屋で、どちらかと言えば貧しい方だったのですが)
生活費などはむしろ後回しで
遊びとか、エエ恰好しいのためなんかに
底抜けにお金を使ってしまったようです。
そんな直木は
高利貸しからしか金を借りない
という哲学を持っていて
その上
借金取りから逃げない
というポリシーがありました。
極端に無口という自分のキャラクターを存分に活用し
借金取り達がどやどや押し寄せて来て
哀願しても
全く返事をせず
泣いても怒っても
ジッと黙ったまま。
脅してもすかしても怒鳴っても
一言も喋らず
うんざりするほど長い時間
さんざんに彼らをじらした挙句に
ぼそっと一言
「今は無い」
これで借金取りたちを撃退してしまいました。
彼の開き直りっぷりがあまりに見事過ぎたので
仕舞には、借金取り達からも一目置かれてしまっていたようです。
このように
大変に無口な直木なのですが
女性には結構モテていました。
寿満さんという美人の姉さん女房を持ちながら
芸者の豆枝さんや織恵さんなどといった恋人が何人も!
無口で肝の据わった男性が魅力的に見えるのは、なんとなくわかるような気がしますが
既婚男性の浮気がこんなに大っぴらに許されていたというのも
「お妾さん」というものが普通、一般的に認められていた
あの時代だったからこそ───なんでしょうねえ……。
(現代だったらマスコミに叩かれまくっているでしょうね)
直木は飛行機が大好きで
東京⇔大阪間をしょっちゅう飛行機で移動していました。
(当時、日本航空輸送という会社の飛行機が、東京~大阪間を週12往復していたんですよ)
旅客中最多回数を搭乗し
レコード保持者だと自慢しているくらいなので
もし彼が現代に生まれ変わっていたら
まず間違いなく
マイル修行僧になっている事でしょうね……。
(マイル修行って何?と思った方……それに関する記事はこちらです)
自動車も好き。
パノール号ロードスターを自家用車として持っていました。
(でも、さすがに高価すぎるので、親友の菊池寛と共有です)
事業はハッキリ言ってあまり上手ではないのですが
どうにも好きで仕方ないらしく
すぐに事業に手を出したがりました。
出版社を作っては失敗し……
映画を作っては失敗し……
無口でおとなしい
とは言っても
決して穏やかな性格ではなく
傲岸不遜と言われた彼は
とんでもなく世間をざわつかせてしまうような
ゴシップ記事を書くのが大得意でした。
直木が書いたとされるゴシップ記事の中で、もっとも有名で、かつ掲載後問題を引き起こしたのは「文壇諸家価値調査表」というものである。
これは、大正十三年十一月号の「文藝春秋」に掲載された。
内容は、当時文壇で活躍していた六十八名の作家を、「学殖」「天分」「修養」「度胸」「風采」「人気」「資産」「腕力」「性欲」「好きな女」「未来」という十一の項目で品定めした採点表である。
匿名記事であるから執筆者は特定できないものの、
「あんなえげつないことを考えるのは直木しかいない」
と当時もっぱらの噂であった。
カモフラージュのためか直木本人も登場している。
ここに書かれた採点表をいくつかあげてみますと
「学殖」
最高点は芥川龍之介の96点
低得点者は宇野千代の32点
(ちなみに当時、直木は33歳、室生犀星は35歳、泉鏡花は51歳の大先輩です……)
「天分」
最高点は泉鏡花の99点
次点が芥川龍之介で96点
(直木は芥川には一目置いていたみたいです)
どーんと低く付けられているのが
小島政二郎21点……
「風采」
里見弴(確かにイケメン)
九條武子(大正三美人の一人)
の二人が99点
ちなみに直木自身は86点。(自己評価高いです)
「度胸」
九條武子が100点、三上於菟吉が97点
直木自身は96点
「腕力」
今東光が100点
直木は20点
そして芥川龍之介が0点
それにしても、大先輩なのに、泉鏡花
ものすごくいじられていますね……。
「好きな女」
芥川と川端康成は
「なんでも」!!
谷崎潤一郎は「洋装」!!
「芸者」!!!!
(^_^;)
この「価値調査表」はあまりに露骨なので文士の間で物議をかもし、文藝春秋社に抗議を申し込んだり断交する者も現れた。
義憤を感じた横光利一は、文藝春秋社社長菊池寛にあてた抗議文を書き讀賣新聞社文芸部に速達で送付した。
いわゆる文壇との絶縁も辞せずの覚悟であった。
これを知った親友の川端康成が翻意を迫り、ようやく納得した横光と川端が深夜讀賣新聞社まで円タクで駆けつけ、まだ受付に放置してあった手紙を取り戻して、ことなきを得るという一幕もあった。
早稲田で同級だった西條八十は、主として早稲田出身の文士たちが直木のゴシップ記事で餌食にされるのを目のあたりにして、級友の木村毅に、
「おれは直木と親しく付き合わなくてよかったよ」
としみじみいったそうである。
確かにこんなランキングを発表されたら
文士の皆さんは、たまったもんじゃありませんよねぇ……。
嬉々としてゴシップ記事を書きまくる直木!!
まるで嵐のような男!!
こんな事をしている直木ですが
意外と、文士仲間たちからは嫌われてはいないんです。
むしろ、不思議と好かれていたりします。
昭和8年「モダン日本」という雑誌に直木が書いた
「私の友人名簿」という文には
菊池寛や吉川英治など54名の友人達が取り上げられているのですが
「文壇諸家価値調査表」に激怒した横光利一も
彼をなだめた川端康成も
揃って「私の友人」として紹介されています。
大いに遊び
700篇にも及ぶ小説やエッセイをガムシャラに書きまくり
不摂生の末
病に倒れてしまった直木三十五。
その若過ぎる死は傷ましく
非常に惜しまれもするのですが
もし仮に人生をやり直せたとしても
彼はやっぱり、このような生き方を選ぶような気がします。
太く短く、華のある彼の人生は
まるで
ドーン!と派手に打ちあがり、パーッと輝きを放った後に
一瞬で散って行く
大輪の打ち上げ花火……
全力疾走で43年を駆け抜けた直木三十五の生涯に
私は
そんな印象を受けました。
関連記事のご紹介
直木三十五がウケる小説のコツを伝授!「大衆文芸作法」
こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。