今回は
直木三十五と吉川英治の交流
について書こうと思います。
吉川英治の名作
「宮本武蔵」
が生み出されるきっかけには
直木三十五が唱えていた
「武蔵非名人説」
というものがありました。
剣道の歴史について非常に熱心に研究していた直木が
「宮本武蔵は残忍過ぎてどうも好かん!」
という調子で
散々、武蔵をこき下ろすような文章を書いていた頃
読売新聞の企画で
三人で座談会をすることになりました。
その席上で
武蔵を「スゴイ人」だと認める
菊池&吉川
VS
武蔵を絶対に認めない
直木
という構図になり
後日
吉川は「文藝春秋」誌上で
直木からこんな挑発を受ける事になったのです。
「吉川は私の論難に考証的根拠がないのを指摘しながら、自分が何ら考証的根拠を示さず、武蔵はえらいとか、精神力も彼の如きはとか、断言しているのは少しおかし過ぎる。
どういう風に武蔵はえらいのか、その実例考証をいちいち発表してもらいたいものだね!」
とりあえず
吉川は即答する事を避けました。
直木のこの手を喰うと、私はまんまと、武蔵以上傲岸で不遜で仮借のない彼の木剣を、そら商売と大上段から貰ったに違いない。
(中略)
僕は立合わないうちから敗れを知っていたから立たなかったのだ、そんな誘いの剣尖につり込まれたらよい見世物である。
しかし吉川は心の中で
「今に見ておれ」
と闘志を燃やしていたのでした。
だが、僕はそのまま引き退がるつもりではなかった。
宿題として、自分に答えうる準備ができたらお目にかけるつもりだった。
以来忘れたことはない。
事武蔵に関する限りどんなくだらない物でも、断簡零墨、心にとめて五回や十回の応戦には尽きないだけの論駁を持とうと願っていたのである。
ところが、先へ死んでしまった。
直木が42歳という若さで亡くなってしまったのが
昭和9年2月26日。
吉川が朝日新聞紙上に
「宮本武蔵」
を連載し始めたのは直木の死の翌年
昭和10年8月の事でした。
吉川英治を流行作家から国民作家へと飛躍させた
名作「宮本武蔵」誕生の源には
大衆文学界の好敵手であり盟友でもあった
直木三十五との間に
剣豪同士の立ち合いさながらの
こんなやりとりがあったのです。
吉川英治は直木に対し
「随筆 宮本武蔵」の中でこんな風に書いています。
新聞小説に武蔵を書き、ここにこんなことを書くのも、しかし、亡友の毒舌の恩である。
あの男のことだから、ここまでのことでも、たくさん異論を抱くだろうが、死んだが損というものだ、こんどはそッちで苦笑していてくれ。
この文からもおわかりいただけるように
吉川は直木の事を大変高く評価していました。
ある時
フランス人作家のモーリス・デコブラが
「日本の作家の仕事場を見たい」
と言って
突然吉川邸を訪れ
吉川英治の三畳の書斎を見て呆れながら
自分のフランスの屋敷と書斎がいかに豪華で広大か
とか
自分がどれだけジャンジャン金を稼いでいるか
などを得意げに自慢してきたことがありました。
その時
吉川英治は相当カチンときたらしく
こんな言葉を書いています。
デコブラ氏ぐらいな作品を書く人間は、日本には若い人の中にも幾人もいると思う。
川口松太郎君あたりと並べて見たって、ひいき眼なしに、川口君の方がよっぽど増しだ。
もし、直木三十五を仏蘭西に生れさせたら、デコブラを給仕につかうぐらいな金持ちになっているだろう。
それが、日本の文壇に生れたばかりに、ボロ自動車一台持ちかねたり、所得税未納者としていじめつけられたりしている。
そういう国家と文壇にありながらも、あの病骨で、日本主義を唱えていたなどは、壮絶といおうか、悲惨といおうか、弔うことばがない。
吉川英治「草思堂随筆 僕の三畳」より
直木が亡くなるほんの少し前
昭和8年の年の暮れ
直木は吉川に向かって言いました。
実はその前年、吉川は雑誌に書いた随筆で
「平将門を書きたい」と言っており
それを見た直木が
「将門はおれも調べているんだ」と言い
どっちが早く手を着けることになるのか
暗黙のうちに競い合っていたのでした。
ところが
新年号に直木の作品はありませんでした。
その後会った時に訊ねてみると
「二月号から書く」
と言い
断じて「やめた」とは言わなかったそうです。
恐らくああ病が重ならかったら着手していたろうにと、僕は惜しくも思い、またかれがあの病弱な身体を以てする勉学と意志に、一歩越されていたことを、今も恥かしく思っている。
吉川英治「窓辺雑草 硯滴」
《直木三十五のこと》より
この「窓辺雑草 硯滴」の文章は
直木の臨終を見届けた直後
大変な悲しみの中で書かれたもののようです。
先の引用文の後には
このような言葉が続いています。
大衆文芸の勃興を契機に、直木君と知って十年、僕ら同文同耕の輩が、かれを友として享けた恩恵は大きい。
彼を失って、さらに痛切に思う。
彼は、大衆文学にとって、大きな防風林だった。
殊に、純文学の弾道に対しては、常に最前線によって、背後の戦友を捨て身で代表していた。
戦友ではあっても、彼の自尊毒舌ぶりや、彼の傍若無人さには、正直、不快を感じ、暗黙の競争心を煽られたこともあったが、
それも今となれば、今日にまで来る大衆文芸の伸長には、なくてはならない貴重なる叱咤であり、鞭撻であった。
常に、死に、死を背負って、弾道に立ったあの姿はもう僕らの陣営に見ることは出来ない。
十年、共に苦艱して来た。
直木の死が迫るころ
吉川英治は作家仲間の大佛次郎(「鞍馬天狗」シリーズの作者)と顔を合わせていました。
吉川を見た大佛はいきなり彼の首に抱きつき
「お互いに体を丈夫にしようぜ。
お互いに無駄な仕事はしまいぜ。
直木も今度はむずかしい。
あいつ、馬鹿といってやりたいこともあったが、今度はあいつに、笑われないようにやる番だ。
しっかりやってくれよ」
そう言って、涙を流したのだそうです。
そのことについて
吉川はこう綴っています。
十年塹壕に暮しあった者でなければ、今の僕らの気持は分ってもらえない。
現状の大衆文学の繁栄は、直木、大佛、白井、長谷川、誰、彼と個々の営みかのように見えるが、決して、分営的存栄ではない。
個人力と個人力の結成なのだ。
相互に足らざるものを補い合っている混成力であればこそ、無数の衆を擁し得ている繁栄なのだ。
忘れてはならない。
直木君のあの強い個人力は、大衆作家全体の上にも無形な力であり誇りだった。
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