上下黒ぞっきの着流しに
顔を覆ったお十夜頭巾
チャラリチャラリと雪駄で歩く
剣の達人にして女好きの辻斬り浪人
お十夜孫兵衛 ────
「鳴門秘帖」
に出て来るダークヒーロー
お十夜孫兵衛ですが
彼の服装の描写でよく出てくる
「黒ぞっき」
とか
「縮緬ぞッき」
という言葉。
この「ぞっき」の意味が
私には長い事謎のままでした。
手持ちの「角川国語辞典」には
「ぞっき本(殺本)」という言葉が掲載されてあります。
意味は俗語で
「特別の安値で投げ売りされる新本」。
ネット上を調べて見ましても
「ぞっき」という言葉に関しては
「ぞっき本」くらいしか出て来ませんでした。
意味は、やはり
「古書市場で非常な低価格で売られている新品本」
となっており
その際に使われている「ぞっき」は
「ひとくくり」「ひとまとめ」
という意味である──というものしか見つかりませんでした。
──って事は
「黒ぞっき」「縮緬ぞッきは」
ひとくくりにまとめられて
投げ売りされているような安い着物?
うーーーーーん。
遊び人のお十夜孫兵衛のファッションとしては
なんだかちょっと違和感あるなあ…………。
そんな風に、モヤモヤしていたのですが
先日
繊維業界や皮革業界で働いている方々のブログに
業界内で使われている
「ゾッキ」
という言葉について説明されているのを発見しまして
このたび、ようやく長年の謎が
スッキリ解明したのでした。
それによりますと
「ゾッキ」とは「総生」と書き
単一の素材・生地という意味なんだそうです。
この言葉の由来は北関東の方言説が有力で
北関東の織物産地ではかつて「シルク100%」の事を「絹ぞっき」と言ったりしていたそうです。
「鳴門秘帖」で使われている「ぞっき」は
お十夜孫兵衛の着物に関してなので
おそらくこちらの「ぞっき」で間違い無いでしょう。
してみると
「黒ぞっき」は
「全身黒ずくめ」
「縮緬ぞっき」は
「着物も羽織も全て縮緬」
という事だったんですね!!
大正15(1926)年8月11日から大阪毎日新聞で連載がスタートし
超絶的大ヒット作となった
「鳴門秘帖」は
京の公家衆と結託し、密かに幕府転覆を企む
阿波徳島藩主蜂須賀重喜(はちすかしげよし)及び、そちらに組する者達(悪玉)と
その証拠を掴み、それを暴こうとする
幕府隠密側に組する人々(善玉)が
謀反の証拠となる秘密のメモ(秘帖)の争奪をめぐって
追いつ追われつしながら死闘を繰り広げる物語に
登場人物それぞれの恋だとか
生き別れの肉親の話だとか
誘拐事件だとかの話が色々と絡んでくるという
スケールの大きな
ハラハラドキドキ満載の
伝奇浪漫小説です。
主人公にあたる人物は
おきゃんでチャーミングな女スリ
見返りお綱 ────
と、私は思っているのですが
ドラマや映画では
彼女が惚れてしまい、行動を共にする
虚無僧姿の美剣士
法月弦之丞(のりづきげんのじょう)だとされる事が多いみたいですねえ。
それら主役級の美男美女達が魅力的なのは
もちろんなのですが
「鳴門秘帖」においては悪役たち
殊に
裏ヒーロー、裏の主人公ともいえる
物語に魅力を添えている
大きな要素
なんじゃないかな、と私は思っています。
非情で冷酷な悪役であるにもかかわらず
惚れたお綱には手玉に取られ
天童一角、旅川周馬などといった悪役仲間と共に
お綱&弦之丞を追う旅の道中などは
ほとんど
ズッコケ三人衆
としか言いようのないほどの
コミカルさを見せてくれる彼。
そんな二枚目半の彼に対しては
正統派二枚目である法月弦之丞よりも
こっちの方がタイプだわ♡
と感じる女性読者が
意外と多いんじゃないかと思います。
彼は何故か常時お十夜頭巾を被っていて
何があっても、お風呂に入る時にも
絶対に取らないという設定なのですが
そんなミステリアスな部分などが
時に
笑えるツッコミ所になってしまう所なども
なんか、イイですよね。
この物語はそして
出て来る女性陣が
大変に魅力的だったりもするんですよ。
主人公の女スリお綱は
非常にしたたかでチャッカリした美女なのですが
そんな彼女が法月源之丞に恋してしまってから見せる
意外なほどの不器用さや純情さには
思わず
「か……可愛い……!」(*T∀T*)
と、キューンとなってしまいます。
(ギャップ萌えってやつですね)
またそれとは逆に
清純派として登場してきた堅気の女性たちが
突如として
暗黒面を表出させる場面などもあって
その凄艶さにゾクゾクしてしまいます。
特に私が大好きなのは
過酷な運命に翻弄され続けていた、大店のお嬢様お米が
一転
悪女に変貌する瞬間なのですが
ここは何度読んでも痺れてしまうほどの名場面だと思います!
吉川英治のエッセイ
「僕の歴史小説観」の「小説のタネ」という項に
「『鳴門秘帖』のころ」という文があり
そこに、この小説の制作秘話が書かれているのですが
それによると
当時、毎日新聞の学芸部長をしていた阿部真之介だったそうです。
新聞社から伝言の人がやって来た時
まだ33、4歳の駆け出し作家だった吉川英治は
「とてもそんな大新聞に。自分になんかには大任過ぎます」
と、真っ正直にかしこまって断ったのですが
その時、ちょうど吉川家に遊びに来ていた
友人の伊上凡骨(かなり年上の木版彫刻師、やや奇人)が隣の部屋で昼寝をしながらそれを聞いていて
社の人が帰った後
「断るやつがあるもんか、絶好のチャンスだよ、書けよ、書けよ」
とさかんにけしかけたので、書くことにしたんだそうです。
この作品で吉川英治は一躍
スター作家となり
生活も経済状態もその後の人生も、一変してしまったわけですから
凡骨さんの存在は大きかったですよねぇ……。
まさに持つべきものは友!ですね。
タイトルの「秘帖」の「帖」の字にも、吉川英治はこだわりがあったのですが
大阪毎日新聞の千葉亀雄からは
「『帳』の間違いだろう」
と指摘され
「いや『帖』で良いんです」
と言うと
「イヤ『帳』の方が正しい」
と粘られたりして、ひと悶着があったらしいです。
(今となってみれば、やっぱり「秘帳」というよりは、「秘帖」の方がカッコ良いような気がしますけどねぇ)
吉川英治は
「鳴門秘帖」の着想を
江戸中期の洋画家
司馬江漢(1747-1818)の
「春波楼筆記」という随筆に書かれている出来事から得た、と語っています。
その内容は以下のようなものです──
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ある年、司馬江漢が熱海に温泉に入りに行ったところ、宿屋の裏に大名の湯御所がありました。
早朝、目を覚ます頃になると、塀を隔てたその屋敷の方からビシッビシッと弓を射る音がします。
──どうやら、さかんに弓の朝稽古をしているようです。
それがやんだと思うと、
今度は、音吐朗々と経書(儒学の書)を読む声が聞こえて来ました。
「一体、隣はどなたのお屋敷なんだい?」
江漢が宿の主人に訊いてみると
「阿波徳島の藩主、蜂須賀重喜(しげよし)様のお屋敷でございます」
それを聞いて江漢は
「はて?」
と首を傾げてしまいました。
当時、世間の噂では
蜂須賀重喜公は阿波本国で非常な暴政を行なったため、幕府に怒られ蟄居を命ぜられている──と言われていたのです。
もし隣で弓の早朝稽古に励んだり、経書を読んだりしているのがそのお方だとしたら
ずいぶん「暴君」というイメージとは違い過ぎるじゃないか??
──ふーむ、世にはおかしな事もあるもんだなあ……。
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司馬江漢の随筆にはこのように書かれているのですが
幕府から「藩主失格」との烙印を押され
政治から引退させられていた
蜂須賀重喜
彼は本当に暴君だったのでしょうか?
それとも
実は名君だったのでしょうか?────
蜂須賀重喜(1738-1801)は
出羽秋田新田藩主・佐竹義道の4男坊で
17歳の時、阿波徳島藩の蜂須賀家に養子として迎えられました。
1755年
10代目の藩主となって領国に入ると
倹約や藩体制の変革など、改革に豪腕を振るいます。
しかし
1769年
「藩政よろしからず」として幕府から蟄居を命じられ
長男の喜昭(後に治昭に改名)に家督を譲らされてしまいました。
このとき重喜はまだ
32歳の若さ……。
どうやら彼が進める改革に対し
藩内ではそうとう、重臣達の反発があったようです。
それのみならず
幕府方の人達やら、誰やら彼やらと利害がぶつかったりして、結構敵も多かったみたいです。
せっかく成し遂げた改革も
幕府から「全部元に戻せ」と命じられてしまいました。
隠居後の1788年
徳島郊外の大谷屋敷で贅沢三昧の生活をしている事を幕府から咎められた重喜は
あわや江戸屋敷に蟄居させられそうになったのですが
徳島城下の富田屋敷に引き移り、なんとかそれを免れます。
そして以後は質素に暮らし
1801年 64歳で亡くなりました。
「鳴門秘帖」には
徳島の地を舞台とした非常に絵になる、印象的なシーンが数多く描かれてます。
城下の辻は夜もすがらの笛だ、太鼓だ!踊ってる!踊ってる!踊ってる!
かれが韋駄天と飛んでゆく先、走ってゆく先の町には、必ず幾組もの男女が仮装して、囃子とともに踊りの渦を巻いている。
眩暈のするような祭りの陶酔感
そして
追いかける者の疾走感、焦燥感が鮮やかに表現された
百年近くたっても全く色あせる事の無い
名文だと思います。
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