「忍法」という言葉を初めて使ったのは吉川英治である
────という説は
今ではWikipediaをはじめ多くの所で語られ
広く知られている事ではありますが
今回は吉川英治大ファンの私がその辺のところを
もうちょっと詳しくお伝えしたいと思います。
巻末の方に作家など著名人諸氏による
「私の吉川英治」
というコーナーがありまして
そこで、それぞれの方々にとっての
「吉川英治の思い出」的なエピソードが語られています。
(このコーナーや解説等の充実ぶりが講談社刊「吉川英治歴史時代文庫」の素晴らしい所でもあるんですよ)
その「吉川英治歴史時代文庫」の
時代小説家・山田風太郎の書いた
「忍法という言葉」という一文です。
(これが書かれたのは昭和58年)
その要旨を簡単にまとめると
次のようになります。
前年ごろ、青木雨彦さんからエッセイをもらった。
その中で故・柴田錬三郎さんが
「忍法と言う言葉は私の造語である」と明言し
「それなのに、それを無断で使用している山田風太郎はけしからん!」
といわんばかりに書かれているのを知ってしまい、ビックリ仰天してしまった。
私(山田)が「忍法帖シリーズ」の第一作目「甲賀忍法帖」を書き始めた時、「忍術帖」にしようか「忍法帖」にしようかだいぶ迷ったことをおぼえている。
その昭和33年当時、たしかに、世間的にはそれほど「忍法」という言葉は普及していなかった。
けれどそれでも、その言葉は、すでにどこかにはあったように私は記憶している。
後になり、私はその「忍法」という言葉の初出が吉川英治の「神州天馬俠」にあったことを知った。
この小説は私の少年時代よりもずっと以前に書かれたもので、かつて熱狂して読んだ記憶がある。おそらく、それが私の記憶のどこかに残っていたのだろう。
つまり「忍法」という言葉のオリジナリティは吉川英治にあるのである。
この「忍法」だけに限らず、吉川英治の造語力はとにかく凄い。
上のエピソードの登場人物を軽く紹介しますと、以下のようになります。
青木雨彦(1932-1991)
文芸評論家でコラムニスト
柴田錬三郎(1917-1978)
「眠狂四郎」シリーズで有名な人気時代小説作家
山田風太郎(1922-2001)
「忍法帖シリーズ」や「魔界転生」などで有名な人気時代小説作家
吉川英治(1892-1962)
「宮本武蔵」「三国志」「新平家物語」などで有名な国民的歴史小説作家
「忍法」という言葉の初出だと言われている
「神州天馬俠」は
1925(大正14)年~1928(昭和3)年に
講談社「少年倶楽部」誌上にて連載された少年向けの伝奇冒険時代小説です。
連載完結時の昭和3年には
柴田錬三郎は11歳
山田風太郎はまだ6歳ですね。
話題となっている「忍法」という言葉が
この小説のどのあたりに出て来るかと言いますと
「神州天馬俠」の終盤
敵である徳川方と主人公・伊那丸(武田勝頼の遺児)率いるスーパー武芸者軍団が
衆人の見守る中で武芸勝負をしようじゃないか!
────となった所で出てきます。
章のタイトルは
「紅白の鞠盗み」
「神州天馬俠」(三)の
284ページ目になります。
そしてこちらは289ページ目
「忍法」という言葉が
ガッツリ&バッチリ出ていますね!
「神州天馬俠」が発表されて大ヒットとなったのは
大正時代の名残もまだ濃い昭和3年のこと。
ところが意外な事に
太平洋戦争後の昭和33年ごろまで
「忍法」という言葉はそれほど普及してはおらず
昔から使われていた
「忍術」という言葉の方が、圧倒的にポピュラーだったようです。
そのため柴田錬三郎も、自身のエッセイで
「忍術」というのはいかにも古色蒼然としている言葉なので「剣法」があるから「忍法」というものがあってもよかろうと勝手に、決めてそれをつかった。
と述べているように
その言葉を初めて造り出したのはオレだ!
────と
すっかり勘違いしてしまったんですね。
(しかも山田風太郎に「真似しやがってケシカラン」とまで……(^^;))
山田風太郎の作品といえば
私は「忍法帖シリーズ」には
かなりどっぷりハマった一時期があります。
ほとんど人間離れしたミュータントみたいな忍者が次から次へと出て来て、滅多やたらと面白いんですよ!
常識を超越した発想力はほんと鬼才だと思います。
お色気ムンムンのくノ一たちの活躍もvery good。
未読の方にはぜひとも、ご一読をお薦めいたします。(^_-)-☆
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