TODAWARABLOG

戸田蕨です。小説書いてます。よろしくお願いします。

「菜根譚」~400年の歳月に裏打ちされた処世の指南書は、ためになる言葉が目白押し!

無人島に一冊持っていくなら「歎異抄

 

司馬遼太郎はそう言ったそうですが

私でしたらここで

菜根譚ぜひ推したい!

 

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菜根譚(さいこんたん)というのは

 

今から400年近い昔

中国、明朝末期に生きた

洪自誠(こうじせい)という文人が著した

 

人生の教訓書

 

現代で言う所の

自己啓発みたいな本です。

 

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前集が222条

後集が135条

短い言葉から成っていて

 

主として

前集には人の世に生きていく上でのアドバイス

後集には閑居の楽しみ方などが説かれています。

 

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書名の意味は

朱子学の祖、朱熹が書いた「小学」という本の中で紹介されている

汪信民(おうしんみん)という人が言った言葉

 

「人は常に菜根を咬み得ば、すなわち百事なすべし」

 

から採られています。

 

この言葉には、現在色々な解釈がされているのですが

 

野菜の根っこを食べるような貧しい生活に耐えられる人であれば、何事をも成就することが出来るであろう。

ですとか

堅くて筋の多い野菜の根っこを苦にせず、よく咬み得れば、世の中の真の味をも理解できるであろう。

といったところが、一般的な解釈であるようです。

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著者である

洪自誠という人は

 

万暦(ばんれき)年間(1573-1620年…日本は戦国~江戸初期)ごろに生きた人で

菜根譚の他には「仙仏奇蹤」という本を著しているのですが

 

人柄や経歴など

詳しいことはわかっておりません。

 

講談社学術文庫刊の「菜根譚」で解説を書いておられる中村璋八博士は、彼について

 

明朝末期に弾圧されて隠遁生活を余儀なくされた

東林学派近しい人物だったのではないか?

 

と推測されています。

 

明朝末期

儒学者顧憲成(こけんせい)は、皇帝・神宗(万暦帝)の悪政を諫めたがために勘気をこうむり、追放されてしまいました。

 

その顧憲成が正義を掲げて興した、反権力の学派

東林学派(東林党)です。

 

神宗の孫・熹宗(天啓帝)の時

 

帝に気に入られた宦官の魏忠賢(ぎちゅうけん)が権力を握り

政権に近しい非東林党の者たちと結託し、東林党を圧迫、殺戮しまくりました。

 

菜根譚」の著者である洪自誠

この時に圧迫された東林学派に近い

潔癖なアウトサイダーだったのかも ──

 

この当時、官吏として登用されるには儒教の知識が必要でしたから

基本的には儒者ではあったものの

 

心の拠り所であった東林学派が弾圧され、隠遁せざるを得なくなり

そのため

彼の心は、道教老荘思想仏教の禅の思想に向かって行ったのでは……?

 

そのように

中村先生は解説されています。

 

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人間が普遍的に理想として追い求めるものとして、よく

真・善・美

という事があげられますよね。

 

このうち

「何が本当になのか」

という事などは、難し過ぎてなかなか、そう簡単にはわかるようなものではないと思いますが

 

き生き方はしい」

というのは

断言できる事なのではないでしょうか?

 

だって

邪悪な人の生きざまよりは

善良な人の生きざまの方が

傍目から見ていても、ずっと美しく感じられますものね。

 

この菜根譚という本は、そんな

「善き生き方」

をするための

 

道しるべとなり得る本なのではないかと思います。

 

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儒教にしても

道教にしても仏教にしても

 

それぞれが説くところには

「なるほど……」

と思う所もあるのですが

 

お坊さんや仙人ではない

普通の一般人が実践するのには

ちょっと

「極端すぎて無理!」

っていう所がありますよね。

 

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この菜根譚という本では

著者洪自誠の中でブレンドされた仏教、儒教道教の教えが

 

実際の生活と無理なく折り合わせながら、実践できるように提示されています。

 

400年近くも昔に書かれたものでありながら

普遍的に有効な内容であるために

ずっと読まれ続けている本書は

 

現代を生きる私たちにとっても、大変に実用的な書であると思います。

 

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それでは

菜根譚」の中から

いくつかの言葉をご紹介いたしましょう。



権勢や利益、粉飾や華美には、近づかないのが「潔白な人」で

近づいたとしても、その悪い色に染まらないのが「最も潔白な人」である。

 

世俗の悪知恵などは知らないでいるのが「高尚な人」で

知っていたうえでも、使わないでいる人が「最も高尚な人」である。

 

 

勢利粉華は、近づかざる者を潔(きよ)しと為し、之に近づけども染まらざる者を尤(もっと)も潔しと為す。

 

智械機巧は、知らざる者を高しと為し、之を知れども用いざる者を尤も高しと為す。

 

 

「前集」№4

 

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「こういうコトをすれば成功するよ!」

なんて甘~い文句で人を誘い

人を食い物みたいにしながらお金儲けを企む人々が、世間にはワンサカいますけど

 

たとえ貧乏をしていたって

そんな悪どい金儲けの方法なんかは

知らないでいる方がよっぽど

人間として上等!

 

さらに

 

(悪者に騙されないためにも)

悪の手口は充分に知った上で

「それでも決して、その手口を使わない」

っていうのが

人間として最上級!

 

────たしかに。

ほんと、そう思います。

 

悪知恵に長けていて

いつも虎視眈々と何かを狙っているような人っていうのは

物語の登場人物としては面白いんですけど

 

自分の身近には

絶対にいて欲しくないな~

って思いますものね。

 

 

幸せというのは

問題事が少ない状態こそが最も幸せであり

 

わざわいというのは

考えるべき事が多い状態である事こそが一番のわざわいである。

 

普段、問題ごとに苦しめられている人だけが

「問題ごとの少ない事こそが幸せなんだなあ……」

と知り

普段、心を平静に保っている人だけが

「考え事の多い状態は災難だ……」

という事を知っている。

 

 

福(さいわい)は事すくなきより福なるはなく、禍(わざわい)は心多きより禍なるはなし。

 

ただ、事に苦しむ者のみ、はじめて事少なきの福たるを知り、

ただ、心を平らかにする者のみ、はじめて心多きの禍たるを知る。

 

「前集」№50

 

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平穏無事な日常が続いていたりすると

「退屈だな~、つまんないな~」

なんて思って

 

ついつい、ドラマみたいな波乱万丈を夢見たりしてしまいがちなんですけど

 

平穏無事な日常を送れるのって

本当は

とっても幸せな事なんですよねえ。

 

そんな事って

面倒くさいイザコザに巻き込まれてしまった時なんかに、はじめて、つくづく思い知らされたりするんですが

 

つつがなく、ボンヤリ生きていけるような時には

「これこそが幸せ」だとは

なかなか実感できないものなんですよね……。

 

 

たとえ十語ったうちの、九までがあたったとしても、

世間の人々からは必ずしも「スゴイ人」だとは思われない。

 

たった一つあたらない言葉があったら、そのせいで非難が集中してしまう。

 

十のはかりごとのうち、九つまでが成功したとしても、世間の人は必ずしも「功績のある人」だとは見なしてはくれない。

 

たった一つのはかりごとが失敗したら、たちまち誹謗中傷の嵐である。

 

だから

 

君子たるものは、むしろ

騒ぎたてるよりは黙っていた方が良く

 

うまく立ち回るよりは

むしろ

拙い方が良い、といった理由である。

 

 

十語(じゅうご)の九あたるも、いまだ必ずしも奇と称せず。

一語あたらざれば、すなわち愆尤(けんゆう)ならびに集まる。

 

十謀(じゅうぼう)の九成るも、いまだ必ずしも功を帰せず。

一謀成らざれば、すなわち訾議(しぎ)むらがりおこる。

 

君子はむしろ黙なるも躁なることなく、

むしろ拙なるも巧なることなきゆえんなり。

 

「前集」№72

 

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優等生で、誰からも「良い人」だと見られているような人が、たった一つ「らしくない面」を見せたりすると

 

「そんな人だとは思わなかった!幻滅!」

なんて言われてしまい

 

普段、みんなから悪い人だと思われているような人が、たまたま何か一つ良い事をすると、

 

「本当は良い人だったんだ」

なんて

評価が爆上がりする事って

よくありますよねぇ……。

 

なので

 

あんまり普段から

「良い人」「優秀な人」「素敵な人」

だなんて

思われないように心がけた方が

実は

むしろ、良いのかも知れません。

 

 

俗世間から抜け出て高節を守る人の風流は、すべて自分の心のまま、悠々自適でいるところにある。

 

ゆえに

酒は、人に無理に勧めないところにこそ歓待の心があり、

碁も、あえて勝敗を争わない方が良いとする。

 

笛は穴の無いものこそが本来の音に適うものとし、

琴は弦の無いものの方が優れているとする。

(目の前に見えているものよりも、心が大事)

 

会合は前もって期日を約束していないで会うものこそが真実の気持ちからのものであり、

客の接待も送り迎えなどしない方が気楽である。

 

もし、ひとたび形式的なしきたりだとか、前例だとかいったものに拘ってしまえば、

たちまち俗世間の気苦労にまみれてしまうだろう。

 

 

幽人の清事は、すべて自適するにあり。

ゆえに、酒は勧めざるをもって歓となし、棋は争わざるをもって勝となす。

 

笛は無腔をもって適となし、琴は無弦をもって高となす。

 

会は期約せざるをもって真卒となし、客は迎送せざるをもって坦夷となす。

 

もし、一たび文に牽(ひ)かれ迹(あと)に泥(なず)なば、

すなわち塵世(じんせ)の苦海に落ちん。

 

「後集」№96

 

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形式よりも真実の心が大事

って事ですが

 

これ、わかりますよね~。

 

職場の飲み会なんかにしても

本当に気心の合った同士が「会いたい」という気持ちで集うのなら楽しいんですけど

 

上司や先輩に気を使って

堅苦しい形式にかんじがらめになっちゃっている席となると

 

憂鬱以外の何物でもありませんものね。

 

形式やマナーや伝統といったものも

それなりに意味がある場合もありますから

「全くいらない」

とまでは言いませんけど

 

それと「真心」のどちらが上位に来るのかと言えば

 

やっぱり

真心の方が大事ですよね!

 

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菜根譚

本家の中国では何故か

あまり読まれてはおらず

 

日本の方で広く愛読され続けています。

(中国人よりも日本人の心にピッタリきたのかも知れませんね)

 

江戸時代に

林蓀坡(はやしそんぱ 蓀瑜・そんゆとも言う)

という金沢藩の儒学者

江戸に留学中にこの書に出逢い

 

通常の儒者とは言う事が一味違う

著者・洪自誠の卓越した識見に感動し

 

文政5(1822)年

刊行して以来

 

今日まで、多くの人に愛され

盛んに読まれ続けています。

 

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────と

 

ここまで書いて来て思ったのですが

 

世間を渡って行くに際してのあれやこれやなど

人間関係に関してのアドバイスがメインの本書は

 

人っ子一人いない無人に持っていくのには

ちょっと向いていなかったかもしれません。

 

かと言って

 

浄土真宗の教えに関して

親鸞聖人様の教えと違う事言ってる人がいます~ヒドイ」

と訴えている歎異抄

そんなに向いてるかな~……?

個人的には思います。

 

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無人島に、たった一冊持っていくのであれば

やっぱり

 

食べられる野草や海の生物

だとか

火の熾し方などが丁寧に説明されている

 

「サバイバル術のノウハウ本

 

一番良いんじゃないでしょうかね。

 

 

 

 

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こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

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