非常に苦しい事をあらわす
「四苦八苦(しくはっく)」
という言葉があります。
これは本来仏教用語で
人間が生きる上で避けることの出来ない
生(しょう)
生まれてくることによる苦しみ
老(ろう)
老いる事による苦しみ
病(びょう)
病を得る事による苦しみ
死(し)
死ぬことに関連する苦しみ
という
根源的な4つの苦「四苦」
があり
ここに以下の4つの苦しみ
愛別離苦(あいべつりく)
怨憎会苦(おんぞうえく)
求不得苦(ぐふとくく)
五陰盛苦(ごおんじょうく)
を加えて「八苦」としたものです。
生・老・病・死は
身体や生命力の変化に伴うものであるところから
生きとし生けるもの全てにわたる共通の苦しみ
といったところですが ──
ここにプラスされてくる
あとの4つは
もっぱら心の苦しみであるために
人間ならではの苦しみ
といった感じです。
これをひとつひとつ説明していきますと
以下のようになります
・愛別離苦(あいべつりく)
愛する人と生き別れたり、死に別れたりする苦しみのこと。
・怨憎会苦(おんぞうえく)
怨んだり憎んだりするような相手にも
出会ってしまうような苦しみのこと。
・求不得苦(ぐふとくく)
求めているものが手に入らないことからくる苦しみのこと。
・五陰盛苦(ごおんじょうく)
人の体や心をかたちづくっている
五つの要素(五陰)から生み出されてくる苦しみ。
────と、こう説明している中で
「五陰盛苦(ごおんじょうく)」
これだけが
なんだか漠然とし過ぎていて
ちょっとわかりづらいのではないかと思います。
そもそも
五陰(ごおん)とは
一体何なのでしょう?
ここのところが良くわかりませんよね。
五陰(ごおん)
これは
五蘊(ごうん)とも呼ばれるのですが
人間の知覚・感覚・心の働きなどに関するものを
以下の5つの要素に分けたものなんです。
・色(しき)
物質的存在。形はあるけれども、絶えず変化し、いずれは滅び去っていくもの。
・受(じゅ)
物事を見たり外界からの刺激を受けたりしたときの感覚。
・想(そう)
対象を心の中にイメージする事。
・行(ぎょう)
意志をかたちづくること。
・識(しき)
刺激からくるイメージや意志判断などを総合して
判断を下す「認識作用」のこと。
この「五陰」に続けられている
「盛苦(じょうく)」という言葉ですが
これは
・はげしい苦しみ
・「五陰」を器と見立て、そこに「苦を盛りつける」こと
という解釈をされています。
ということから
「五陰盛苦」という言葉の意味は
人間が生きている限り常に働かせている
感覚や心の活動(五陰)
といったものにより
苦しみがもたらされてしまう
─────と
このようになるのですが
実は
「五陰」これ自体が
苦なのではなく
仏教においては
これに執着することこそが
苦しみであるのだ
と説かれています。
たしかに……
コダワリ(執着)って
何かをやり遂げたりする時には、絶対的に必要だったりもしますけど
その反面
「こうあらねば!」と強く思えば思うほど
できない時の罪悪感も強まっていくものですし
特定の価値観にあまりにも囚われ過ぎていると
生き方に柔軟性を欠いて
視野が狭くなり
結果
自分自身が追い詰められて
息苦しさを感じざるを得なくなってきますものね……。
こんなふうに見てまいりますと
本当に
私たちの周りには
さまざまな苦が満ち満ちているなあ……
なんて思わざるをえないわけですが
とはいえ
あまり「苦」にばかり目を向けて
そこに意識が囚われてしまうと
それこそ
「五陰盛苦」に陥ってしまうことになりかねませんので
肩の力を抜いて
ほどほどに気を紛らしながら
なるべく気楽に
柔軟性を持って
やっていきたいものですよね。
関連記事のご案内
お釈迦様曰く「執着を捨てよ」とのことですよ。
一遍上人は「あんまりつべこべ考えるな」と言っています。
「虎渓三笑」の故事から思った事
平安時代の人にもやはり、気持ちの沈む日がありました……。
こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。