優れた兵法書として昔からよく知られている
「孫子」
という書物がありますよね。
これを書いたのは
中国の春秋戦国時代(BC770〜BC221年ごろ)に生きた
孫武(そんぶ)という兵法家です。
この「孫子」という書物
少し前までは
彼の子孫にあたる孫臏(そんぴん)が書いたのではないか?
という説もあったのですが
1972年に山東省の銀雀山漢墓という古墳から出土した、二つの兵法書(「孫子」と「孫臏兵法」)から
現在では
孫臏が書いたのは「孫臏兵法」の方で
と
明確に区別されています。
──── さて
その
孫武(尊称・孫子)
について
彼の人柄の一端を伝えるものとして
私が非常なる衝撃をもって受け止めたエピソードがありますので
今回はそれをご紹介したいと思います。
斉の国出身の孫武は、兵法に大変優れていたため、呉の国の闔閭(こうりょ)王に召し出されました。
「そなたが書いた兵法書十三篇、全部読んだぞよ。一つ、試しに練兵を見せてくれぬか」
「承知いたしました」
「それは女子でも出来るのかの?」
「できますとも」
孫武は宮中の美女達を駆り出して、
特に王がお気に入りにしている寵姫二人をそれぞれの隊長として二手に分け
全員に矛を持たせて訓練を施しました。
「前と言ったら胸を見よ。そして、左と言ったら左を、右と言ったら右を、後ろと言ったら背中の方を見よ。良いか」
「はーい♡」
号令を伝え終わると、孫武はマサカリを持ってきて
さらに、全員にわかるように、号令の説明を繰り返しました。
そして
いよいよ太鼓を鳴らし、号令をかけました。
「右!」
しかし、女たちはケラケラクスクス笑い出すばかり。
「私の説明の仕方が、ちとわかりにくかったかもしれぬな。すまん、すまん」
そして、彼は先ほどと同じように
何度も号令の仕方を繰り返して教えました。
そうして再び
彼は太鼓を鳴らして号令をかけました。
「左!」
ところがまたしても
女たちはキャッキャ、ウフフと笑ってばかり。
「先ほどは、私の落ち度であったが────」
孫武は言いました。
「──今度は違う」
彼はマサカリを手に取ると
「もう全員が号令の事は充分に理解しているはず。号令通りに動かないのは、隊長の責任である」
そう言って隊長役の二人の寵姫を斬ろうとしました。
「ま、ま、ま、待ってくれ!」
観覧席の闔閭王が、慌てて伝令を飛ばしました。
「そなたの優れた手腕はもうわかったから、彼女たちを斬るのだけは止めてくれ。その二人がいなくては、わしはもう、食事も喉を通らなくなってしまうのだ……!」
ところが
孫武は、その言葉には耳も貸さず
「一たび将軍として任命を受けましたからには、たとえ君命と言えどもお受けできない事があるのです」
そう言うなり
二人の寵姫を
斬り捨ててしまいました。
それから
彼女たちに次ぐ美女を二名、隊長として指名し
太鼓をたたいて号令を下しました。
「左!右!前!後!────」
女たちは咳一つ漏らすことなく
サッサッサッサッ、整然と動きだしました。
孫武は王に伝令を出し、こう伝えました。
「練兵はすでに整いました。こちらに降りて来てお試しいただきたい。王が命令されれば彼女たちは、たとえ火の中、水の中にでも行く事でしょう」
しかし王は、はなはだ気分悪げな様子で
「いや、予はもういい……。そなたは宿に帰って休息されよ」
そんな王に向かい孫武は言いました。
「どうやら王様は、兵法の理論だけはお好みのようだが、実践の方は苦手であらせられるようですな」
こうして闔閭王は
孫武の卓越した軍事的手腕を認め
呉の将軍として採用することにしたのです ────
これは『史記』の中にある
「孫子呉起列伝」という所で紹介されているエピソードなのですが
いやはやなんとも、
峻厳と言うか冷徹と言うか……
この
一切の甘さを許さず徹底したところ
背筋が凍るほどの凄まじい人ですよねぇ……。(◎_◎;)))
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呉の闔閭(こうりょ)王に仕えた人と言えば、伍子胥(ごししょ)もいます。
こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。