今回は
呉起(BC440-BC381)
のご紹介をいたします。
呉起(ごき)とは一体、どのような人物なのでしょう?
彼の人生を、以下にまとめてみました。
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呉起の人生
若い時代
呉起は衛(えい)の国 ──── 現在の河南省南部の生まれです。
実家はかなり裕福でしたが
彼が仕官の口を求めながら方々の国を渡り歩くうちに、財産はほとんど使い果たしてしまいました。
しかも
どこにも仕官できないという
踏んだり蹴ったり……。
そんな彼のことを
故郷の人々は馬鹿にして嘲笑ってきたそうです。
むかっ腹を立てた呉起は
嘲笑ってきた30人を殺害し
故郷を去って行きました……。
その後
彼は、孔子の高弟だった曾子(曾参)の元で儒学を学ぶことにしたのですが、
故郷の母の訃報を聞いても葬儀に帰らなかったことを
「親不孝者!」
と見なされ、破門されてしまいました。
しかし、彼が母の葬儀に帰らなかったのには
彼なりの理由があったのです ────
母と別れる際、彼は母に誓って言いました。
「大臣になるまでは、私は二度と我が家の敷居を跨ぎません!」
呉起IN魯(ろ)
その後
魯に辿り着いた呉起は
元公(嘉)の元で兵家として仕える事となりました。
しかし
妻が斉の国の出であったことから、疑惑の目で見られつつある事を察した彼は
疑いを晴らすために
妻を殺してしまうのです。
ところが
その事が、なお一層
彼自身の人格に疑問を持たせてしまう事となりました。
魯の大夫たちは元公に進言しました。
「呉起は自分の妻を殺害するほどの残忍な人間です。そればかりか、魯と友好的だった衛を独断で侵略した怪しからんヤツです!」
こうして呉起は失脚し
魯の国を去る事となってしまいました。
呉起IN魏(ぎ)
魏の文侯は名君でした。
彼が側近の李克(りこく)に呉起の人柄について訊ねたところ、彼はこのように答えました。
「呉起は貪欲で、その上好色ですが、兵を動かすことにかけては、かの斉の名将司馬穰苴(しば じょうしょ)さえ敵わぬほどでございます」
それを聞いた文侯は、呉起を将軍として採用することに決めました。
戦の最中
呉起は兵卒達と寝食を共にして、苦難を分かち合い
傷が膿んだ兵卒には
膿(うみ)を自分の口で吸い出してあげるほどの労わりをみせました。
(このエピソードは吮疽(せんそ)の仁と呼ばれています)
その話を聞いた兵卒の母親は
声をあげて泣き出したと言います。
彼女は言いました。
「あの子の父親は、将軍に膿を啜っていただいた事に感激して、命もものかはと敵に突撃して戦死してしまいました。
今度は息子が将軍に膿を啜っていただいたとなると、あの子もきっとそうなってしまうのでは……と不安になって、泣けてきてしまうのです」
兵たちは呉起の行動に感激し、厚い信頼を寄せるようになったため
軍は圧倒的に強くなり、
秦を攻め、5つの城を奪う事に成功しました。
呉起はこの功によって西河の太守に任じられ、秦、韓を牽制する役割を果たしました。
BC396年
文侯は亡くなり
子の武侯の代となりました。
(※「呉子」に出て来る呉起の言葉は、この武侯の問いに答える形のものが多いです)
魏の国の中で存在感を示していた呉起でしたが
宰相のポジション争いでは
田文(でんぶん)に敗れてしまいました。
納得のいかない呉起は、彼に論争をふっかけます。
「全軍の指揮官として兵隊たちを喜んで死地に赴かせ、敵国に手出しをさせないようにするにあたって、貴公と私とではどちらが優れているとお思いか?」
「それはもちろん、あなたでしょうな」
「多くの官僚たちを取り仕切り、万民を親和させ、国庫を豊かにさせるという点においてはいかがであろう?」
「もちろん、あなたの方が優れておられるでしょう」
「西河の地を守り、秦を牽制し、韓、趙を服従させるという点においては?」
「あなたには及びません」
「以上の3点において、貴公はいずれも私より劣っていると認めているにもかかわらず、しかし位が私よりも上にあるというのは、一体どうしたことだろう?」
そのように言う呉起に対し
田文はこう答えたと言います。
「主君(武侯)は若く、大臣達も心服しておらず、人民からの信用もいまだ十分とは言えない状態 ────このような時にあって国政をゆだねるにふさわしいのは、さて、あなたでしょうか、それともこの私でしょうか?」
これを聞いて、しばし言葉を失っていた呉起は、やがて
「……貴公にお任せいたすことになろう」
と答え、その後は田文と協力しあったということです。
その田文が亡くなった後────
呉起をこころよく思わない
公叔(こうしゅく)という人物が
後任の宰相となりました。
公叔は、なんとかして呉起を排除できないか、策略を巡らせます。
彼は武侯にこう進言しました。
「呉起ほどの優れた人物が他国に移ってしまったら大変だとは思われませんか?
彼をこの国に留め置くためには、君主様御一族の女性を嫁にやるといって気を引いてみてはどうでしょう。
彼がこのまま魏の国に留まるつもりであれば、きっとお受けするでしょうし、去る心づもりを持っているならば、断わる事でしょう」
公叔はその上で呉起を自分の屋敷に招き
わざと自分の妻(君主一族出身)が、夫である自分を罵倒する様子を見せつけたのです。
案の定……
プライドの高い呉起は、武侯から勧められた縁談の話を断り
結果
武侯から疑念を抱かれる羽目になってしまいました……。
このまま魏に留まっていては危険だと察した呉起は
楚へと逃れて行きました ────
呉起IN楚(そ)
楚に着いた呉起は
かねてから彼の評判を聞いていた、時の君主・悼王(とうおう)に重用され、宰相に抜擢されます。
そこで彼は
法令を重視した法家的な思想を元とし
様々な改革に乗り出しました。
法令を整備し、不要な官職や一部の王族などを整理し
浮いた国費で兵士たちの待遇改善をはかりました。
また
領主の権利を三代限りとし、それ以後は王に返上するよう法を定めるなど
庶民や農民たちを重視する政策を取りおこないました。
その結果
楚の国力は強大になり
南方では多くの部族を平らげ、北方では陳や蔡を併合して三晋を撃破
西方では秦を攻め討つまでになったのです。
ところが……
彼が活躍する裏で
それを面白く思わない勢力がありました。
(特に、権限を削がれた王家の一族や重臣など……)
彼らは呉起に
非常に強い恨みと憎しみの気持ちを抱いておりました。
BC381年
呉起を寵愛していた悼王が老齢のために亡くなると
どかどかと宮中に踏み込み
悼王の亡骸の影に隠れた呉起めがけて
ビュンビュン矢を射かけてきました。
呉起は悼王の遺体もろとも矢に射抜かれて
ついに絶命してしまいました……
59歳の生涯でした……
さて ────
この話には後日談があります。
父の後を継いだ粛王は
呉起を殺害した矢が
悼王の亡骸にも刺さっていた事実から
「王の遺体に触れた者は死罪」
という法律により
呉起を射た者たち全て(貴族70家)を
一族に至るまで
全て皆殺しにしたそうです……
(完)
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いや~~~
壮絶な一生でしたねえ……。
自分を殺した人々に対して
死の制裁が下されるようにと
咄嗟に策略をめぐらし
ズバリ
その目論見通りになった辺り
さすがは名軍略家!
といった感じでお見事です。
人を呪わば穴二つ
と言いますけれど、それどころか
一族までも皆殺しですからねえ……。
「孫呉」(そんご)
と称される存在でありながら
今一つ
孫子よりも人気が薄いのは
彼の性格 ……
…… 残忍さや名誉欲の強さのせい……?
なんて思ってしまうのですが
実際、司馬遷にも
「呉起は刻薄残暴、ために、わが身を亡う」
などと書かれてしまっているようです。
しかしながら
卓越した手腕を発揮した大政治家であったことなども考え合わせてみると
彼は、そんなに器の小さい人間ではなく
大局的に物を見ることのできる人で
法家思想(国家は厳格な法律をもって治めるべし、と説く思想。呉起より後に出てきた商鞅や韓非が説いた事で知られています)
の先駆けと言っても良い存在だった
───という見方もあるようです。
とはいえ
故郷で30人殺してきただの
出世のために奥さんまで殺しただのって……
現代だったらまず
絶対にNGですけどね……。
彼が生きたのは
春秋戦国時代(BC770-BC221)のうち
戦国時代(BC400年代-BC221)の初期にあたる時期なのですが
彼の言葉を収録した書物
「呉子」は
戦国時代の末期には既に
「孫子」と並んで
といわれるほど、広く読まれていたようです。
この「呉子」は
代表的な兵法の古典
武経七書(ぶけいしちしょ)のひとつとして数えられています。
武経七書とは
「尉繚子(うつりょうし)」
「六韜(りくとう)」
「李衛公問対(りえいこうもんたい)」
以上の7つの書物のこと
「呉子」の内容は
第一篇「図国」(とこく)
国政を正す事と用兵の原則について
第二篇「料敵」(りょうてき)
敵情の分析の仕方について
第三篇「治兵」(ちへい)
軍の統率の原則について
第四篇「論将」(ろんしょう)
将軍の資質や敵将の分析について
第五篇「応変」(おうへん)
戦場における臨機応変について
第六篇「励士」(れいし)
士気の鼓舞の仕方について
──── と
このようになっています。
呉子はいわれた。
「戦場とは屍(しかばね)をさらすところだ。
死を覚悟すれば、生きのびることもできるが、生きながらえようと望んでいると、逆に死をまねくことになる。
良き指導者は、穴のあいた船に乗り、燃えている家の中で寝ているように、必死の心構えでいるものだ。
そうなればたとえどんな智者がはかりごとをめぐらそうと、勇者がたけりくるってかかってこようと、どんな敵をも相手にすることができるのだ。
だからこそ軍隊を動かすにあたって、
『優柔不断を避けるべきであり、全軍の禍いは、懐疑と逡巡から生まれる』
といわれるのだ」
第三篇「治兵」より
兵法指南書ではありますが
日ごろ生きて行く上で、私たちが取り入れ、応用して使えるような事柄も多く語られています。
ページ数は非常に少なく、アッという間に読み終えてしまいますので、忙しい人にもおすすめだと思います。(^_-)-☆
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