突然ですが
みなさんは
王様とか帝王になれたらいいな~
なんて夢想することありませんか?
王様って
好きな事なんでもやりたい放題で
贅沢三昧が出来そう!
そんなイメージですよね。
でも実際の所
一国の君主ともなれば
そんな気ままや贅沢は
許されません。
君主は国民の幸せというものを
第一に考えなければなりませんが
平和とか安定した状態って
実は
非常に微妙なバランスの上に
ようやく成り立っているものなんです。
王様がやりたい放題した挙句
部下や民衆からの信用を失い
国を傾けたりなどしたら
たちどころに
謀反や暴動が起こり
地位を追われるだけなら
まだマシな方で
殺されてしまう!!
──── なんてことだって歴史上ではザラにある話です。
もし
ひょんな事から王様になった時に
そんな事態にならないために
王様(トップ)とは
どうあるべきか?
今回は
中国の歴史の中でもトップクラスの名君
唐の皇帝太宗と
彼を補佐した重臣たちとの問答集
「貞観政要」(じょうがんせいよう)
のご紹介をいたします。
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太宗皇帝のプロフィール
598年
隋の武将李淵の次男として生まれる。
本名は李世民。
この頃
皇帝煬帝(ようだい)のムチャクチャな政治(贅沢&残酷)のせいで
世の中は非常に荒んでいて
各地で反乱が起きていた。
617年
19歳の世民は父に挙兵を促す。
彼は自ら先陣を切って戦い
首都長安を陥落させた。
618年
煬帝は江南の地で部下によって殺され
隋王朝はここに
滅亡。
父、李淵が帝位につき
唐王朝成立!!
(以後、李淵=高祖)
兄の建成が太子に、弟の元吉(げんきち)が斉王になり
世民は尚書令兼大将軍に任命され、秦王となった。
創建したばかりの唐王朝
周辺地域ではまだまだ敵対有力勢力がうごめいていたのだが
大将軍世民はこれらを打ち滅ぼし
唐王朝の基盤を盤石なものに!
世民の抜群の働きを讃え
父高祖は彼に
「天策上将」という特別な位を与えた。
世民の人気はうなぎのぼり!
しかし
これが兄建成の妬みと疑心暗鬼を引き起こしてしまった。
「このままでは太子の座を世民に奪われるかもしれない」
建成は弟の元吉と組んで世民を殺害しようとたくらんだ。
が
世民は腹心の部下達と計らいあい
建成と元吉の二人を玄武門で血祭りにあげたのだった。
(玄武門の変)
こうして世民は皇太子となり
翌626年
29歳にして高祖から位を譲られ
2代目皇帝となった。(太宗)
翌627年
戦乱や飢饉により荒んでいた人民の生活も
彼が皇帝となって政治を改めてからはみるみるうちに豊かになり
悪事を働く人間もぐんと減り
平和な時代が続いた。
23年にわたる太宗皇帝統治下の時代は
理想的な治世の模範として
「貞観の治」
と呼ばれている。
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太宗が皇帝として成功できた要因は
彼自身の素質が優秀だったこともありますが
一番大きかったのは
良い人材を登用し、彼らの能力を充分に発揮させるとともに
彼らからの意見やアドバイスを良く聞き入れて
常に自らを厳しく律していたところにあります。
彼の周りには
秦王時代からの腹心の部下
房玄齢(ぼうげんれい)
杜如晦(とじょかい)
などの他にも
兄建成の下で働いていた
魏徴(ぎちょう)
王珪(おうけい)
なども
「見どころのあるやつ」
と取り上げられていて
諫議太夫(天子の過失を諫める役人)となり
しばしば太宗に耳の痛い直言をしています。
自分の失脚を画策していたような敵側の臣であっても
見どころのある人物は登用するし
部下たちからビシビシ痛い所を突かれるような事を言われても
逆切れしたり
不貞腐れたりせず
素直に自分を顧みる所
そんな所が太宗の
度量の大きさや非凡さでもあります。
太宗皇帝が亡くなってから4、50年後くらいに
歴史家の吾兢(ごきょう)が
「貞観の治は
いかにして
成し遂げられたのか」
太宗と臣下達との会話の記録から
そのポイント的な所を取り上げてまとめたのが
この「貞観政要」です。
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ある時
太宗は臣下達にこう言いました。
(※私なりにかなり意訳してます)
「自分の姿を映すのに鏡が必要であるように、自分の過ちに気が付くためには、他人に指摘してもらわなければならない。
自分が完全無欠なんだぞ、なんてオーラを発してると、たとえ間違っていても誰も指摘できなくなってしまう。
王たるものがそうなってしまったら
国を滅亡させてしまいかねない。
隋の煬帝はとんでもない暴君だったから、臣下は苦言など呈するわけにもいかず
挙句隋は滅亡という羽目になってしまった。
これは昔話ってわけじゃなく、つい最近あった事実だよ。
だからそなたたち、私のやる事でちょっとでもおかしいぞと思う事があったのなら
遠慮なくビシビシ言ってほしい。
頼んだよ」
太宗はさらに
部下たちが緊張や遠慮をしたりせず、率直に発言できるように
自分があまりにも威風堂々とし過ぎていた事を反省し
彼らと面会する時には極力
やわらかムードになるように努めたそうです。
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貞観10年のある時
太宗が臣下達にこう訊ねました。
「国を創業(草創)するのと、平和を維持(守成)するのと、どっちが大変だと思う?」
房玄齢が言いました。
「あっちこっちシッチャカメッチャカに乱れてて群雄割拠の中、それに勝ち抜いていかなきゃならないんですもの
そりゃぁ~創業の方が難しいでしょう」
それに魏徴が反論しました。
「いやいや。前の時代のグチャグチャの後、悪者どもを撃ち平らげて帝位につくわけですから、最初の内は人民は期待し、喜んで命令に服すでしょう。
でも
天下を手中に収めた権力者というものは気持ちが緩みがちです。
そのうちだんだん自分勝手な欲望を抑えることが出来なくなってきて
贅沢三昧するために人民にしわ寄せを食らわたり、なんて事になりがちです。
国家が衰退するのは、だいたいいつもこのパターン。
ですから
私は守成の方がより一層困難であると思いますね~」
太宗は
双方の言い分まことにもっともである
と感想を述べたのち
「だが、創業の困難はもう過去の事となった。
これからはそなた達と共に心して守成の困難を乗り越えていこうと思う」
と言いました。
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貞観12年
太宗は東方巡視の旅に出ました。
洛陽に向かう途中で宿泊した顕仁宮で
色々と不備な事があったため
宮苑の職員たちが大勢処罰されました。
その時
魏徴が血相を変えて直言しました。
「陛下!この行幸はかつて鎮撫にあたったゆかりの土地の安定を願い、そこにいる者たちに恩恵を与えようと思ってのものでしょう?
それなのに、まだ城内の民に恩恵を施してもいないのに
宮苑管理の役人たちを
やれ準備が不十分だの、やれ食事の用意が無いのと、
どうでも良いようなくだらん事で処罰なさるとは!!
それは、陛下のお気持ちが足る事を忘れ、贅沢に傾いている証拠ですぞ。
一体何のための行幸ですか。こんな事では人民の期待に背きます。
隋の暴君煬帝は
巡視のたびに食事を整えさせ
それが気に入らなければただちに係りの者を処罰しました。
上がこういう事をすれば、下のものも同じようにやるもんなんです。
そうして隋は贅沢に流れ、ついに滅亡してしまいました。
陛下はそれを目の当たりに見ていたではありませんか?
それだからこそ、陛下は気を引き締めて倹約し
子孫の手本とならねばならないというのに
何たることですか!!
事もあろうに煬帝みたいな真似をなさるとは!!
陛下が足る事を知り、贅沢を慎しもうとしなければ、この先の子々孫々も皆、それを見習う事でしょう。
そうなってしまったら、今日の万倍の贅沢をしても、まったく飽き足らなくなってしまうんですよ!!」
太宗はそれを聞き深く感じる所がありました。
「よくぞ申してくれた。今後は十分気を付けよう。
今日の所は許してほしい……」
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このエピソード以外にも
魏徴は太宗に対し
かなりズバズバと厳しい意見を頻繁に言っているのですが
彼は癇癪を起こした太宗を
実に200回余りも諫めたのだそうです。
(さすがの太宗もイラ立って
「あの田舎ジジイ
いつかぶっ殺す!」
と憤慨するのを
賢夫人であった長孫皇后がなだめた
なんてエピソードもあります)
名君の条件は
臣下の諫言を素直に聞き入れること。
そして
欲望を抑え、贅沢はせず
万民の手本となるような私生活を送ること。
太宗の唯一の娯楽は狩りでしたが
臣下の谷那律(こくなりつ)に
「あんまりしばしば狩りにお出ましにならないように」
などと
釘を刺されてしまいます。
これに対しても太宗は
「よくぞ言ってくれた」
と
お礼を言った上で褒美まで授けているのです。
名君って並々ならぬストイックさが要求されるものですね……。
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貞観16年
太宗が魏徴に訊ねました。
「帝王の中には、子々孫々の長きにわたって位を伝えられる人もいれば、一、二代で終わっちゃう事もあるし、酷い場合その代限り、なんてこともあるじゃない?
だから私は心配でならないよ。
私は充分に人民を大切にしているかな、感情に走って勝手な政治をしていないかな、って常に心を痛めているんだ。
自分では自分の事がわからないからねえ……。
魏徴、そなたはどう思う?
そなたの言う事なら、私はどんな事でも心して守って行こうと思うから
率直に意見を言って欲しい」
魏徴は答えました。
「好き嫌いや喜怒哀楽という感情は
賢者も愚者も等しく持っています。
が、
賢者はそれを上手く抑え、やたらと発散させたりしないものです。
ところが愚者は
それを抑えられないがために、身の破滅を招くことになるのです。
陛下は素晴らしい聖徳をお持ちになり、平和な時にあっても常に危難の場合を考えておられます。
どうかこの上は一層の自戒につとめられ、有終の美を飾っていただきとう存じあげます。
そうすれば我が国は、子々孫々にわたって、ずっと長く平和に保たれる事でしょう」
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ところが……
太宗がこんなに先々の事を心配していたにもかかわらず
彼の息子の高宗の代になると
皇后の則天武后が幅をきかせ
恐怖の専横政治を始めてしまいます。
その息子中宗は
皇后の韋后に毒殺され
二代にわたる女難続き。
(この辺の事は「武韋の禍」と呼ばれています)
韋后をやっつけた玄宗は
前半こそ「開元の治」と呼ばれる善政を敷きましたが
やがて愛妾・楊貴妃にメロメロになり
国を大混乱に陥れてしまいました……。
(またしても女難)
いや~~~
王様って大変ですね。
実際の所
きちんと真っ当にやって行こうと思ったら
王様にしても社長にしても
トップの仕事って
ものすごく難しいし
責任も重大で
のんびりなんて
していられないんですよね……。
この書物は
帝王学の教科書
として
日本でも大変参考にされてきたそうで
過去歴代の天皇も
この書のご進講を受けられていたそうですよ。
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