大正から昭和の始めくらいに撮られた写真を見ると
着物の上にエプロン風の前掛け
をしている幼児が映っていることがありますよね。
大変に愛らしいこのスタイル
大正から昭和の初めごろまで広く愛用されていたもので
「西洋前掛け」というそうです。
小学校低学年くらいまでの小さな子供が
男女を問わず着せられていた、この前掛け
もともとは、着物を汚さないようにという、スモック的な意味合いから付けられていたのですが
可愛らしいので、よそ行きの時に着せられることもあったそうです。
日本の子供の服装が和装から洋装へと移って行く
過渡期に流行ったスタイルです。
ところで、このスタイル
日本で一番最初に始めたのは
なんとっ!
私が師匠と仰ぐ
国民的大作家吉川英治のご母堂
吉川いくさんである
という説があるんですよ!(^_-)-☆
吉川英治の自叙伝
「忘れ残りの記」(1957年初版発行)の中の
「牛乳と英語」という章に
それに関する記述があります。
明治25年生まれの吉川英治が、まだ小学校に上がる前と言いますから
おそらくそれは
明治30年前後のことかと思われます。
当時、まだ父の事業が安定していて裕福だった吉川家は
横浜の山手、遊行坂のあたりに居を構えていました。
近所にあるのはほとんどが
裕福な西洋人の邸宅ばかりでした。
当時、その界隈でちょっと綺麗な日本人女性を見かけると
たいがいが外国人のお妾さんである
「らしゃめん」か
外国人に雇われている家政婦さん
「アマさん」だったそうです。
アマさんの「アマ」は
英語では「amah」
中国語では「阿媽」
と書き、お手伝いさんという意味。
「らしゃめん」は「洋妾」とも書きますが
元々の漢字表記は「羅紗緬(綿)」です。
本来は綿羊を表す言葉だったのですが
それが転じて
外国人のお妾さんという意味になったそうです。
贅美な雰囲気を漂わせているらしゃめんには
なんとなく敬遠するような所を見せてしまう人々も
アマさんには親しみの感情を抱いており
彼女たちの口から、洋館の主人の暮らしぶりを聞くのを
楽しみにしているような所もあったそうです。
そのアマさんは、外出にも白いエプロンを胸に掛け、買い物籠を腕に、乳母車など押していた。
ぼくの母は、アマさん風俗を真似して、ぼくだの、下の妹たちにも、エプロンを造って胸にかけさせた。
泥遊びしても、着物が汚れないでいいという単純な考えからであったろう。──だから、それを前垂れともエプロンとも云わないで、単にアマサンと称していた。
英治が小学生になるころには
もうアマサンは掛けていなかったのですが
そのスタイルは横浜中の子供の間に浸透していって
いつの間にか、日本の児童習俗になってしまっていたそうです。
ずっと後年
大人になった英治は、横浜短詩社をやっていた弁護士の安西一安氏から
「横浜で子供にアマサンを掛けさせた一番初めの人は、あなたのお母さんでしたよ」
と聞かされました。
何でも、ぼくの母が一安氏を地方裁判所に訪ねた時、母に手を引かれていた幼いぼくのエプロン姿がふと眼につき、珍しく思ったので、その着想を褒めたことがあるとの事であった。
ぼくには全然記憶にないが、云われてみれば、ぼくはアマサンの元祖であったかもしれない。
これを読むと
「西洋前掛け」を「アマサン」と呼ぶことも
単に吉川家のみの風習ではなく
かなり一般的になっていたようですね。
「アマサン」っていう言葉の響き
なんだかちょっと
可愛らしいですよねえ。
優しくて柔らかくて
ほのかで温かい
幼い頃の記憶のような
甘やかなものが感じられる気がします。
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