子供のころの私は
写真を整理するアルバムに
チョコレートの包み紙やら映画の半券やら
写真以外の色々なものを貼り付けていたのですが
先日、アルバムを見返していた時
このようなものが挟まれているのを見つけてしまいました。
これは何かと言いますと
かつて(大正14年~昭和57年)存在していた遊園地
「谷津遊園」の最終営業の際の広告チラシです。
1982年(昭和57年)
12月18、19日の二日間
入園料も駐車料金も無料で開放されたという
「さようなら谷津遊園感謝デー」
それに自分が行ったのかどうか
全く記憶にはないので
多分、行ってはいないと思うのですが
船橋で生まれ育った私にとっては
物心ついたころから
遊園地と言えば谷津遊園
という感じだったため
いざ閉園と聞いて、なんだか寂しくなってしまい
新聞に入ってきたチラシを取っておいたんじゃないかと思います。
右下にチラッと映っておりますが
最終日には
「失恋散歩道」(秋元康作詞&長渕剛作曲)が歌われたらしいです。
昭和57年頃と言えば
「ザ・ベストテン」とかの音楽番組が大人気で
歌謡曲やアイドルが全盛期でしたよね。
(ちなみにこの年のヒット曲は
アラジンの「完全無欠のロックンローラー」などなど)
粘着シートにベッタリ貼り付ける式のアルバムなので
残念ながら、接着面がすでに剥がせない状態となってしまっているのですが
この画像の下の部分は
「谷津遊園なんでも処分市」となっていて
どうやら
遊園地で使われていた備品などの処分市が行われていたようです。
「思い出の品々を、このお値段であなたに…!」
というコピーとともに
台車が1000円
鯛焼き機が30000円
椅子が(一脚)500円とかで
売り出されていました。
(全部売れたのかなあ……)
裏面は「さよなら谷津遊園感謝デー 京成一流ブランドバザール」と銘打って
洋服やバッグのセールのチラシになっています。
船橋から谷津までは大変に近かったので
子供のころには良く谷津遊園に連れて行ってもらっていました。
とはいえ
幼い頃の私は大変な怖がりだったため
ジェットコースターは無理!
ドラキュラの館は絶対拒否!
観覧車も嫌!
菊人形は怖すぎる!
というわけで
乗り物や出し物はことごとく苦手で
ほとんど乗りも見もしませんでした。
(親は連れて行き甲斐が無かったでしょうねぇ……)
けれども
連れて行ってもらう事自体は嬉しかったのか
こんなものは、ちゃんと取っておいてあるんですよねえ。
乗り物も出し物も嫌いだったのに
私は何を楽しんでいたんだろう……。
動物園かな……?
谷津遊園の中には動植物園があって
象とか猿とか孔雀が飼われていました。
そのあたりの記憶も私は大変にオボロなのですが
昭和53年当時
谷津遊園には約100種500頭の動物がいたらしいですよ。
遊園地にあるような
楽しげなアトラクションが苦手で
それらをほとんど拒否していた私ですが
園内にあった広大なバラ園は
おとぎの国にある庭園みたいで素敵だし
マッタリできるので好きでした。
かつては「東洋一」とも謳われていた
この立派なバラ園
無くなっちゃったら悲しいなあと思っていたのですが
遊園地の閉園後
ここだけは壊されずに残されて
経営が習志野市に引き継がれ
今もなお
約12600㎡の敷地内に
800種類7500株ものバラ達が多くの人を楽しませてくれています。
(良かった~)
このバラ園の入口の脇には
「巨人軍発祥の地」
を記念する碑が建てられています。
これはどういう事かというと
アメリカ大リーグのオールスターチーム(&ベーブ・ルース)が来日した時
まだプロ野球チームの無かった日本側は
6大学から選手を選抜し
全日本チームを組みました。
その時
日米両チームの練習場となったのが
当時ここにあった谷津球場というわけですが
この時選抜された全日本軍のメンバーが
その後、巨人軍の創設メンバーとなったんだそうですよ。
ところで
昭和57年
当時まだまだ人気があって
黒字経営であったという谷津遊園。
それがどうして閉園という事になったかというと
谷津遊園を経営している京成電鉄が
三井不動産と協力して
東京
ディズニーランド
を始めたから
(東京ディズニーランドの開園は翌昭和58年4月15日)
なのです。
それを踏まえて考えてみると
谷津遊園って
噴水の中には白雪姫と七人の小人がいたし
シンデレラ城っぽいお城もあったんですよねえ。
あと
本を手にした
大きなドナルドダックの像なんかもありました。
東京ディズニーランドを造ることになる
はるか以前から
京成電鉄はディズニーをかなり意識した
遊園地造りをしていたのかもしれませんね。
谷津遊園で働いていた人の大半が
オリエンタルランド(東京ディズニーランドの運営会社)に異動していることもあり
谷津遊園が
東京ディズニーランドの原型
というように考えている人は
ネット上でも多くおられました。
バラ園に植えるためのバラを買い付けにアメリカを訪れ
出来たばかりのディズニーランドを見て強い感銘を受けたのだそうです。
この川﨑氏がのちのオリエンタルランドの創業者となります。
ちなみにこの川﨑社長
油絵でバラを描かせたら天下一品といわれるほどの芸術肌の人だったそうです)
遊園地と駅との間にあった商店街には
当時はお土産屋さんがいっぱい並んでいて
ビーチボールとか浮き輪などの
海で使うオモチャだとか
貝細工の小物とかヤドカリとか
海ほおずき(巻貝の卵嚢で、口に入れて鳴らして遊ぶらしいです)
なんかも売っていました。
私はやったことがありませんでしたが
近くの海辺で海水浴や潮干狩りなんかも出来たらしいですね。
海辺にある遊園地ということで
これも現在の
ディズニー・シーをなんだか彷彿とさせますね。
当時の海岸の一部が
今は谷津干潟(日本の重要湿地500指定地)となって残されています。
ここは北や南に飛んで行く渡り鳥達の中継地点になっているため
四季を通じて、沢山の野鳥を見ることが出来ます。
今ではもう
思い出の中の遊園地となってしまった
谷津遊園
懐かしいな~
もう一度あのアトラクションに乗ってみたいな~
と思われる方もたくさんおられるかと思いますが
なんと!
「さようなら谷津遊園感謝デー」
のチラシにもバーン!と使われ
超大人気だった
「日本初の宙返りコースター」
(絶叫度★★★)
その後
北海道に移設されて
2020年1月現在
バリバリ
活躍中
らしいですよ。
こういうのって
何か嬉しいですよね。
関連記事のご案内
ちょっと昔の船橋の懐古。
こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。