師走も半ばになり、黄色や赤に色づいた木の葉が、風に吹かれて散っています。
自転車に乗っていたら、その光景があまりにも綺麗だったので
「あかしやの 金と赤とが ちるぞえな……」
という
北原白秋の詩が心に浮かんできました。
片恋
あかしやの金と赤とがちるぞえな。
かはたれの秋の光にちるぞえな。
片恋の薄着のねるのわがうれひ
曳舟(ひきふね)の水のほとりゆくころを。
やはらかな君の吐息のちるぞえな。
あかしやの金と赤とがちるぞえな。
この「片恋」は
「東京景物詩」という
1913(大正2)年──白秋が28歳頃に出された詩集に入っているものです。
(「片恋」の作は明治42年の秋 24歳の時)
ところで
この「白秋」というペンネーム
これは
中国の五行思想
(全ての物は火・水・木・金・土から成るという思想)において
四季の変化に
五行の色を当てはめて表されたものなんです。
ぴちぴちヤング世代の事を
青春!
って言いますよね。
実はそれも同じナカマで
春は青色で
青春 (青年期をあらわす)
夏は朱(赤)色で
朱夏 (壮年期をあらわす)
秋は白で
白秋 (初老期をあらわす)
冬は玄(黒)で
玄冬 (老年期、幼少期をあらわす)
と、このようになっています。
文学少年の北原隆吉君が
「白秋」の名を初めて名乗ったのは
1901(明治34)年
16歳の時でした。
当時通っていた伝習館中学内で
文学仲間と一緒に回覧雑誌「蓬文」を発行することになった時
「全員『白ナントカ』って雅号(ペンネーム)で統一しようぜー!」
という事になったんです。
そこで、「白雨」「白蝶」「白葉」などの名前を作り、みんなでアミダくじを引いて決めることにした所
隆吉が引き当てたのが「白秋」だった。
──と、
こんな経緯だったそうです。
なんだか
あまりにもテキトー過ぎるような話ですが (^^;)
「北原白秋」って
苗字と組み合わせて見ると
なかなか座りも良い感じで
本人的にもかなり気に入っていたようです。
この後、上京して若山牧水と親しくなった時には
「射水」と名乗ってみたり
また、時には
「薄愁」と字を書きかえてみたりしたこともありましたが、結局飽きてしまい
気が付けばやはり
「白秋」に戻っていました。
情熱家で血の気の多そうな彼にしては
あまりにも枯れた感じがする雅号なのですが
「邪宗門」や「思ひ出」など
初期の詩の絢爛華麗なイメージから
北原白秋!
と言えば
なんとなく華やぎみたいなものが感じられる気がしますよね。
当人の派手さが、本来地味な意味合いだったはずの言葉の印象を変えてしまったような感じですが
先日、鎌倉文学館に行った折に
白秋直筆の原稿を見た時には
いかにも白秋らしい
ノビノビと躍るような字体に
「字は人を表わすなあ……!」
と、
なんだか嬉しくなってしまいました。
「東京景物詩」が出版される前年の
1912年──
白秋は隣家に住む人妻、松下俊子と不倫をし
その夫(国民新聞社写真部記者)から
姦通罪で告訴されてしまいました。
彼女と知り合ったのは2年前の1910(明治43)年からですが
夫にはハーフの愛人がいて
その上DVもあったりして
夫婦仲はうまく行っていませんでした。
(薄幸の美人妻に白秋が同情した形)
白秋と俊子は市ヶ谷の未決監に2週間拘留され
示談の後に保釈されるのですが
白秋の文学的名声は地に墜ち
精神的にも酷く落ち込んでしまいました。
この恋愛事件のことは
「東京景物詩」と同年に出された
白秋の第1歌集「桐の花」(事件関連の歌を多数収録)から名付けて
「桐の花事件」
と呼ばれています。
罪びとは
罪びとゆゑになほいとし
かなしいぢらし
あきらめられず
どん底の
底の監獄(ひとや)にさしきたる
天(あま)つ光に
身は濡れにけり
「桐の花」より
事件との関連があるかどうかはわかりませんが
「東京景物詩」には
こんな詩があります。
赤い夕日に
あかい夕日につまされて、
酔うて珈琲店(カフェ)を出は出たが、
どうせわたしはなまけもの
明日(あす)の墓場をなんで知ろ。
道ならぬ苦しい恋を胸に秘めながら、こんな詩を作ったのかなあ……
なんて想像しながら読むと
味わいもひとしおです。
「東京景物詩」と「桐の花」が出版された1913年
その年の春に
白秋は俊子とめでたく結婚しています。
──が
俊子と白秋の両親が
どうにもこうにも折り合い悪くて
1914(大正3)年7月に離婚……。
あんなにドラマチックな
大恋愛の末に
結ばれたというのに (>_<)
結婚生活は
たったの14か月で終わってしまいました……。
(白秋はその後詩人の江口章子と結婚→離婚し、佐藤菊子と再々婚しました)
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種田山頭火の俳句と人生
こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。