小説家志望の人々が
新人賞に応募したりするときに
一次選考を
いかにして通過するか!?
─── なんて話になると
よく言われるのが
冒頭数枚のうちに
「死体を転がしとけ」
だの
「うわーっ!と思わせるエピソードを入れろ」
だの
「主人公の魅力を精一杯アピールしとけ」
などという
戦略的なアドバイスです。
大量の応募作品を読み飽きて
すっかり辟易してしまっている下読みさん達には
そうして冒頭数枚で引き付けておかないと
ろくすっぽ読んでもらえずに
ポイッとされちゃう
─── そんな惧れがあるんだそうですよ。
必ずしも
下読みさんの全員がそうだとは思いませんが
でも
そんな人も、中には少なからずいるからこそ
こんな事が言われているんでしょうね。
一次選考の段階で
9割方がふるい落とされてしまう
という
ああいう場では
そういう事はいかにもあり得そうな話ではあります。
小説教室の先生方や文学仲間が言ってくれる、そのようなアドバイスは
おそらく
善意からされるものである事には間違いないでしょう。
ただし
そのアドバイスに素直にしたがって
自らの作風や作品自体の構成を曲げ
冒頭数枚のうちに
ハラハラドキドキエピソードを
ぶち込んでみたところで
よしんば
それで一次選考を通過できたとしても
その先の選考までを勝ち抜いていけるだけの確率が
そうそうあがるとは
私には考えられません。
新人賞を受賞する確率はもともと1%未満しかありませんし
付け焼刃の小手先技で
最終選考までクリアし続けられるとは到底思えないからです。
また
そのようにして
どんな人だか皆目わからない下読みさんに対し
「いかに強烈にアピールするか」
ばかりを考えて創作をすることが
長い目で見て創作上のプラスとなるのかどうか
を考えると
私はむしろ
そういう事にばかり心を向けるのは
作者自身の持ち味を損ね
没個性に陥らせかねない
マイナス面の方が大きいのではないか?
と思うのです。
文芸というのは芸術の一種であり
芸術において
独自の感性や個性というものは
一番大切な核心的部分なのではないでしょうか。
もっとも
自分の創作活動を魂を込めた「芸術」ではなく
単に
技術のみからなる「工業生産」であると
完全に割り切ってしまえば話は別かもしれませんが。
そもそも
冒頭のうちに読者をひきつけておく
という事が
作品自体の面白さにとって
絶対不可欠な要素だとは
私は全く思っていません。
ですから、もし仮に
本当にそのようにしなければ
「ろくに読んでもらえず、ポイッとされてしまう」
というのが
小説新人賞選考の実態であったとするならば
まことに残念ながら
そのような場所からは
たとえ何千もの応募作を集めてみた所で
新鮮なもの、新しいもの、面白いものなんかは
生まれては来ないだろうな~
と思わざるを得ません。
だって
応募作を読んで当否を決めるキーパーソンであるべき人たちの
「面白さ」の基準が
あまりにも定型的な範囲に限定され過ぎていて
全く柔軟性が無いし
そもそも
そのような姿勢からは
新しい面白さを見出そう!
なんていう
熱意や意欲が
全く感じられませんからね。
ですから
もし本当に
小説新人賞の選考というのが
冒頭数枚で当否を決定されてしまうような
そんな世界であるのであれば
そんな所は
高い志を持つ小説家の卵たちにとって
全身全霊を掛けるには
全く値しない
不毛の地であるとしか思えないのです。
だいたいにおいて、ですよ
ひとが魂込めて書き上げた作品を
「数枚読んだだけでポイッ」だなんて
ずいぶんと敬意を欠いた
応募者を馬鹿にした行為だと思いませんか?
とはいえ
すでにもう
個人が簡単に本を出版出来てしまう時代に入ってしまっているわけですから
万が一本当に
そのように不誠実な対応をしている文学賞があったとするならば
淘汰されてしまうのも
時間の問題なんじゃないのかな!?
───と思っています。
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───さて
異常に長すぎる前振りでしたが
そもそも
言葉によって表現する文芸において
面白さというのは
ストーリーだけ
キャラクターの魅力だけ
ってわけじゃありませんよね?
だって
読者としての自分が
面白いと思う小説って
全部が全部
冒頭からハラハラドキドキ要素が満載だったり
魅力的なキャラクターが目白押しだったりするわけではありませんもの。
読者としての私が思いますに
文芸における面白さというのは
ストーリー展開の面白さやキャラクターの魅力
というものも
まあ、ありますけれど
そういうものばかりではなく
「著者の物の見方や考え方が面白い」
とか
「文章自体が面白く読ませる文章だ」
とか
「詩的な情緒がロマンチックで素敵だ」
とか
「著者の感性が面白い」
とか
そんな風に、色々あると思うんですよ。
たとえばその1
「著者の物の見方や考え方が面白い」
私は、ひとの書いたブログやエッセイを読むのがわりと好きなのですが
ブログやエッセイって、正にこれにあたりますよね。
古典の名作「徒然草」が、700年近くの長きにわたってこれほど読まれているのも
兼好法師の物の見方考え方がすごく独特で面白いし
時代を超えて普遍的に
色々とためになるような事が書いてあるからだと思うのです。
兼好法師とまではいかなくても
そもそも
自分以外の人がどういう風に物を考えてるのかって、興味深いものですよね。
たとえばその2
「文章自体が面白く読ませる文章だ」
何も冒頭から殺人事件なんか起こさなくったって
ぐいぐい引き込む文体ってありますよね。
私が
「本っっ当に凄いな!!」
と感嘆してしまうのは
この方々の文章は
冒頭の語り出しからこちらの心を絡め取り
ずいずいと作品世界に引っ張り込んで行くような、魔力的な巧さがあります。
ああ
あの技は、ぜひとも見習ってモノにしたい……。
たとえばその3
「詩的な情緒が素敵♡」
私は結構なロマンチストですので
ウットリするような世界に浸りきるのが大好きだし
小説のような散文にしても
詩的なところを感じさせてくれるものの方が、より素敵だと感じます。
青いソフトにふる雪は
過ぎしその手か、ささやきか、
酒か、薄荷(はくか)か、いつのまに
消ゆる涙か、なつかしや。
「青いソフトに」北原白秋
詩集「思ひ出」より
たった四行の短い中で
なんと胸を締め付けてくる抒情性でしょう……。
言葉の選び方や配置の仕方に
抜群のセンスの良さを感じますよね!
たとえばその4
「著者の感性が面白い」
「感性」とは。
─── 漠然とした感じで、ちょっとわかりづらいかもしれませんが
例えばこの
「城のある町にて」からの一節をご覧ください。
次つぎと止まるひまなしにつくつく法師が鳴いた。
「文法の語尾の変化をやっているようだな」
ふとそんなに思って見て、聞いていると不思議に興が乗ってきた。
「チュクチュクチュクチュク」と始めて
「オーシ、チュクチュク」を繰返す、
そのうちにそれが「チュクチュク、オーシ」になったり「オーシ、チュクチュク」に戻ったりして、
しまいに「スットコチーヨ」「スットコチーヨ」になって
「ジー」と鳴きやんでしまう。
中途に横から「チュクチュク」と始めるのが出て来る。
するとまた一つのは「スットコチーヨ」を終わって「ジー」に移りかけている。
三重四重、五重にも六重にも重なって鳴いている。
この文章!
若くして亡くなってしまった梶井基次郎ですが
彼や石川啄木などは感性の塊!
全身が感性みたいな人だと思うんですよね。
セミの鳴き声をこんな風にとらえて表現するなんて、まさに作者独自の感性のたまもの!
ただただ感嘆し
「かなわんなぁ……」と舌を巻いてしまいます。
以上にあげた「面白さ」の他にも
「作品全体としての雰囲気が面白い」
とか
「世界観が面白い」
とか
一口に「面白さ」と言っても
そこには色々あると思うんです。
それなのに
ハラハラドキドキ満点のストーリーと
魅力的なキャラクターと
萌え萌え要素が無くちゃ
駄目!
だとか
冒頭数枚で読者を釘付けにしておかなきゃ
いけない!
だとか……。
こういう考え方って
なんだかとても
貧しい感じがします。
「面白さ」観が
完全にガチガチに固まってしまってますよね。
こんな言葉を真に受けて、気にしすぎてしまうと
書き手の想像力は不自由になり
創作エネルギーが奪われ
作品世界が小さな型に嵌まりこみ
他の人の作品と似たり寄ったりの没個性
───に陥りかねない危険性が
非常に高いと思うのです。
先ほどにも言いましたが
少し前までとは事情が変わり
今はすでに
いくらでも自力で作品を世に問える時代になっております。
創作者は
周囲から押し付けられる「面白さ」などには縛られず
自分自身が
「面白い」とか
「好きだ」と感じるものは何か?
───といった所を突きつめて行った方が
よほど面白いものが出来るだろうし
作り手としても、より幸せなんじゃないでしょうか?
芸術というのは本来
もっと自由なものであるはずだし
文芸の世界は
もっと豊かであるはずなのですから ───
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