※ この物語は原稿用紙にすると50枚くらいの短編なのですが、ブログに乗せるにはちょっと長すぎるので前・中・後と全3回に分けてあります。
橋を吹く風 前編
隅田川純情物語
大きな鉄橋と、川のある街。
昼下がりの太陽が、建て込んだ屋根越しに斜めに差し込んで、通りを金色に染めている。
小学校の裏手にある小さな自動車修理工場「有限会社 市川自動車」では日曜日にもかかわらず、急ぎの修理作業が二台分もあったため、二人の若い従業員と高校一年になるここの長男、康之が、つなぎの作業服を油で汚しながら働いていた。
「おう、そろそろ休憩にしようぜ」
年長で二十三歳の村上が奥の事務所から出てきて、他の二人に声を掛けると、それぞれの車にかじりついていた康之と、彼と同じく十六歳の涼斗は、
「おう」
と返事をして、軍手を外しながら、工場の隅に置かれた丸椅子に腰を下ろした。
「康之、悪いな。手伝ってもらって」
背中をトントン叩きながら、村上は康之の隣に座る。木製の小さな机の上には、先ほど彼が淹れてきてくれたコーヒーと、袋入りのビスケットが置かれていた。
修理中の二台の車のうち一台は、彼の親友が姉の旅行中に無断借用した挙句、電柱にぶつけて破損させた軽自動車、もう一台はヤクザの情婦が「何が何でも月曜日までに修理して頂戴」と力に物をいわせて寄越した、黒塗りのベンツである。
「どうせ今日は暇だから」
康之は静かに笑い、それから真顔になって、
「でも、あれを明日までにっていうのは、絶対に無理だな」
ビスケットを摘まみながら、ベンツを見て言った。
「取り替えなきゃなんねぇ部品が多すぎる」
「あの女にわかるかな」
涼斗がマグカップに口をつけながら、心配そうなに眉を顰めると、康之は、
「知らねぇ。無理なモンは無理なんだからよ」
そう言って手をはたき、軍手をはめながら再びベンツの方に歩み寄って行った。
「それでいいさ」
村上の頬に笑みが浮かんだ。
康之の肝の据わった態度に接するたび、村上は「さすがはおれの弟分」と、悦に入るような気分になるのだ。
「ま、やれるとこだけやって、やれない所は仕方がないからな」
彼はマグカップを盆に戻すと、腰のあたりを軽く叩きながら立ち上がり、右側のタイヤのナットをくるくると外している康之の手元を覗き込んだ。
静かな冬の日である。
遠くで子供たちの遊ぶ微かな声と、家並みの向こうにある幹線道路をかすめていく、車の音しか聞こえない。
さてと、おれもそろそろ仕事に戻るか……
軍手をはめて涼斗がたちかけた時、彼は工場の入り口で、蜜柑をいっぱいに入れたビニール袋を手にして佇んでいる少女に気が付いた。
「あ、真弓ちゃん」
「こんにちは」
午後の陽射しの逆光線の中で、少女の黒髪がさらりとゆれた。
真弓はこの家屋兼工場から向かい三軒隣に行った所にある、宮坂さんの家の二女で、高校一年生である。
「うちのお母さんの実家から、蜜柑をたくさん送ってきたから、皆さんでどうぞって」
「えっ、まじ? やったぁ」
涼斗は軍手をポケットに突っ込み、両手を作業着で拭きながら、彼女の方に歩み寄った。
「いつもいつも、有難いねぇ」
重たい蜜柑の袋を受け取りながら、彼はエヘエヘと笑った。
軽自動車のエンジンをいじっていた村上が、彼の背中に怒鳴りつけた。
「真弓ちゃんは、【皆さんに】って言ってんだろ!」
それから彼は、真弓に向かって満面の笑顔で、
「ありがとね、お母さんによろしくね」
そう言って、手を振ってみせた。
真弓は白い頬にえくぼを浮かべて、軽くお辞儀をする。水色のセーターの輪郭が、柔らかい光の中に溶け合っているように見えた。
立ち去りしな、彼女の大きな瞳は黙々と作業をし続けている康之の背中を、ちら、と掠める。
こちらを振り向きもせず、ずっと黙ったままでいる幼馴染に、心なしか彼女の表情は寂しそうに見えた。
彼女が去った後。
康之は村上に後ろから頭をはたかれた。
「顔ぐらい見せろ!」
涼斗が袋から出した蜜柑に頬ずりをしながら茶化した。
「康之、好きなんだものな―っ。真弓ちゃんの事。照れちゃってんだよなーっ」
「………………」
康之は何も言わずに車から離れると、隅に置いたペットボトルの水を一口飲み、涼斗を振り返ると、
「うるせぇんだ。お前は」
そう言って、腕で口を拭った。
康之と真弓とは、幼稚園時代からの幼馴染である。
小さな時には良く一緒に遊んでいたものだったが、小学五年生位からだろうか、特に何かがあったわけでもないのだが、バッタリと喋らなくなっていた。
そんな調子のまま、中学の頃は道で会ってもお互いにそそくさと目を逸らしたりしていたのだが、最近になってまた彼女は、彼の家に親戚から送られてきた菓子の余りものやら何やらを、持ってきてくれるようになっている。
「気があるみたいな気がするんだよ、おれはね」
村上は車にもたれながらそう言うと、いわくありげな視線を康之に向けた。
何も言わない彼に代わって涼斗が訊ねる。
「気があるっていうのは、真弓ちゃんが、ですか?」
「うぅん……」
唸りながら腕組みをした村上の顔を覗き込んで、涼斗はにわかに目を輝かせた。
「おれに?」
「バカ、康之にだよ」
「そーかなァ」
「おれはそう思う」
無情な一言に途端に白けてしまった涼斗は、口を尖らせながら雑巾をクルクルと振り回した。
車の下に潜り込んでサスペンションの修理に取り掛かり始めた康之は、村上の言葉に息を殺している。
「だけどな、おい康之、聞いてるか」
康之は暗い車の腹を見つめながら黙っていた。油の匂いに混じって、村上の厳しいけれども優しい声が聞こえてくる。
「いつまでもそんな態度じゃ、うまく行くもんも行かねぇぞ」
月曜日の午後、部活の時間。
蜂蜜色の風が校庭を拭きぬけていく。
街中を走り抜け、正門からグラウンドに戻ってきた長距離走者を、腕時計の針を見つめたままのマネージャーと陸上部顧問の川越先生が、興奮の面持ちで出迎えた。
「凄いぞ、大久保!」
「この前よりも、めっちゃタイム縮んでるわよ!」
彼らの驚きの声で、それぞれの練習に取り組んでいたほかの部員達や、少し離れた所でボールの蹴りっこをしていたサッカー部員達までもが、よろよろと歩きながら呼吸を整えている、青いジャージー姿の大久保に目を向ける。
彼に続いて二年生の山内、小田原といった今までだったらダントツで一位、二位を争っていたような走者たちが次々に戻ってくる。
しかし人々の視線は、このところ急速にタイムを縮め続けている一年生の大久保に釘付けだった。
百メートルを何本かダッシュして、緩んだ靴紐を直していた康之は、隣で足をほぐしながら大久保に目をやっている羽田のそばに歩み寄って囁いた。
「おい、また大久保がトップだったぞ……」
「あいつ、どうしちゃったんだろう」
膝に手を当てながら、首に掛けたタオルで汗を拭いている大久保に、マネージャーの静香が話しかけている。
「スゴイじゃん! 大久保君」
「エへへ……」
大久保はタオルで口元を覆いながら照れ笑いをした。静香が彼の肘をちょんちょん突きながらからかった。
「どうしたの? 何か変なクスリでも使ってんじゃないのォ?」
「ばれた? 実はね……」
言いかけて彼は、彼女の頭をタオルではたいた。
「んなわけねーだろ、バカ」
頭を抱えて舌を出している静香とひとしきり笑い合った後、
「なんか、最近やけに調子がいいんだよな。何でか自分でもわかんないんだけど……」
大久保は首を傾げた。
「何かいい事でもあったとか?」
静香の言葉に、大久保は腕組みしながら暫く考え込んだが、やがて肩をすくめながら、
「わかんない」
と、苦笑いをした。
少し離れた所でそれを見ながら、康之と羽田が首を傾げている。夕刻の太陽が彼らの足元に長い影を作っている。
「静香のやつ、どんだけ情報弱者なんだよ。……大久保には良い事どころか……」
「……悪い事があったんだよなあ……」
大久保は、ずっと好きだった陸上部内の女の子に振られ、おまけに部をやめた彼女からは徹底的に避けられている最中なのである。
「ついこないだまで、弁当も喉を通らなかったあいつに、一体何があったのだろうか」
眉間に縦皺を寄せて呟く羽田の背後で、二年生の怒鳴り声が聞こえた。
「羽田っ! 市川っ! なにボーッと突っ立ってんだよ!」
振り返ると、先輩たちがトラックの所で睨んでいる。
「すいません!」
二人は冷や汗をかきながら、そちらに駆けていった。
「どうして最近調子が出でんのか、わかんないけど……」
学校からの帰り道。駅前のラーメン屋で、丼にスープを注ぐオヤジの手つきを眺めながら大久保は言った。
「もしかしたら、精神的に安定してきたからかもしれないな」
「安定……?」
左隣に腰掛ける康之が聞き返すと、大久保は頷いた。
「はい、おまち。ラーメン二つとチャーシュー麵一つ」
オヤジの声と共に、彼らの前に湯気立ち昇る丼が出された。
大久保は胡椒を振りかけながら言う。
「つまり、おれが振られたのは、タイミングが悪かった、という一言に尽きるわけだ」
やけに力強い、確信に満ちた言い方だ。
「な、そうだろ。羽田チャン」
彼は右隣に座る羽田の目を見つめながら同意を求めた。羽田はチャーシューを噛みながら、
「んー……まあ……、そうとも考えられないこともな……、うーん……」
なんとも歯切れが悪い。
「そうなんだよ!」
大久保はそう言うと、勢いよくラーメンを啜り込んだ。羽田と康之はカウンターに前かがみになり、何となく困ったような顔を見合わせた。
「彼女、陸上部内で女の先輩と上手くいかなくなってたらしくてさ、もうこんな部活やめてやるワッ、なーんて思ってた時に、同じ部員のおれが告白なんかしちゃったモンだからさ、ちょっと動揺しちゃったんだな、うん」
大久保はそう言って、一人、うんうんと頷いた。
「その後で、おれが煽っちゃったからなぁ……」
羽田が箸先で麵を救い上げながら、申し訳なさそうに呟く。
「……あれは、今思うと、決定的だったなぁ……」
「かなりしつこくしたらしいからな。多分、それで嫌われたんだよな」
康之はそう言うと、スープを飲んで眉をしかめた。
大久保は左右に手を広げ、「オーケー、オーケー」と友人達の言葉を制してから言った。
「もう、その事は言わないでくれ!」
湯気の中でオヤジがちらりと彼らの方に視線を向ける。大久保は続けた。
「おれはもう、過去を振り返るのはやめたのさ」
そう言って、へへ、と笑いながら鼻をこする。
「こうなったらもう、持久戦だぜ。そう腹を決めたら、何だか希望が見えてきたんだ」
店内を微かに振動させながら、電車がゴウ……と高架を通過していった。ガラス戸の外では学校帰りや会社帰りの人々が足早に行き交いしている。
黙ったままでいる友人達に、大久保は言った。
「押してもダメなら、引いてみろ、だ」
その言葉に、康之は思わず目頭を押さえた。
「やべえ、こいつの健気さには泣けてくる」
「偉いっ!」
羽田はそう言って、大久保の背中をばーん! と叩いた。
「踏まれても踏まれても挫けないこの雑草魂、見上げたもんだ!」
スープをかき混ぜながら、オヤジが笑って頷いた。
「いやあ、若いっていうのはイイもんだねぇ、純粋で。兄ちゃん、頑張んなよ」
大久保は照れて、頭を掻いた。
ラーメン屋を後にして、彼らは駅に向かう。階段を上りホームに出ると、冬の夜空が駅前商店街の明かりでかすんでいるのが見えた。
黄色い電車がちょうど両方向からやってくる。
彼らは軽く手を振り合いながら、それぞれの電車に乗り込んだ。
一人、反対方向の電車に乗った康之は、空いた座席に腰掛けると、向かいの窓に見える景色を見るともなく眺めていた。
黒い空に眩しく浮かんだ都会の夜景が流れていく。
一つ駅に止まるごとに、サラリーマンやOLや学生などで、座席やつり革が埋まっていく。
高層ビルが彼方に去り、道路に並ぶ車のライトや街の明かりがまた去っていく……
電車の心地よい振動に揺られながら、康之はいつしか眠りについていた。
中編に続く
「橋を吹く風」中編
こちらは私の本(長編小説)になります。よろしくお願いいたします。