橋を吹く風 後編
隅田川純情物語
顔を見せない真弓の事が、気になって仕方がない。
通学の電車の中でも、授業の最中も、部活動で全力疾走しているときにも、彼女の事が頭から離れなかった。
……もしかして、嫌われたのかな。
人込みを押し分けるようにして電車を降りた康之は、白い息を吐きながらスポーツバッグを揺すり上げた。
夜空の下に、国技館の大屋根と博物館の白い建物がぼうっと浮かびあがって見える。
……彼女の家に、たずねに行こうか?
白く光るプラットホームの時計に目をやる。七時二十三分。
彼女はもう帰っているだろうか。
とにかく、このままではいられない気がする。彼女が今、どうしているのか知りたい。とりあえず、声だけでも聞きたい。
階段を降り、改札を出る。
ずっと疎遠にしていたから、メールアドレスも携帯番号も知らない。
ほんの目と鼻の先に住んでいるのに、彼女への距離はなんと遠いことだろう。
「いつも差し入れを貰ってる事だし、こっちから訪ねて行ったって、たぶん怪しいなんて思われないよな……」
そう思いながらも、彼女の父や母への応対を考えると、ちょっと緊張してしまう。
「まあ、そん時はそん時だ」
心を決めた彼は、真弓の家に向かって行った。
彼女の家の門扉まで来た時、彼は折よく、真弓がポストから夕刊を取り出している所に出くわした。
「あれ? 康之君?」
なんてラッキーなんだろう。
康之は緊張が緩んだだあまり、気ぬけたような顔で頷いた。
「うん」
「康之君からうちに来るなんて、珍しいね……」
「……いや、最近、顔見せないから……」
彼は脇を向き、軽く咳払いをしてから言った。
「どうしたのかと思ったんだよ」
「風邪ひいてるの?」
「少しね」
「あたしも風邪ひいてたの」
彼女はそう言うと、軽く喉を叩き、
「変な声してるでしょう? もう、やんなっちゃう」
と、少し枯れ気味の声で笑った。
「そうか、風邪かあ」
それで暫くうちに来れなかったのか……。心の中でほっと溜息をつきながら、彼は訊ねた。
「熱とかは?」
「ううん、もう大分良くなってるの。学校にも行けるし」
「……そうか……」
彼はそう呟くと、
「それは良かった」
そう言って、暫く黙った。
「ふふふ…………」
彼女が不意に笑いだした。
「何?」
「康之君、先生みたい」
そうだったかな……、康之は少し照れながら笑う。その時、玄関の扉が半分開き、中から彼女の母の声がした。
「真弓、なにやってるの。いつまでも外にいたら、また風邪を悪くしちゃう……」
その声に、真弓は慌てたように
「はーい」
と返事をすると、康之に向かって目配せをして、
「じゃぁ、またね」
と手を振ると、家の中に戻って行った。
久しぶりに彼女に会えたせいだろうか。いつもと変わらない街の景色が、何だか急に不思議なくらいに暖かく見えた。
次の日の二時間目の教室。
暖房で程よく暖まった空気に、羽田のたどたどしい英文朗読が一段と眠気を誘う。
教卓では水色のジャージー姿の北村先生が、頬杖をつきながら教科書を見ている。窓の外はカランと冴えわたった青空。ぽかぽかの太陽が窓際の席にスポットライトのように差し込んでいる。
「もういい」
微かに眉をしかめながら先生が言った。
「発音が悪すぎる。もう大分練習が必要。次、出席番号十二番」
舌を出して照れ笑いしながら椅子に座った羽田に代わって、廊下側の方で熊谷美香が派手な音を立てて椅子を動かしながら立ち上がった。
「アット……ア、ア、アズァ……タイムス……ウ……」
北村先生は額に手を当て、はあっ、とため息をついた。
クラスの三分の一が机に伏して居眠りをしている。もしくは手元で消しゴムをいじったり、シャープペンを回したり、教科書やノートに落書きをしている。
この英語教師は日によって出席番号の偶数の者しか当てない時と奇数の者しか当てない時とが決まっていて、今日は偶数番号が当てられる日なので、奇数の者はダラけていても安心なのである。
美香の後ろの席で、大久保はナマコのようになって眠っている。このところの彼は少し張り切り過ぎて、疲労がたまっているようだ。
康之は窓際の一番後ろの席で、頬杖をつきながら外を眺めていた。今日は気持ちがとても穏やかだ。校庭の銀杏の木も、白く反射している周りの建物も優しげに笑っているように見えた。
ふと隣を見ると、桜井芹奈がノートに一生懸命、カメの絵を落書きしている。
「…………」
頬杖をついたまま、彼は首を傾げた。
ヘタクソなのは仕方がないとしても、どうも変だ。
康之はシャープペンをカメの尻尾にトントン当てて、彼女に忠告してやった。
「カメのシッポはこんなに長くねェよ」
芹菜は短いお下げ髪を揺らしながら自分の絵をじっと見ている。
「……そうだったっけ……?」
「おれ、カメ飼ってるから、カメにはちっとうるせぇんだよ」
康之は得意げにそう言うと、ふふんと笑った。
この日の彼は、とても気分が良かった。
真弓の一家が街を出ていったのは、その週の土曜日のことだった。
部活動を終えた彼が夕方家に戻ると、玄関先の下駄箱の上に薔薇模様の包装紙に包まれた箱が乗っていた。
「なんだこれ」
白いオビに「宮坂」と書いてある。玄関に立ったまま箱を取って見ている康之に、洗面所から出てきた涼斗が気付いて言った。
「おかえり」
「おい、なんだこれ」
箱を見つめながら訊ねる康之に、彼は答えた。
「宮坂さんち、今日引っ越したんだよ」
「引っ越した?」
涼斗の言葉に、康之は一瞬耳を疑った。
「どこに?」
「さあー、おれは知らない。……この辺の土地は高く売れるだろうからな……」
彼がそう言っている途中に、ガラス戸越しの工場の方から、村上の怒鳴る声がした。
「涼斗! 後片付け、ちゃんとやれよ!」
「やべー、村上さん、怒ってる……」
涼斗は康之に目配せをしてをして、縮み上がりながら工場に出ていった。
……引っ越した?……そんな馬鹿な……
康之には信じられなかった。彼は箱を玄関先に置き、荷物を廊下に投げると、ガラリと戸を開け、外へ飛び出した。
向かい三軒隣の真弓の家の前に行ってみると、すでに表札が取り外されていた。
玄関先に置かれていた植木鉢も、二階のベランダに掛かっていた物干し竿もなくなり、窓という窓は雨戸で閉じられていた。
昨日学校から返ってきた時には、この窓から暖かい明かりが漏れていたのに。ついこの間、彼女と言葉を交わした時には、そんな話は出なかったのに。
ひっそりとした路地には、小学校の校庭で子供たちが遊ぶ声だけが聞こえている。
どうして…………
どうして何も言ってくれなかったのだろう。
鉄橋の欄干にもたれながら、康之はぼんやりと川を見つめていた。
いてもたってもいられないような気がして、歩き回っているうちにここに来てしまったのだ。
大きな貨物船が、深緑色の川面にソーダのような泡を立てながら下っていき、広がる波が茜色の空を映して揺れている。
藻を含んだような川の匂い。
背後からは絶え間なく、車の音が聞こえてくる。
防波堤の内側では、クレーン車が長い首を伸ばし、何かの工事をしている。
「あっちいけブス。お前なんか嫌いだよ!」
小学五年の冬のころ。この橋の上で、彼女に吐き捨てるようにそう言った事を思い出した。
「こっちだって、あんたなんか大っ嫌い!」
勝気だった真弓の、涙を含んだような声が、茜色の川面によみがえってきた。
「大っ嫌いよ!」
川の上に曲がりくねっている高速道路の車が、次々にライトを点け始め、鉄橋に立つ大きな街灯も、あかりをともし始めたが、彼は欄干に肘をついたまま動かなかった。
夕陽が、橋をオレンジ色に染めている。
川風に吹かれながら、ただ、胸が苦しかった。
おわり
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