「幻談・観画談」
を読みました。
幸田露伴(1867-1947)と言えば
などを書いていた青年期には
尾崎紅葉と並ぶ人気作家で
「紅露時代」と呼ばれたほどの一時代を築いたお人。
「流れる」で知られる
作家・幸田文さんのお父様であり
現在、作家として活躍しておられる
青木玉さんのお祖父様
青木奈緒さんの
曽祖父様でもあります。
(文筆家の血筋ですねぇ)
こちらの本に収められている5つの短編は
露伴の円熟期に書かれた作品たちです。
「観画談」(大正14年) 58歳
「骨董」(大正15年) 59歳
「魔法修行者」(昭和3年) 61歳
「蘆声」(昭和3年) 61歳
「幻談」(昭和13年) 71歳
老荘的な味わいを見せる
「観画談」
釣りを通じて少年と心を通わせ合う
「蘆声」
この2編は短編小説的なのですが
それ以外の3編は
随筆のような、お話のような……というスタイルを取っていて
(後期の露伴はこういうスタイルで書くのが得意)
非常に話上手で博識な
仙人みたいなオジさんがしてくれる
面白い雑談
というような感じになっています。
どれも大変に面白かったのですが
この中では、私は特に
「魔法修行者」
の内容が
非常に興味深かったです。
それによると
我が国には、古来から
飯綱(いづな)の法
とか
茶吉尼(だきに)の法
と呼ばれる
魔法があるんだそうですよ。
それらは昔から
邪法とか
言われていたらしいです。
で
それは一体
どうやってやるのかというと
(; ・`д・´)
管狐(くだぎつね)という鼠ほどの小さな狐を山より受取って来て、これを使うなどということは世俗のややもすれば伝えることであるが、
自分は知らぬ。
そこの所は、露伴さん
そんな風に言って
読者を煙に巻いてしまっています。
(・_・;)
信州に伝わっていた飯綱の法(管狐を使う呪術)と
茶吉尼天が使う愛宕の法(茶吉尼の法)が合体して
「飯綱の法」になったとかで
両者は混然一体となっています。
※ダキニの表記法は「茶吉尼」「吒吉尼」「荼枳尼」など色々。
この魔法を修めたい一心で
修行をして魔法使いになった人物が
歴史上に実在しています。
一人は
応仁の乱の主要キャストの一人である細川勝元(山名宗全と敵対)の一人息子
細川政元。
なかなか世継ぎが生まれなかった細川勝元が
「子供を授けてください」
と祈って授かったのが政元です。
そんな因縁もあったせいか
政元は幼時から愛宕山大権現を尊崇していました。
彼は成長するに従って
「超能力を得たい!」と考え
美味しいものも食べず、女性を遠ざけ
身を慎んで40歳近くまで過ごしました。
妻帯しないので
当然、世継ぎは出来ず
仕方がないので
養子を迎える事になったわけですが
これが災いの元!!
周囲の人々がそれぞれの思惑で
貴族の家から澄之
細川家の親戚筋から澄元
と
二人も迎えてしまったので
当然の如く
双方を担ぐ人々が対立し
お家騒動が勃発してしまいました。
しかし当主の政元は、修行にばかり耽って
「我関せず」
という調子。
周囲がワーワー騒ぎ立てる中
数々の不思議を現したり
空中へ飛び上がったり
空中に立ったり
ワケのわからない事を言ったり
していたそうです。
空中へ上るのは西洋の魔法使いもする事で、それだけ永い間修行したのだから、その位の事は出来たことと見て置こう。
感情が測られず、超常的言語など発するというのは、もともと普通凡庸の世界を出たいというので修行したのだから、修行を積めばそうなるのは当然の道理で、
ここが慥(たしか)に魔法の有難いところである。
「魔法の有難いところ」
……そ、……そうなんでしょうか???
(^^;)
折角、魔法が使えるのなら
もっと有効的に活用していただきたいと思うのですが……。
肝心の当主がそんな有様なので
「ここはもう、澄元殿に家督をとっていただき、政元公には隠居してもらって、勝手に魔法三昧でも何でもしてもらおう」
と言う動きになったのですが
これは失敗して
首謀者は切腹。
ところがもう暫くすると
またしても家臣の間で
「あんな魔法にばっかりかまけている殿じゃ駄目だ」
という声があがりはじめ
今度は
「澄之様に管領家を相続してもらい、
政元公にはご自害してもらおう」
などという企みが持ち上がりました。
家中はこんな有様
外はと言えば、戦乱の真っ最中だというのに
当の政元は
魔法修行にばかり夢中になっています。
しかし────
吒吉尼天(だきにてん)は魔だ、仏(ぶつ)だ、
魔でない、仏(ほとけ)でない。
吒吉尼天だ。
人心を噉尽(かんじん)するものだ。
心垢を噉尽するものだ。
※噉尽……喰らい尽くす
今日もいつものように本尊を安置し、法壇を飾り
まずは一身の汚れを取り去ろう───
そう思った政元が
行水を使っている所……
突如襲い掛かって来た刺客により
彼は命を落としてしまいました。
いざという時に
魔法は役に立たなかったんですねぇ……。
────さて
細川政元って
本当にこんな人だったの!?
そう思って
Wikipediaを見てみましたところ
実際の
細川政元(1466-1507)は
足利将軍家10代将軍義材(よしき)を追放して11代義澄を擁立し、政権を把握。
事実上の最高権力者となり
「半将軍」と呼ばれたという
かなりのヤリ手だったようです。
しかし
修験道に没頭して
天狗の扮装をするなど
度々奇行があったというのは事実だそうで
女性を遠ざける一方で
衆道(男色)は嗜んでいたらしいです。
また
烏帽子を嫌って被らなかったり
突然、諸国放浪の旅に出てしまったり
といった感じで
かなり浮世離れした
奇人変人である一方
山伏たちをスパイとして使うなどといった
抜け目のない一面も……。
むかえた養子は3人だそうで
関白九条政基の子、澄之
細川一門の阿波守護家から澄元
そして
細川宗家(京兆家)の分家、野州家から、高国が迎えられています。
政元が暗殺されたのは
「細川殿の変」
この一連のお家騒動は
「永正の錯乱」
と名付けられています。
一旦は澄之が継いだものの
高国に支持された澄元が反旗を翻し
澄之は自害。
家督は澄元のものとなります。
しかし
その後、高国VS澄元の争いとなり
澄元は京から近江に逃げ
高国が家督を継ぐものの……その後も色々とゴタゴタが続きます。(^^;)
ところで
「魔法修行者」ではこの後
実在の魔法修行者としてもう一人
戦国時代〜安土桃山時代の
藤原氏の氏の長者
九条植通(たねみち)(1507-1594)が紹介されていました。
名門貴族ではあるものの、時代柄、経済的には非常に困窮していたのですが
全く臆することなく堂々と渡り合い
87歳の長寿を全うした
飯綱の法の達人だったそうです。
(彼の寝る所の屋根には、常に天狗の化身であるフクロウが来て鳴き、道を行けば目には見えない眷属が彼を擁護して前を行くので旋風が巻き起こる、といった調子)
細川政元にとっては
身の破滅の原因となってしまった飯綱の法ですが
九条植通は上手にコントロールして
良い感じに使いこなしていたようです。
博識の学者でもある九条植通は「源氏物語」が大好きで
明け暮れ「源氏」を読んで60年
ちっとも飽きることがありませんでした。
藪の中の、朽ちかけた坊に住み
毎朝毎朝輪袈裟を掛け、印を結び、行法怠らず、朝廷長久、天下太平、家門隆昌を祈って、
それから食事の後には、ただもう机に凴(よ)って源氏を読んでいたというが、
如何にも寂びた、細々とした、すっきりとした、塵雑の気のない、平らな、落ついた、
空室に日の光が白く射したような生活のさまが思われて、
飯綱も成就したろうが、自己も成就した人と見える。
この九条植通像
私はなんとなく
博識で清貧でちょっと仙人めいている、幸田露伴自身の姿と重なって来るような気がするんですよねえ……。
露伴の詩に、こんなものがあります。
銭はあらずも 身は風流の
一味の閑に 世を過してよ
「述懐」
荼枳尼(だきに)天
という神様は
ダーキニーという人肉を喰らっていた女夜叉が
改心して福の神となったもので
祀るのが非常に難しく、一度祀ると自分の命と引きかえに最後までその信仰を守り通さなければならない。
とか
もしその約束を破ったら、没落するか禍がもたらされる。
などと
言われる事があるそうです。
そんな怖〜い一面もあるのですが
その
福の神としての
神通力は絶大なんだそうですよ。
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