昔の人が書いた本を読んでいて
ものの見方や考え方に
「なるほどな~」って感心した後
それを書いた時の著者の年齢を調べてみると
「えっ! この人がこれを書いた時って
こんなに若い時だったの?」
と、ビックリしてしまう時があります。
松尾芭蕉が「おくのほそみち」の旅をして
「不易流行」の理念に到達したのは46歳の時。
文豪夏目漱石は49歳という若さで亡くなっています。
「枯れた大人」
ってイメージじゃありませんでしたか?
まだ40代なのに
「芭蕉翁」なんて呼ばれていたんですねぇ……。
余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。
正岡子規「病牀六尺」より
これを書いた時の正岡子規は
亡くなる直前の34歳。
運命は偶然よりも必然である。「運命は性格の中にある」という言葉は決して等閑に生まれたものではない。
31歳から自殺する35歳までの間です。
もとより
彼らは大変な知識人でしたので
もともと一般の人に比べれば、頭を働かせる事も多かっただろうとは思いますが
実年齢より20歳位は年取ってるんじゃないか?
なんて思ってしまうほどの老成ぶりです。
そこで
なんとなく思ったのですが
現代の人は
「年を取っても、いつまでも若くいる事」
が良しとされているけれど
戦前までの人達には
少なくとも精神的な面においては
若さよりも
「老成」とか「円熟」とかいった
「大人っぽさ」の方を良しとするような雰囲気が
あったんではないでしょうか?
それに加えて
昔は現代ほど
「外部から勝手に入ってくる情報」
というものが無かったから
じっくり腰を据えて
自分の頭で物事を考える習慣
というものが
あったんじゃないのかな?
と思います。
現代は
物心ついた時から
テレビは家族同然に身近な存在だし
街を歩いていても
スマートフォンを開いてみても
いたるところに
広告やニュースが溢れかえっています。
まさに情報のシャワー状態。
自分自身をふり返ってみて思うのですが
現代人は
次から次へと流れて来る新しい情報を消費するのに忙しくて
ひとつの事象を深く考えてみる
という習慣が
昔の人と比べて著しく
退化しているような気がします。
自分自身の頭を使うことなく
画面の中にいる人が発するコメントに対して
「そうだそうだ」
とか
「えーそれはちょっと」
くらいの反応をして
次の瞬間には、その件はもう終わり……。
なによりも
私自身がそんな状態を
ずっと続けていたような気がします。
これって
「考える」ということを
テレビの中の人に何割か委ねてしまっているような状態なんですよね……。
自分自身ではほとんど何も考えていないんだけど
考えているっぽい人の意見だけを聞いて
あたかも
一緒に考えたような気分(だけ)になってしまっている。
最近は
そういう所から発せられる価値観(商業主義や世論誘導)に
なんだか疲れや不信を感じてしまうことが多くなってしまったので
実はここ数年
私は、ほとんどテレビを見なくなっています。
(新聞も連載小説と人生相談くらいしかまともに読んではおりません)
自分にとって
本当に必要なものって何だろう?
自分にとっての幸せって
どういう状態なんだろう?
とりわけ
そういうことって
結局は
自分自身で考えなければ
納得のいく答えが得られないし
しかもこれは
人が生きていく上で
かなり重要な事だったりしますから
たまには外部からの情報(雑音)をシャットアウトして
自分の心に向き合って
じっくりと物を考える
というのも
必要なんじゃないでしょうかねえ……。
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