TODAWARABLOG

戸田蕨です。小説書いてます。よろしくお願いします。

青山二郎「鎌倉文士骨董奇譚」~超ハイセンスでリッチな高等遊民の交遊録と美意識

今回は

装丁家、陶器の鑑定家として知られた

青山二郎(1901-1979)の随筆集

講談社文芸文庫刊の

「鎌倉文士骨董奇譚」

という本のご紹介をいたします。

 

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こちらの本には

1952(昭和27)年

青山二郎51歳の時に芸術新潮に発表した

「鎌倉文士骨董奇譚」

という文章を軸として

昭和6年昭和35年までに書かれた、彼の随筆が複数収められています。

 

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青山二郎とは

一体どんな人かと言いますと

 

明治34年に東京・麻布界隈の大地主青山家のお坊ちゃま(次男坊)として生まれた

恐ろしく

美的感覚に優れた人です。

 

若干14歳から焼き物に興味を抱き始め

高価な一級品に馴染んでいた彼は

陶器の目利きとしての才能をめきめきと開花させました。

 

若い時には

「無名職人の手による普段使いの日用品に美を見出す」

という民藝運動の提唱者

柳宗悦(青山より12歳年上)と共に

日本民藝館の設立準備に関わり

(その後、民藝派とは感覚の相違を感じ、離れていく)

 

また

実業家横河民輔が集めた

2000点もの中国陶磁の図録作成を委託され

昭和6年「甌香譜」

昭和21年「志那陶器図譜」を刊行しています。

 

も描き、文章も書き

本の装丁なども多く手掛けていたことから

美術評論家装丁家

などとも言われましたが

 

しかし、あえてそれらを

「生業・職業」にしようとはしませんでした。

(お金持ちなので、する必要にも迫られなかったんですね)

 

※こちらは青山二郎による自著の装丁です。 

眼の引越 (1982年) (中公文庫)
 

 Wikipediaには

「数寄者」と書かれ

(すきしゃ……本業とは別に茶の湯を好み、一流の茶道具を所有する人)

また

高等遊民などとも

よく言われています。

 

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この本の中の

「本の装丁について」という随筆で

彼は、こんな趣旨の事を述べています。

 

本の装丁も、絵を描くのも、文章を書くのも

自分にとっては、すべて「余技」である。

骨董の「余技」に到っては随分長い事になる。

友達でも、遊びでも

自分のやる事は、何でも長い間柄になる。

「余技」でやっているからこそ

それらは長く続いているに違いない。

 

 

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「余技」だからこそ楽しい。楽しいからこそ長く続けられる。って事かも知れませんね。

 

彼は評論家・小林秀雄親友にして

骨董道楽の師匠でもあります。

 

彼の友人には中原中也永井龍男などがおり

宇野千代白洲正子などとも親しく交流していたようです。

 

青山二郎の周りには

常に人が集まってきていて

「青山学院」と呼ばれていました。

 

金払いの良いリッチなお坊ちゃまの周りに

同世代の若い文学者たちが集い合い

飲食代を全部払ってもらっている様子などからは

 いささか

「たかっている」ような雰囲気も感じられてしまうのですが

 

青山二郎本人の卓越した芸術的センスには

誰もが一目置いていました。

 

 「青山学院」にやって来た人は

「校長」の青山や「教授」の小林、永井らによって

何日も酒を飲まされ続け

遊びに付き合わされました。

 

酔った彼等に激しく絡まれ

泣いたらもっと絡まれたそうです。

 

まあ、何といいますか

 

どちらかと言えば

あんまりお行儀の良くなさそうな

悪友的な間柄の面々ですね。

(^^;)

 

本の冒頭に収められている

「鎌倉文士骨董奇談」では

親友、小林秀雄の話にかなりのページ数が割かれています。

 

骨董になど、まるっきり興味の無かった小林が

青山の影響によって骨董にハマりだし

かなりの目利きに成長していく様が描かれています。

 

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青山二郎という人は

誰もが一目で美しいとわかってしまうような物には心惹かれず

(そんなものは博物館のガラス越しにでも見ていれば充分。自分で持ちたいとは思わないそうです)

 

多くの物の中から

自分にピンときたものを拾い上げ

それを

触って使って慈しみ

 

ある日ポンと

手放してしまう

(その時には、手に入れた時の数倍の価値に育っている)

 

そんな感じの人でした。

 

ですから

「これは本物かニセモノか!?」

という所に拘る鑑定家だとか

学者などとはちょっと違うんです。

 

美の愛好家というか ──

 

白洲正子は彼の事を称して

「美の放浪者」

と言っています。

 

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それにしても「美」って

何なんでしょうね。

 

個人個人の主観(好み)に拠る所もあるのでしょうが

ある程度、人類が共通して「美しい」と感じるものは、あるような気がするのですが……。

 

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青山二郎

「美」について

このように語っています。

 

優れた画家が、美を描いたことはない。

優れた詩人が、美を歌ったことはない。

それは描くものではなく、歌い得るものでもない。

美とは、それを観た者の《発見》である。

創作である。

 

「日本の陶器」より

 

 骨董屋の店先から「おっ」と思う物を発見し

大変な執着心をもってそれを手に入れ

日夜、愛玩していたかと思うと

ある日突然

ポイッと惜しげもなく手放してしまう彼。

 

彼は

こんな事も言っています。

 

私にもこれだけは生涯持っていたいと思った物が少しはあった。

だが美とは何だろう。

一つの物にしがみ付いていたからと言って、向こうで大人しくしていないのだから

そんな物を何時迄も信用出来る訳はないのである。

 

「日本の陶器」より 

 

美が鑑賞者の発見創作なのだとすれば

心が移り変わるにつれ

美も移ろうものなのかもしれませんね……。

 

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この本には

彼と北大路魯山人(芸術家・美食家・料理家 青山より18歳年上)との交流を描いた随筆も、収録されています。

 

幼い頃から

過酷な境遇で苦労してきた魯山人

苦労知らずの青山二郎

 

生まれ育ちは対照的な二人ですが

身の回り全ての物を、自分の美意識に叶った、美しい物ばかりにしたい

──そんな所などはソックリだったりします。

 

青山によると、魯山人は彼の事を

「眼利かずで、物識らずの天才的次男坊」

だと言っていたそうです。

 

しかし、やはり

お互いに一目置き合ってはいたようで

 

魯山人はちょくちょく青山の所に電話を掛けて来て

「星ヶ岡茶寮」の楽屋で、色々な珍味を食べさせたそうです。

 

魯山人の死後に書かれた

魯山人伝説」の文中では

クセの強い偏屈爺さんだった魯山人

かなり皮肉っぽく、こき下ろすような口調で書いているのですが

 

それでも

根っこの所には、何となくのようなものがあるように感じられました。

(二人は青山の叔父と魯山人との不和に巻き込まれるような形で喧嘩別れしています)

 

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青山二郎ご先祖

徳川家康重臣

 

青山家の広大な下屋敷(別荘地)一帯が

現在の

港区青山の地名の由来になっているんだそうです。

 

ゲランの香水「ミツコ」で有名な

(本当はモデルは違うらしいですが)

クーデンホフ伯爵夫人光子こと

青山みつ(1874-1941)は

青山二郎母の従姉妹にあたります。

(父は婿養子)

 

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現在の青山一丁目駅付近

 

この本の巻末の方では

白洲正子永井龍男河上徹太郎今日出海といった

青山と親しく交流していた人々が

彼の人柄について語っているのですが

 

「友人達から見た青山二郎

かなりユニークな人でした。

 

29歳の時、彼は舞踏家の武原はんと結婚するのですが

父の許しが得られず

当初はみすぼらしい長屋に住んでいました。

(その隣に永井龍男が母と住んでいた)

 

ところが

 

外から見た所は

普通のボロ長屋であるのに

中は永井龍男がビックリ仰天してしまうほどの

贅を尽くした暮らしぶり

だったそうです。

(家具調度は全て逸品ばかり、金に糸目をつけない生活)

 

また

彼は大変な凝り性

 

麻雀牌まで

使用後には一つ一つ丁寧に拭き

薄い京花のちり紙にお菓子のように包んでから箱にしまうほど。

 

日ごろ使い慣れたパイプやら火箸やらも

常にピカピカに磨き上げていたそうです。

(風呂に入ったりしたら、五時間は出て来ない)

 

戦争中、伊東に疎開している間も

彼は相変わらず

キリスト教の本を読んだり、レコードを聴いたり、骨董いじりをしたりと

優雅な趣味三昧で過ごしていたようです。

 

(終戦の年には班長をやらされたり、大きな蓄音機を所有している所からスパイかも、なんて噂をされたりと散々だったようですが)

 

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終戦

「これからの時代、やつもそろそろ働いて稼ぐ必要があるのでは」

と思った友人が、

伊豆の宿屋から伊東に住む青山に電話を掛け

内心「あいつに原稿を書かせよう」となどと思いながら

「泊っている宿に来ないか?」と誘った所

喜んで承諾した青山は

 

なんと

 

自動車に引っ越し道具かと思うほどの荷物をどっさり載せてやって来て

粗末な温泉宿の一室を

豪華な青山家の一室に一変させてしまったそうです。

(自分好みの物に囲まれていないと我慢がならないという性格なんです)

 

その他にも

 

日本式水泳法(水練)で泳ぐのが得意な彼は

海の沖合で

ポッカリ浮いたまま昼寝が出来るほどだそうで

 

それで何度も

溺死人に間違われた

があるとか

 

そんな面白いエピソードが

色々と書かれてありました。

 

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ラッコか!!

 

 誰もがうらやむような高等遊民生活を送っていた彼も

しかし

人知れず、何かに難渋するような事はあったようです。

 

友人の作家

今日出美(こんひでみ)は

彼の事をこのように評していました。

 

いつも自由で呑気そうでいて泥沼を難渋して歩いている。

美の泥沼か、女の泥沼か、性格の泥沼か、誰が知ろう。

ただ気楽に、或は巧みに歩けぬことだけは確かである。

不器用な男というのだろうか。

 

文芸春秋」1958年9月

 

 

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関連記事のご案内

 

 

 茶の湯の美について。岡倉天心茶の本

todawara.hatenablog.com

 

 「芸術」って何なんでしょうね。

todawara.hatenablog.com

 

魯山人の芸術観が窺える本「魯山人陶説」のご紹介

todawara.hatenablog.com

 

 魯山人直伝・美味しい雑炊の作り方。

todawara.hatenablog.com

 

 

 

こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

 

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台風スウェル

台風スウェル

 

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