今回は
作曲家グスタフ・マーラー
建築家ワルター・グロピウス
文学者フランツ・ヴェルフル
という立派な方々の奥さんにして
数多くの芸術家たちと浮名を流したファム・ファタール
アルマ・マーラー(1879-1964)の回想録
「グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想」
について書こうと思います。
アルマ・マーラーは
1879年に画家のエミール・ヤーコプ・シンドラーの娘として
ウィーンに生まれました。
父を大変に慕っていた彼女でしたが
最愛の父は彼女が13歳の1892年に、50歳で亡くなってしまいます。
その後、母は父の弟子だった画家のカール・モルと再婚しますが、継父との間はぎこちないものであったようです。
大変な美少女である上に教養が深く、芸術的センスにもあふれたアルマは、彼女の家に出入りする多くの男性芸術家たちからチヤホヤされるのですが
やがて、19歳年上の音楽家
グスタフ・マーラーと恋に落ち
21歳で結婚します。
この二人の年齢差については
後にマーラーが精神科医のジークムント・フロイトに相談した時
このように診断されています。
「あの人(アルマ)は父親を愛しているから、父親に似た人間だけしかえらばないし、愛さない。
あなた(マーラー)の年齢は、あなたはひじょうに恐れているようだが──実は彼女にとっては魅力のある年齢だ。
だから心配することなどない」
この指摘についてアルマは
「当たっている」
と言っています。
実父のことが大好きだった彼女はこれまで
父の面影に似た
小柄で、痩せて、頭が良く、精神面の秀でた男性ばかりを好きになっていました。
マーラーは
まさにそのタイプだったのです。
フロイトはまた
マーラー自身と母親についての関係をこのように診断しています。
「あなたは自分の母親を愛している。
そのため、あらゆる女性のうちに自分の母親のイメージを求めている。
あなたのお母さんは、生活に疲れ、やつれ果てていた。
そのため、あなたは無意識のうちに、自分の奥さんを同じ目に会わせたいと望んでいるのだ」
この指摘に関してマーラーは
「そんなことない!」
と認めませんでしたが
アルマは
「その通りだ!」
と思ったそうです。
マーラーの母親マリーは、ユダヤの上流階級出身だったのですが、生まれつき病弱で片足が悪く
エネルギッシュで上昇志向の強い夫に嫁いだ後は、12人以上もの子供を産んで、大変に苦労をした末に亡くなっていました。
マーラーはかつて、アルマの名前を「マリー」に変えようとしたことがあり
アルマの顔について
「もっと悩みを持っている感じになった方が良い」
と言ったことさえあったそうです。(+_+;)
この本のタイトルには
「愛と苦悩の回想」
とあるのですが
アルマは間違いなくマーラーを愛していた
その一方で
彼の理不尽な態度などに深く苦悩もし
そのために愛情ボルテージが下がりかけるような時も、ままありました。
マーラーは
非常に才能豊かな音楽家であり、その点においては世間に認められてはいるのですが
こと音楽に関しては気難しい完璧主義者なので、指揮を振るオーケストラの人々と折り合いが悪く、しょっちゅう衝突したりしていました。
また、彼がユダヤ人であるという事で、しばしば理不尽な目にも遭わされていました。
彼自身が尊敬しているリヒャルト・ワーグナーの妻コジマにより、ウィーンで栄職に就くことを妨害される、なんて事もあったそうです。
自らも作曲を手掛け、芸術家であることを自任していたアルマは
マーラーのずば抜けた才気に惚れ込み
「この人無しでは生きては行かれない!」
とまで思うようになりました。
私は、彼だけが自分の人生に意味を与えてくれるように思うと同時に、
私の知っているだれよりも高く雲の上の人のように思えた。
こうして、彼と人生を共にしていこうと思った彼女なのですが
マーラーからは
「君がわたしの事以上に、作曲を大事にするのは困る」
と言われ
音楽の道を
無理やり断念させられてしまいます。
美貌と知性と豊かな芸術的感性で、少女期から多くの芸術家たちの
ミューズ(女神)として光を浴びていた彼女が
彼との結婚以後は
裏方に徹する事を余儀なくされてしまったのです。
マーラーの偉大な音楽のため
良妻賢母に徹し、つましく内助の功に励むアルマでしたが
彼女自身の音楽を封印されてしまったことに加え
生活やつれと心労で、自分に対する自信が失われていくうちに
心身のストレスがどんどん蓄積されていくこととなります。
自分の人生において
自分が主人公でなくなってしまうことへの焦りや虚しさって
ちょっとわかるような気がします。
私は子供が生まれた時に
突如、自分の中で
人生の主役が自分から子供へと交代してしまったような
そんな感じがしました。
今から振り返って見れば
子供に手が掛かりっきりだった時は、意外と短かったような気もするんですけど
色々とテンテコマイで忙しく、自分一人の自由な時間が作れなかった時分には
ふと
自分自身の人生に対して、焦りや虚しさを感じてしまう
そんな事も、結構ありましたねえ……
私は次第に劣等感にさいなまれるような結果になって行った。
涙があふれそうでも我慢して陽気にふるまうことも多くなった。彼に見せてはならなかった。
こうした時に作曲でもすれば気はまぎれたかもしれなかったけれど、それも婚約した時から禁止されていた
──私はどこへ行くにも私が昔作った無数の歌を持って歩いていたが、その包みはのぞくこともできない棺のようなものであった。
ある日、彼が思いがけない時間に帰宅したことがあって、私は泣いているのを見られてしまった。
理由をきかれた。
そして私の額に手を当てて
「花開かざりし夢か」
と言った。
私はもう我慢できず、はげしく泣いた。
気難しい夫のフォローや、家計の切り回しと育児などで
くたびれきっているアルマですが
美人さんなので、人妻ながら、たまに男性から好意を寄せられたりする事があったりもします。
(音楽家のハンス・プフィッツナーとか、ガブリロヴィチとか……)
そうすると、彼女はちょっと
自信と元気を回復します。
浮気をする訳ではないんですが
気分はまんざらでもないような感じ。
男性陣から恋心を抱かれ
「私もまだまだ捨てたものじゃない」
と確認できることは
彼女にとっては、精神的な栄養剤みたいなものだったのかもしれませんね。(^^;)
マーラーは結婚前、妹のユスティーネに家計の管理を任せていたのですが
妹の経済観念はゆるゆるだったため
家計はかなり火の車でした。
結婚前から持ち越されていた5000クローネもの大借金を
アルマは、自分の必要なものも買わずに倹約し
見事5年間で払い終えたのです。
独身時代から数々の恋の噂があり
マーラーの死後に辿った派手な恋愛遍歴からは
やや恋愛狂めいたイメージさえ受けてしまう彼女ですが
マーラー夫人であった時のアルマは
内助に徹した良妻であり
二人の娘の賢母だったようです。
大作曲家マーラーは
音楽以外の所では、ちょっと抜けていて可愛い所や、天真爛漫な部分もあるのですが
基本
自己中心的で、気まぐれで
ワガママで面倒くさい人でした。
(まあ、天才芸術家ですからね~……)
余談ですが
「ヴェニスに死す」の主人公
アッシェンバッハのファーストネームが「グスタフ」なのは
マーラーの名前からとって来ていているんだそうです。
そればかりか
アッシェンバッハの外見的な特徴も
マーラーをモデルにしているそうですよ。
そんな
面倒くさい性格のマーラーを
一番理解し、全力で支えていたのがアルマでした。
マーラーにとってアルマは
仕事上でも精神上でも
大きな助けだったに違いありません。
私は彼の生活を生きていた。
私の生活といえるものはなかった。
私の存在のこうした譲歩に彼は気がついていなかった。
彼の頭は自分のことで一杯であり、わずかのことでも邪魔をされると腹を立てた。
作曲、高揚、自己否定、そして尽きることない探究、といったことで彼の人生は初めから終りまで埋まっていた。
私は自分の意志と存在とを捨てていた。
縄でしばられて歩いている人間のように、私は自分のバランスを取るのに精一杯だった。
私がどんなに努力をしたか彼は知らない。
彼は生まれつき自己中心的な人だったが、それを考えてみたこともない。
作曲、ただもうそれだけだった。
1907年
マーラーが目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた4歳の長女が、猩紅熱とジフテリアを併発して急死してしまい
夫婦は激しく悲嘆に暮れます。
アルマはかつて、夫が
《亡き子をしのぶ歌》
などという曲を作っていることに
「そんな曲を作るなんて、なんだか不吉な感じ……」
と、少しモヤモヤしたものを感じていたことがありました。
アルマは心身ともに衰弱してしまい
マーラーも心臓の具合を悪くしてしまいました。
1910年夏
医師に休養の必要を説かれたアルマは、サナトリウムに入って休養をしたのですが
その時、4つ歳下の建築家
ワルター・グロピウスと知り合い、
熱烈な好意を向けられます。
(手記の中では彼の名は伏せられ「X」として出てきます)
グロピウスがマーラー宛に送って寄越した
アルマへの熱烈なラブレター(マーラーへの挑発だったのかも?)を読んでしまったマーラーは
急激に、妻の愛を繋ぎ留めておくことに不安を感じてしまい
ノイローゼ気味になってしまいました。
(グロピウスは出来る男な上にピチピチのヤングですからねぇ……)
冒頭にあったフロイトの診断は、この時に受けたものです。
フロイトに診察してもらった事で、なんとか心の落ち着きを取り戻したマーラーは
突如、今まで禁じていた
アルマ自身の音楽活動を
許すことにしました。
「ぼくは何をやってたんだ。いい歌だ──すばらしいよ。
ぜひ仕事をしたまえ。出版しようじゃないか。
君がまた作曲をはじめてくれないことには、ぼくは心安らかでないよ。
ぼくはあの頃は勝手で、何もわからなかったんだよ」
もっと早く
許してあげれば
よかったのに!!
と思うのですが
自分自身が作曲に没頭している時のピリピリした精神状態なんかを考えると
家庭内に二人も作曲家がいたら持たないとでも思ったんですかねえ……
翌年の1911年2月
みるみるうちに具合が悪くなって
5月18日に亡くなってしまいます。
享年50歳。
死因は連鎖状球菌に感染したことによる敗血症でした。
最後の数日の間、彼は叫んだ、
「ぼくのアルマ」と。
何百回となく呼ばれたその声は、あとにも先にも聞いたことのない悲痛なものだった。
「ぼくのアルマ」、と
今でもこれを書きながら、私は涙を抑えることができないでいる。
マーラーの死後
アルマは若手画家の
オスカー・ココシュカと恋愛しながらも
と再婚します。
が
数年後に離婚してしまいました。
その後小説家の
フランツ・ヴェルフェル(11歳も年下)と結婚して
アメリカに亡命した後には
カリフォルニアで音楽サロンを主宰し
ヨーロッパから亡命してきた多くの音楽家たちと華やかに交流します。
ヴェルフェルが1945年に55歳で亡くなってしまった後
アルマは大好きだったニューヨークで暮らし
1964年に85歳で亡くなりました。
ここに名前のあがった人以外にも、多くのボーイフレンド達と浮名を流し、三回も結婚した彼女ですが
こんなに長~い回想録を書くくらい
やっぱり彼女にとっては
最初の夫マーラーは特別
だったんじゃないのかなあ……
なんて思います。
やっぱり、彼女自身も音楽家ですしねえ……
かつて
マーラー夫婦は、散歩の途中で
こんな会話を交わした事がありました。
「私が一人の男に愛するものは、その人の行きついたものよ。
その人の成果が偉大であればあるほど、私は惹かれざるを得ないわ」
「それはまったく危ないね。それって、ぼくより出来る男が現れた場合の事を言ってるつもり?」
「ええ。そうしたら私、愛さざるを得ないわ」
その時マーラーは
ニヤリと笑って、こう言ったそうです。
「じゃ、ここしばらくは安心だ。
ぼくより出来る奴なんて
いないからね」
この自信!!!!
さすがは
大芸術家!!!
って感じですよね。
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