「大鏡」(平安時代後期に成立したと思われる、藤原摂関家を中心とした歴史の記録)を読んでいた所
和泉式部の恋人として有名な
敦道親王(冷泉天皇の第四皇子)の最初の奥さま
が出て来たんですが
その方のキャラクターが余りにもぶっ飛んでいましたので
ここにご紹介しようと思います。
平安時代のお姫様って
みなさん、どんなイメージを持たれていますか?
御簾や屏風の陰に隠れて、奥ゆかしい「深窓の令嬢」っていう印象が強いのではないかと思いますが
このお姫様
そんなところは皆無のガサツさなんですよ。
もしかして、庶民出身のシンデレラ?
──と、思われても不思議ではないほどのガラッバチなのですが
どっこい
彼女は
関白・藤原道隆公(大酒豪&道長の長兄)の三番目のお嬢様であり
一条天皇の皇后・定子(ていし)様の妹君という
正真正銘の高貴なお姫様なのでございます。
ある日の事
旦那様である敦道親王のお客人が屋敷にやってきました。
この時代の高貴な女性といえば
御簾の内側に隠れて、姿を見られないようにしているのが通例……
ところが
この奥様の場合
御簾を高々と捲り上げ
あろうことか
バスト丸出しで立っていたりしたことがよくあったんだそうです!!!!
さすがにこれには敦道親王も、お仕えしている人々も
どビックリ。
親王は後日、このように証言されております。
「わきを向いたまま動けなかったよ。ただもう恥ずかしくて、恥ずかしくて……!」
それ以外にも
親王が大学寮の学生たちを集めて詩作の会を開いた時には
この奥さん
屏風の向こう側から人々に向かって
二、三十両ほどの砂金を
次々に投げて、ぶっつけて来たんだそうです。
(ご褒美のつもり……?)
いきなりこんな事をされて、学生たちはかなり不快に感じたものの
その場では一応、場が白けてしまわないように気を使い
競争でそれを拾い取ってみせたりしたようですが……
「砂金を下さるのはいいけど、まったく醜態でしたよ」(学生談)
いやはや
なんだか、お札やお金をばら撒く下品な成金オヤジみたいですよね……。(^^;)
それ以外にも彼女は
人々が詩を作ってそれを詠み上げたりしている時に
それを「上手い」だとか「ヘタ」だとか、声高々と批評したりすることもあったそうです。
実は、彼女の母方の一族は学者・高階成忠(たかしなのなりただ)の血統でして
大変に学才のある人々が揃っていたんです。(成忠は祖父にあたります)
お母さんの貴子(きし)さんも
高内侍(こうのないし)と呼ばれた優れた歌人だったので
娘である彼女自身も、相当学才に自信があったんでしょうね。
ちなみに
「百人一首」の54番にある
儀同三司母(ぎどうさんしのはは)というのが
この姫のお母さん、貴子さんです。(儀同三司というのは、息子・伊周の官職の唐名)
忘れじの
行く末まではかたければ
今日を限りの命ともがな
「決して忘れない」と、あなたは言うけれど
先の事なんてわからないもの。
私の命、逢えた今日かぎりで終わって欲しい。
詞書(ことばがき)によると、これは
道隆パパと貴子ママとが、お付き合いを始めたばかりの頃に詠んだ歌だそうです。
うぅ~ん、情熱的ですねえ!
道隆パパには複数の奥さんがいて、お子さんも沢山いるのですが
正室である貴子ママのとの間には
3人の男子と4人の姫が生まれています。
その内訳は以下の通り。(上から年長順)
男の子
隆円(りゅうえん)…十代で僧になる。36歳で死去。
伊周(これちか)…叔父・道長とは政敵同士。色々とやらかしてしまい、権力争いで道長に敗北。37歳で死去。
隆家(たかいえ)…「天下のがむしゃら男」と言われる文武両道。道長も一目置く英雄的性格。65歳で死去。
女の子
定子(ていし)…一条天皇の中宮。天皇との仲は睦まじく、3人の子が生まれたが、子供たちは幼くして亡くなったり、皇太子になれなかったりと不遇だった。27歳で死去。
原子(げんし)…淑景舎(しげいさ)の君と呼ばれ、華やかな人であったが父亡き後すぐに22、3歳で早世。
ここで話題になっているトンデモ姫(名前不詳)…敦道親王の妻。
御匣殿(みくしげどの)…大変な美人で敦康親王(定子の子)の母親代わりだったが若くして死去。
で、この三女にあたるお姫様
イトコにあたる敦道親王(母は道隆パパの妹・超子)が一番最初に迎えた妻となるのですが
気立てが非常に落ち着きがなく
したがって
敦道親王に全然愛されず
権力者だった道隆パパが亡くなった後には
アッサリ離婚されてしまいました。(T_T)
その後、敦道親王は
道隆パパの酒飲み友達、藤原済時(ふじわらのなりとき)の娘を妻に迎えますが
才色兼備のプレイガール、和泉式部と大恋愛の末
その妻とも離婚してしまいます。
そして
27歳の若さで早世……。
周りの人々が次々にいなくなってしまい
富み栄えていた生家が没落してしまった後
彼女はどんな風に生きたのでしょう……?
「晩年は大変に落ちぶれて、一条辺に住んでいた」
と
「大鏡」では書かれていますが
仮にも
関白の姫君
中宮の妹
だった人ですよ?
そこまでのひどい零落ぶりではなかったのではないか、と思いたい……。(だって、可哀想じゃない)
むしろ
ああいう、とっぱずれた性格のお嬢さんだったので
意外と、うるさい世間の目や堅苦しい礼儀作法から解放されて
ノビノビと気楽に暮らしてたんじゃないかなあ~……。
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