TODAWARABLOG

戸田蕨です。小説書いてます。よろしくお願いします。

「化粧をするのは社会人女性必須のマナー」?一概にそうとは言えないと思います。

お化粧って

やれば結構楽しいものだったりもするんですが

 

これが

「社会人になったら女性はお化粧をすべき」

「化粧をしないのはマナー違反」

とまで言われ、義務みたいにされてしまう事については

ちょっとモヤモヤする思いを抱えておられる方も多いのではないでしょうか。

 

かく申します私は、若かりし頃からずーっと

「一概にそうとばかりは言えないんじゃないの?」

と思っていました。

 

f:id:TODAWARA:20210806194524j:plain

 

 お化粧って、基本的に

 「この部分がもっとこうなったら、今より一層綺麗に(可愛く)見えるだろうな~」

って場合に使うモノですよね。

 

シミやクマなんかのアラを隠したり

目元や唇などのチャームポイントを強調してみたり。

 

────でも

 

特に

「社会人になったんだから、お化粧ぐらいしなさい!」

って上から目線で言われることが多い

社会に出たての十代、二十代の若い人達って

 

お肌はまだまだキメ細かく張りがあり

シミやくすみもほとんど無くて

ツルツル&スベスベ&ピカピカに綺麗な場合が多いんですよね。

 

そのままで充分キレイ

桃のようなすべすべお肌には

ファンデーションもチークも必要ないと思うんですよ。

 

むしろ

 天然のままの美しさ

人工の色で覆い隠してしまうのは

モッタイナイとすら感じてしまいます。

 

f:id:TODAWARA:20210806101841j:plain

 

それと同様に

 

せっかく立派な眉毛が生えているのに

あえてそれを全部抜いたりして、描きなおすとか

 

しっかりとした長いまつ毛の人が

その上からマスカラつけるとか

そういうのは

まあ

本人がやりたい場合は別に良いんですけど

 

他人からどうこう言われる事を気にしてやるのなら

全く必要無いと思います。

 

つまり

素顔のままでも

充分にイケてる部分

とくに過剰に

いじくる必要は無し!

(素顔のままでも綺麗な若い人は、化粧なんかしなくてもOK)

 

──って思うんですよね。

 

f:id:TODAWARA:20210806194813p:plain

ただ

 

いくら素顔が美しくても

あまりにも幼く見えてしまうような場合には

社会人としては頼りない印象を与えてしまうので

 

大人らしく見えるように

眉毛を整えたり

血色が悪かったりする時には

口紅を塗ったりする事くらいは必要かな

とも思います。

 

個人的には

色付きのリップクリーム位でも

良いとは思いますが。

 

f:id:TODAWARA:20210806195953j:plain


十代、二十代の若い人に関しては

そんな風に思うのですが

 

それ以上の年代に関してはどうかといえば

 

一般的に、お化粧をした方が若く綺麗に見えがちではありますから

 

お化粧をした方が自分自身の気持ちの上でも晴れやかな状態でいられる、っていうのなら、した方がいいと思いますけど

 

「社会人なんだからお化粧をすべき」

「化粧しないなんてマナー違反」

 

なんて言われる筋合いは無いと思います。

 

清潔感さえあれば

化粧しようがしまいが

どちらでも良し!

 

f:id:TODAWARA:20210806195327p:plain

 

化粧なんかしなくても自信を持っていられるなら

しなくたっていいと思います。

 

男性の中年以降の顔つきについて

「男の顔は履歴書だ」

なんて、良く言われますけど

それなら

「女の顔だって履歴書だ」

っていうのもアリですよね。

 

多くの男性が素顔のままで生きて来ていて

その中には

渋カッコ良いオジサンになっている人だって少なからずいるんですから

 

女性だって素顔のままで

渋カッコイイ人がいたって

全然不思議じゃないですよ!

 

f:id:TODAWARA:20210806103727j:plain

 

──などと語っておきながら

「じゃー、お前さんはどうなんだヨ?」

と言われますと

 

私自身は、もう

シミやらくすみやらを隠すために

毎日塗りたくっているんですけどね……。(^^;)

 

ゆくゆくは

素顔のままでも堂々としていられるような

渋カッコイイおばあさん

なりたいものですなあ……。

 

f:id:TODAWARA:20210806195623j:plain

 

 

 

 

その他の記事のご案内

 

 

 「アラ〇〇」といって無駄に「老け」を先取りさせるでない。

todawara.hatenablog.com

 

別に「萌え」なんか狙ってない。 ただ袖が長いだけである。

todawara.hatenablog.com

 

 婦人服のボトムスのサイズ表記がウエスト基準なのは全く無意味。

todawara.hatenablog.com

 

 

 

こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

f:id:TODAWARA:20210805162922j:plain

 

 f:id:TODAWARA:20210805162947j:plain

 

 

f:id:TODAWARA:20210805163002j:plain

 

三浦半島・湘南のおすすめ爽快ドライブルートをご紹介!

うぁぁぁぁぁぁぁ~

良い景色を眺めてスッキリしたーい!!

 

そんな気分になる時って

ありますよね。

 

f:id:TODAWARA:20210804152812j:plain

 

そんな時には

サイクリング電車旅も良いけれど

 

ドライブなんていかがでしょう?

 

── ということで今回は

 

横浜在住20年

ドライブ大好きペーパードライバー(ナビ専門)の私が

 

湘南・三浦半島方面で特に

「この道、景色いいんだよなあ~」

と思っている

爽快ドライブルートをご紹介いたします!

 

f:id:TODAWARA:20210804153149j:plain

 

おススメルート その1

 国道134号線 (逗子・渚橋⇔藤沢・江の島)

 

国道134号線逗子海岸〜鎌倉~江の島あたりといえば

まさに湘南ドライブの王道ですよね!

 

逗子方面から走って行って、トンネルをくぐり抜けた時に、視界の中にパーッと飛び込んで来る鎌倉の海。

私はそのあたりに差し掛かると、いつも

「うわぁー」

って感動してしまいます。

 

f:id:TODAWARA:20210803182631j:plain

 

青い海の彼方には江の島がぽっかり浮かび

途中からは江ノ電に並行して走る部分もある、国道134号線

 

ボードを抱えたサーファーの姿も見られ

おしゃれなレストランも多く立ち並ぶ

ザ・湘南!

といった感じの

 非常に人気の高いドライブルートです。

 

f:id:TODAWARA:20210803182837j:plain

 

それだけに

最大のネックとなってしまうのが

渋滞しやすい事…………。(-_-;)

 

土日や祝日はほとんど

終日渋滞している、っていうイメージです……。

 

ですので

行くのなら断然平日がおススメ!

 

f:id:TODAWARA:20210805124859j:plain


この国道134号線

鎌倉→逗子のルートで見た場合

 

逗子の渚橋からは海を離れて内陸へ向かい

トンネルから出たところにある長柄交差点

カキッと右折するかたちになっています。

 

この先は葉山の内陸部を進んでいき

御用邸の所で再び海側に出る形となっています。

 

f:id:TODAWARA:20210805164810j:plain

 

この134号を鎌倉方面から走って来て

長柄交差点の所で右折せず直進していくと

逗葉新道という道になるのですが

 

この逗葉新道の周辺には

ちかごろ

「葉山ステーション」(オシャレな道の駅といった感じの商業施設)をはじめ

カフェなどの新しいお店がどしどし出来てるんですよ!

 

近い将来、このあたりは

ガイドブックで紹介されるような

一大観光エリアに変貌していきそうな予感がしています。

 

 (逗葉新道のその先は横浜横須賀道路の逗子インターチェンジにも繋がっています)

 

 

おススメルート その2

県道207号森戸海岸線 (逗子・渚橋⇔葉山御用邸)

 

逗子の渚橋で内陸側には向かわず、そのままずっと海側に進路をとると

県道207号(森戸海岸線)を行く事になります。

 

この森戸海岸線

葉山の市街地あたりになると道幅が非常に狭くなるので、運転に気が抜けなくなる部分が多いのですが (そんな中、京急の大きなバスが超絶的テクニックで走っています)

 

葉山マリーナ

森戸海岸

森戸神社

葉山美術館

しおさい公園

などなど……

 周辺には見どころがいっぱい!

 

f:id:TODAWARA:20210804084211j:plain

 

雑誌に載るようなお店が目白押しに点在している

葉山のメインストリート的な道なので

 

どこかのパーキングに車を停めて

てくてく散策を楽しむのもお勧めです。

 

f:id:TODAWARA:20210804083038j:plain

 

 

おススメルート その3

 国道134号線 (葉山御用邸⇔横須賀・秋谷)

 

 県道207号(森戸海岸線)御用邸の前で国道134と交わり

そのまま国道134になります。

 

ここからは大きい道になるので一安心。(^^;)

 

実を言いますと、私は

国道134号ドライブは鎌倉方面よりもこちら側(葉山・横須賀方面)の方が好きだったりします。

 

理由は

道路が(あちら側よりは)すいているから。

 

土日や祝日には渋滞する事もあるのですが

それでも、鎌倉側ほどの酷いカチンコチン渋滞ではありません。

 

f:id:TODAWARA:20210804085006j:plain

 

こちら側からは、天候にもよりますけど

海の向こうに富士山が見えることもあるんですよ。

 

この道の周辺にも

秋谷のあたりまで、オシャレなレストランが点在しています。

 

マイケル・ジャクソンも訪れた事がある

葉山ホテル音羽の森とか、いいですよねぇ……(うっとり)

一度、泊まってバルコニーで海を見ながら朝食を食べてみたいなあ~。

 

秋谷にある立石公園

夕陽の綺麗な絶景スポットとして知られています。

 

その近くにあるレストランマーロウ

ビーカーに入った大きめプリンでも有名なお店です。

 

f:id:TODAWARA:20210803184441j:plain

立石公園

 

国道134号をその先にすすめていくと

次第に海が、見えなくなって行ってしまうのですが

 

三浦の方まで行くと今度は、絵本の世界を思わせるようなキャベツ畑の風景が広がっています。

(ちょっとジブリ映画みたいな感じ)

 

さらにずっと直進していくと

引橋の交差点国道134号は三浦海岸方面へと曲がります

 

この時、城ケ島方面に行く場合には

引橋で直進し、県道26号横須賀三崎線に入って行くことになります。

 

f:id:TODAWARA:20210804085134j:plain

 

国道134号を真っすぐ行って

三浦の方へ向かうのも良いのですが

 

私が今回お勧めしたいのは

湘南国際村秋谷入口の交差点で曲がり

トンネルをくぐって坂道(県道217号線・子安の里道)を登り

湘南国際村へと向かっていくルートです。

 

f:id:TODAWARA:20210805170342j:plain

 

 湘南国際村というのは

1994年に開設された、近代的雰囲気の漂う非常に整然とした街なのですが

 

企業の研修所やホテルなどに隣接して、瀟洒な住宅街があったりして

なんとなく避暑地的な雰囲気も感じられる、ちょっと素敵な所です。

 

春にはツツジの花が見事に咲く事でも有名な場所なんですよ。

 

f:id:TODAWARA:20210804084103j:plain

 

湘南国際村は山の上にあるので

ここからは、こんな風に海が望めます。

 

山の上から海も眺められるなんて

ちょっと贅沢な眺望じゃないですか? (^_^)

 

f:id:TODAWARA:20210804084344j:plain

 

近代的で都会的な

パリッとした街でありながら

 

すぐそばにはお馬さんや葉山牛の牧場があったり

国道134号に近い方には

昔ながらの懐かしい田園風景が広がっていたりして(子安の里)

 

このギャップがなかなか面白いエリアです。

 

子安の里の方の道沿いには

近年、カフェやレストランが続々出来ているのも嬉しいところ。

 

こちらも近いうち

ガイドブックなどで紹介されるようなエリアになるんじゃないでしょうか。

 

国際村から子安の里沿いに道を下って行って

トンネルを抜けるとそこに

青い海がパァーッ!

 

──って言うシチュエーションが

私は、毎度毎度、すっごい好きです。

 

f:id:TODAWARA:20210804084708j:plain

子安の里



 

おススメルート その4

西湘バイパス (大磯東⇔石橋)

 

国道134号線を江の島から大磯方面へとひたすら進んでいくと

大磯東西湘バイパスに合流するような形になります。

(陸側を走る一般道の国道1号に合流する車線もあり)

 

西湘バイパスというのは国道1号線のバイパスなんですが

ほぽ高速道路のような、有料の自動車専用道路です。

 

我が家では、 箱根湯河原・熱海方面に行く時によく使う道で

バーンと開けた相模湾の景色を横目に、高い所をビュンビュン走っていくという

めちゃめちゃ爽快な道路です。

 

途中

「鹿飛び出し注意の看板」

があるのが

「こんな、山から遠い海辺の道路に鹿が出るの!?」

って

なんか、ものすごーく違和感があるんですが

 

これは、かつて

小田原に流れている酒匂川のあたりで、鹿が目撃されたことがあったことから設置されたものらしいですよ。

 

でも、西湘バイパスに飛び出してきた事は今の所ないそうです。

 

f:id:TODAWARA:20210803181857j:plain

 

西湘バイパス、とっても素敵な道路なんですが

ここもネック

休日に渋滞しやすいところなんですよねえ……。

(箱根、湯河原、熱海などの温泉地と行き来する車が増えるので)

 

なので、ここもやっぱり

走るなら平日がおススメです。

 

f:id:TODAWARA:20210803182003j:plain

 

 

おススメルート その5

国道16号線~よこすか海岸通〜県道209号観音崎

(横須賀⇔走水⇔観音崎大橋)

 

神奈川、東京、埼玉、千葉と

首都圏をグル〜ンと環状に結んでいる

国道16号線

 

この道路の起点にして終点となる場所は

横浜市西区高島二丁目にある

高島町交差点です。

 

昭和27年に国道16号線として指定された一番最初の区間

横浜⇔横須賀なんだそうですよ。

 

当時の終点は、現在終点になっている走水ではなく、横須賀の中心市街だったそうです。

 

横浜方面から横須賀へと走って行くと

ショッピングセンターの手前の軍港に戦艦や潜水艦が停泊しているのが目に入ってきます。

 

いかにも軍港・YOKOSUKA!って感じですね~。

 

f:id:TODAWARA:20210805095817j:plain

 

米軍基地や商店の立ち並ぶ横須賀市街地を抜けかかるあたり

小川町交差点国道16号線は右(市街地内陸側)に曲がる形になるのですが

 

ここでは進路は左(直進)にとり

海辺を走る大きな道

よこすか海岸通に出ます。

 

左手に青く広がって見えるのは東京湾

 

かつて海軍の要塞として使われていたという

東京湾唯一の無人島・猿島がぽっかり浮かんでいます。

 

f:id:TODAWARA:20210803184906j:plain

 

どことなくアメリカ~ンなムードを漂わせた ヤシの木が立ち並ぶ快適ルート

左右にはマンションやショッピングセンターが立ち並んでいます。

 

よこすか海岸通三春町3の交差点で国道16号線と合流

ここから走水交差点までの区間

国道16号線=よこすか海岸通

ということになります。

 

そして

この道路で私が一番好きなのがココ!

 

三春町3の交差点からもほど近い

馬堀海岸のこの部分です。

 

f:id:TODAWARA:20210803183830j:plain

 

Ohhhhhhh!

 気分はもはや

カリフォルニア!

 

f:id:TODAWARA:20210803184159j:plain

 

横浜横須賀道路馬堀海岸インターチェンジからもほど近いこのエリア

 

風光明媚な上にスーパー銭湯もあったりして、すっごくいい所。

 

この先、走水の信号から

道路は県道209号観音崎へと名前を変えますが

 

ここから先には

横須賀美術館や素敵な海辺のリゾートホテルなどがあり、自然豊かな観音崎公園があります。

 

道を逆方向に

観音崎から横須賀市街方面へと戻って行く時には

走水あたりの坂の上から進行方向に富士山が見える時もあったりして

それもなかなか素敵な眺めなんですよ~。


 

f:id:TODAWARA:20210804091349j:plain

観音崎灯台



ドライブって楽しいですよね。

 

私も、もっと運転がうまかったら

自分でハンドル握って行きたいところなんですが

 

いかんせん、細い道とか混雑した道が怖すぎて

万年ペーパードライバーなんですよねぇ。

 

ああ、私もこんなカッコイイ車で颯爽と

海辺の道を走ってみたいなーっ!(*^_^*)

 

f:id:TODAWARA:20210804200123j:plain

憧れの日産フィガロ



 

 

 関連記事のご案内

 

 

ドライブのお食事は「松輪のサバ」などいかがでしょう?

todawara.hatenablog.com

 

横浜名物「サンマーメン」も美味しいですよ。

todawara.hatenablog.com

 

 

 

こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

f:id:TODAWARA:20210805162922j:plain

 f:id:TODAWARA:20210805162947j:plain

 

 

f:id:TODAWARA:20210805163002j:plain

 

ブログのアクセスに関する謎現象〜この記事が伸びたらあの記事が引っ込んで、全体のアクセス数は変わらない……(-"-)

私のこのブログは現在(2021年8月頭)

開設してから

2年2か月ほどになります。(現時点での記事数は340くらい)

 

f:id:TODAWARA:20210730150945j:plain

 

はてなブログにはSNS的な側面もありますので

他のはてなブロガーさん達と活発に交流すれば

そちらからのアクセス流入も見込めるようにはなっているのですが

 

いかんせん

人間関係にモノグサな性格なもので

せっかくのその特長も活かしきらず

(別に人間嫌いという訳ではないのですが……)

 

ましてやTwitterなどの本格的SNSなどはなおのこと

「手を出す気になれない……」

といった調子なので

 

このブログのアクセスは

ほとんど(95%くらい)が

検索からの流入となっています。

 

内訳は

googleからが70%くらい

Yahoo!からが20%くらい

はてなからがが3%くらいで

残りがBingその他

という感じ。

 

f:id:TODAWARA:20210730180950j:plain

 

ブログを運営するにあたっては

おもに他のブロガーさん達がお書きになっているブログ論などを読んで

参考にさせていただいているのですが

 

成功なさっているブロガーさん達が口をそろえて仰るには

 

ブログのアクセスって、開設したてで月日があまり経っていないうちや、記事数が少ないうちはほとんど0みたいな日が続くけど

それに耐えて、記事数が多くなってくれば

徐々にアクセスも増えて来て

ある時突然ブワーッとアップしはじめる。

そうなったらもう

何千、何万と加速度的にアップするよ!

 

 ────って

 

これ、よく言われている所ですよね。

 

確かに

私のこのブログも

開設当初のアクセス低迷地獄を抜けた後

ブワーッ!

上昇気流に乗りかけたことがあったのですが

 

f:id:TODAWARA:20210730151157j:plain

「うぉぉぉぉぉ、こ、これはブワーッと行くかぁぁぁ!?」

 

即座にGoogleアップデート

がつんとアクセスを半分くらいに削られ急降下

(かの悪名高き2020年5月のGoogleアップデートの時です)

 

f:id:TODAWARA:20210730151338j:plain

「うわぁぁぁぁぁぁぁ~!」

 

そこからはもう

 

ソコソコのアクセス数(決して多くは無いけれど、すごく少ないというわけでもない、という位)を保ったまま

ずーーーーっと

穏やか〜な海のような状態を漂い続けています。

 

f:id:TODAWARA:20210730151616j:plain

アップダウンがあってもせいぜいこんなもん。

 

臥薪嘗胆という気持ちで頑張って

 

どうにかゆるゆるとのぼり調子になると

Googleアップデートで突き崩され (2021年3月末)

 

なにくそと堪えながら

またのぼりかけると

またまたアップデートで崩されて……  (6&7月)

 

────と

そんな感じの繰り返しです。

(まさに賽の河原の石積み状態……)

 

f:id:TODAWARA:20210730195301j:plain


一体いつになったら

グワーン!とアクセスがアップするような時が来るのでしょう?

っていうか

このブログのアクセスがこれ以上アップするような事って

今後あり得るんでしょーか?

 

などと

悶々とした思いを抱えながら

ぼちぼち運営しているわけなんですが

 

そんな中

 

アクセスの増減に関して

としか言いようのない現象があらわれたんです!

(非常に長い前振りでしたが、実はここからが本題です)

 

f:id:TODAWARA:20210731170347j:plain

 

ブログのアクセスって

全記事まんべんなく読まれる、っていうよりは

いくつかの特定の記事に集中してきますよね。

 

私のブログは平常時には

例えて言えば

 

稼ぎ頭ナンバーワンのA記事10%強

ナンバー2のB記事9%くらい

ナンバー3のC記事7%くらい……

というように

上位から下位まで、比較的なだらかな段差をえがきながら並んでいる感じになっています。

 

(上位に並んでいる記事間にアクセス数の差があまりないので、比較的、望ましいカタチになっているんじゃないかと個人的には思っております)

 

f:id:TODAWARA:20210731134052j:plain

(例) A〜Hは記事のたとえ これでアクセスが100だとします。

 

 

ところが

 

普段それほど見向きもされていないんですが

「この時期になると俄然、ニョキニョキ伸びて来る」

という

季節性の記事というものがありまして。

 

f:id:TODAWARA:20210731134507j:plain

「正月だ―」とか「夏だー」とかいう時にガゼン伸びだして来る季節性の記事

 

そうすると

 

もともとのアクセスに

この伸びて来た記事の分のアクセスが

「プラスされるぞ!」

って当然、期待されるところなんですが ────

 

f:id:TODAWARA:20210731135435j:plain

当然、こうなるべき所なのですが……

 

一体どういうわけか

 

そうは

なってくれないんです。

 


実に

実に理不尽な事に

 

これまで上位でアクセスを稼いでくれていた記事たちが

魔法でもかけられたかのように
軒並み元気を失っていき

 

しおしお〜……

って

アクセスを減らして

くるんですよ。(-"-)

 

f:id:TODAWARA:20210731135957j:plain

 

 

これ一体何!?

ってカンジなんですが

 

不思議な事に

 

これらアクセスを減らした記事

検索順位

 ほとんど

変動が無かったりするんですよ。

(だから、アクセスが減ったのは、検索順位が落ちたせい、というわけではないんです)

 

 謎でしょ?

 

f:id:TODAWARA:20210802083452p:plain

ついこの間まで、それを知りたいと思って検索する人が、かなりの数いたはずなのに、それが突然パタッといなくなる、なんて事があるんでしょうか?

 

ちなみに

 

この各記事の内容は

それぞれ全く関連性がありません

(うちのこのブログは雑記ブログですので、記事のテーマはまちまちです)

 

だから

ある記事が伸びたからと言って

これまで上位にあった記事が検索されなくなる、という因果関係も無いんです。

 

何なんでしょうね

コレ????

 

f:id:TODAWARA:20210802091550j:plain

 

そしてまた

これと似たようなパターンなんですけど

 

今年に入ってからのアップデートで

 ( 2021年3月と6月&7月のアプデ)

 

うちのブログは、たてつづけに地味〜に攻撃を喰らっていたのですが

(結果としては激減ではなく微減で済んでます)

 

この際

検索順位の変動はあまり無いのに

(アプデ期間中、サイト全体の平均検索順位は頻繁に±4位くらいの上下運動を繰り返していましたが、上位記事の順位の変動はほぼありませんでした)

 

何故かアクセスだけが

ぐぐーっ押さえつけられているかのように

低空飛行を余儀なくされていたんです。

 

f:id:TODAWARA:20210731202939j:plain

 

SEO界隈では一般的に

「アクセスは、上がるも下がるも検索順位次第」

と言われていますけど

 

検索順位が変わらなくても

アクセスが日によって大幅に増減する事がある所なんかを見ていると

どうも、そう単純なものではなさそうな気がします。

 

なんだか

Googleに蛇口の栓を握られて

アクセスの多い少ないを随意に調節されてるような……

 

そんな感じすらおぼえてしまいます。

 

f:id:TODAWARA:20210730152537j:plain

 

この

ある記事が伸びると

まるでサイト全体のアクセスが調節されているかのように

それまで上位にあった記事たちがアクセスを減らしてくる

 

という謎現象に関しては

 

ネット上を見てみましたところ

これまで、数名の方がブログ等で言及しておられるのですが

 

これだけたくさんのブロガーさんがおられながら

今まで、ほんの数名だけにしか言及されて来ていない……

というのも、なんだかちょっと不可解な感じがします。

 

なので

 

今現在、こういう現象に見舞われ

「これ、いったい何!?」

とモヤモヤしているブロガーさんも、きっと少なからずおられるのではないかと思い

 

「私のブログにもそれ、あります!!」

という事をお伝えしたい

という一心で

この記事を書いた ── という次第です。

 

f:id:TODAWARA:20210731132923j:plain

「私んところでも、それ結構あります!」

 

 

 

関連記事のご案内

 

 

無名の小説家がブログで自著の宣伝をするためには、いかほどのアクセスが必要になるのでしょう?

(後半、Googleアップデートに対する愚痴)

todawara.hatenablog.com

 

 

落ち込んでしまった心にそっと寄り添う 、古今和歌集のブルーな歌

todawara.hatenablog.com

 

 

 無名作家が宣伝をする必要性について語る。

(後半、Googleアップデートに対する愚痴)

todawara.hatenablog.com

 

 

 「四苦八苦」と「五陰盛苦」という言葉についての解説

todawara.hatenablog.com

 

 

 

こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

f:id:TODAWARA:20210705110700j:plain

 

f:id:TODAWARA:20210621204329j:plain

 

 

f:id:TODAWARA:20210615150914j:plain


 

 

「四苦八苦」と「五陰盛苦(ごおんじょうく)」わかりやすく解説いたします。

非常に苦しい事をあらわす

 「四苦八苦(しくはっく)

という言葉があります。

 

f:id:TODAWARA:20210729135938p:plain

 

これは本来仏教用語

人間が生きる上で避けることの出来ない

 

生(しょう)

生まれてくることによる苦しみ

老(ろう)

老いる事による苦しみ

病(びょう)

病を得る事による苦しみ

死(し)

死ぬことに関連する苦しみ

 

という

根源的な4つの苦「四苦」

 があり

 

ここに以下の4つの苦しみ

 

愛別離苦(あいべつりく)

怨憎会苦(おんぞうえく)

求不得苦(ぐふとくく)

五陰盛苦(ごおんじょうく)

 

を加えて八苦」としたものです。

 

f:id:TODAWARA:20210729155003j:plain

「生れてくる苦しみ」とは……生まれついての環境や資質は本人にはどうすることもできない、という苦しみなどです。

 

生・老・病・死

 身体や生命力の変化に伴うものであるところから

生きとし生けるもの全てにわたる共通の苦しみ

といったところですが ──

 

f:id:TODAWARA:20210729095042j:plain

 

ここにプラスされてくる

あとの4つは

 

もっぱら心の苦しみであるために

人間ならではの苦しみ

といった感じです。

 

f:id:TODAWARA:20210729095457j:plain


これをひとつひとつ説明していきますと

以下のようになります

 

愛別離苦(あいべつりく)

 

愛する人と生き別れたり、死に別れたりする苦しみのこと。

 

f:id:TODAWARA:20211015150615j:plain

 

・怨憎会苦(おんぞうえく)

 

怨んだり憎んだりするような相手にも

出会ってしまうような苦しみのこと。

 

f:id:TODAWARA:20210729141027j:plain

 

・求不得苦(ぐふとくく)

求めているものが手に入らないことからくる苦しみのこと。

 

f:id:TODAWARA:20210729141216j:plain

 

五陰盛苦(ごおんじょうく)

 

人の体や心をかたちづくっている

五つの要素(五陰)から生み出されてくる苦しみ。

 

f:id:TODAWARA:20210729141811j:plain

 

────と、こう説明している中で

 

五陰盛苦(ごおんじょうく)

 

これだけが

なんだか漠然とし過ぎていて

ちょっとわかりづらいのではないかと思います。

 

 そもそも

 五陰(ごおん)とは
一体何なのでしょう?

 

ここのところが良くわかりませんよね。

 

 

f:id:TODAWARA:20210730081810j:plain

 

五陰(ごおん)

これは

五蘊(ごうん)とも呼ばれるのですが

 

人間の知覚・感覚・心の働きなどに関するものを

以下の5つの要素に分けたものなんです。

 

 

・色(しき)

物質的存在。形はあるけれども、絶えず変化し、いずれは滅び去っていくもの。

f:id:TODAWARA:20210730083403j:plain

・受(じゅ)

物事を見たり外界からの刺激を受けたりしたときの感覚。

f:id:TODAWARA:20210730084111j:plain

 

・想(そう)

対象を心の中にイメージする事。

 

f:id:TODAWARA:20210730084651j:plain

 

・行(ぎょう)

意志をかたちづくること。

 

f:id:TODAWARA:20210730085340j:plain

 

・識(しき)

刺激からくるイメージや意志判断などを総合して

判断を下す「認識作用」のこと。

 

f:id:TODAWARA:20210730090343j:plain

 

f:id:TODAWARA:20210729142741j:plain

 

この「五陰」に続けられている

「盛苦(じょうく)という言葉ですが

 

これは

 

・はげしい苦しみ

・「五陰」を器と見立て、そこに「苦を盛りつける」こと

 

という解釈をされています。

 

 

ということから

五陰盛苦という言葉の意味は

 

人間が生きている限り常に働かせている

感覚や心の活動(五陰)

といったものにより

苦しみがもたらされてしまう

 

─────と

このようになるのですが

 

実は

「五陰」これ自体が

苦なのではなく

 

仏教においては

 

これに執着することこそが

苦しみであるのだ

 

と説かれています。

 

f:id:TODAWARA:20210731165048j:plain


たしかに……

 

コダワリ(執着)って

何かをやり遂げたりする時には、絶対的に必要だったりもしますけど

 

その反面

「こうあらねば!」と強く思えば思うほど

できない時の罪悪感も強まっていくものですし

 

特定の価値観にあまりにも囚われ過ぎていると

 

生き方に柔軟性を欠いて

視野が狭くなり

 

結果

 

自分自身が追い詰められて

息苦しさを感じざるを得なくなってきますものね……。

 

f:id:TODAWARA:20210730113551j:plain


こんなふうに見てまいりますと

 

本当に

私たちの周りには

さまざまなが満ち満ちているなあ……

 

なんて思わざるをえないわけですが


とはいえ


あまり「苦」にばかり目を向けて

そこに意識が囚われてしまうと

 

それこそ

五陰盛苦に陥ってしまうことになりかねませんので

 

肩の力を抜いて

ほどほどに気を紛らしながら

 

なるべく気楽

柔軟性を持って

やっていきたいものですよね。

 

 

f:id:TODAWARA:20210730125609j:plain





関連記事のご案内

 

 

お釈迦様曰く「執着を捨てよ」とのことですよ。

todawara.hatenablog.com

 

 一遍上人は「あんまりつべこべ考えるな」と言っています。

todawara.hatenablog.com

 

「虎渓三笑」の故事から思った事

todawara.hatenablog.com

 

平安時代の人にもやはり、気持ちの沈む日がありました……。

todawara.hatenablog.com

 

 

 

こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

f:id:TODAWARA:20210705110700j:plain

 

f:id:TODAWARA:20210704152145j:plain

 

 

f:id:TODAWARA:20210704152211j:plain



 

 

 

 

「戦国の魔術師」と謳われた忍者・加藤段蔵の気の毒さ加減。

先日、PHP文庫刊の

「忍者の掟〜戦国影の軍団の真実」

(戸部新十郎著)

という本を読みました。

f:id:TODAWARA:20210726083822j:plain

 

著者の戸部新十郎さん(1926-2003)は

かつて直木賞候補にもなった事があるという、時代小説の作家さんです。

 

この本の中には

「忍者とは一体何者なのか?」

「その実態とは!?」

といった所が

戸部さんご自身の幅広い知識や数々の文献を基に書かれてあって

 

たいへんに興味深いものがありました。(^_^)

 

 

時代劇などでお馴染みの

伊賀者、甲賀者、公儀隠密、お庭番

 

そして

 

将軍家光の兵法指南役でありながら

江戸幕府のCIA長官」的立場にあったという

柳生宗矩

 

などのほか

 

昔から講談、小説、漫画などで何度もキャラクター化されて人気者となっている

服部半蔵石川五右衛門風魔小太郎などなど

 

たくさんの「忍びの者」達が紹介されているのですが

 

その中に

群を抜いて気の毒過ぎた事により

私の心に非常に強く印象に残ってしまった忍者がおります。

 

それが

今回ご紹介いたします

加藤段蔵(かとうだんぞう)

という忍者であります。

 

f:id:TODAWARA:20210726085110j:plain

 

加藤段蔵

浅井了意の仮名草子『伽婢子』(おとぎぼうこ1666年刊)には

常陸(茨城県)の生まれ」と書かれてあるのですが

 

みずからは伊賀忍者だと名乗っていたそうです。

 

通称は

「飛び加当」

「鳶(とび)加藤」

(※「カトウ」は「加藤」や「加当」と表記されます)

 

いかにも身軽さを思わせるネーミングですよね。

 

f:id:TODAWARA:20210727181000j:plain

 

彼は一体

いつごろの人なのかと言いますと

 

1734年(享保19年)にまとめあげられた

近江国滋賀県)の自然、歴史等についての地誌

『近江輿地志略』(おうみよちしりゃく)の中に

 

永禄のころ、鳶加藤という者、最妙手の名あり

 

という記述で

忍術の名人(最妙手)であると言及されているところから

 

永禄(1558~69年)あたりに活躍した人だという事が考えられます。

 

それでは、永禄とは一体

どんな時代だったかと言いますと

 

永禄元(1558)年には

木下藤吉郎織田信長に仕えることになり

 

永禄12(1569)年には

上杉謙信(越後)と北条氏政(相模)が越相同盟を結び合って、武田信玄(甲斐)への対抗姿勢を固めているという────

────そんな時代です。

 

戦国時代の真っただなかですね。

 

f:id:TODAWARA:20210727110410j:plain

 

加藤段蔵は忍術の他に

幻術の使い手でもあったようで

 

上杉謙信が治める春日山の城下町にやって来て

品玉の術(手品)、生花の術(植物を生やし成長させる)、呑牛の術(生きた牛を丸呑みする)などといった幻術を人々に見せていたそうです。

 

しかし

 

彼が呑牛の術披露していた所

木に登って上から眺めていた人が

「あれは牛を呑んでるんじゃないよ~、ただ、牛にまたがっているだけだぁ」

と叫んだ途端

術は破れてしまいました……。(^^;)

 

f:id:TODAWARA:20210726090659j:plain

 

その後について

こちらの本では紹介されていなかったのですが

 

呑牛の術のネタばらしをされてしまい

カチンと来てしまった段蔵は

 

その場で夕顔の花(瓢箪という説も)を育てて

みるみるうちに実を成らせ

それをスパッ!と切り落としたところ

 

木の上にいたネタバレ男の

首も斬り落とされていた…………

 

そんな話も

伝わっているそうです。(◎_◎;)))

 

 

f:id:TODAWARA:20210726085805j:plain

 

彼の評判が興味をひいたのか

段蔵は上杉謙信によって呼び出されます。

 

謙信から

「直江山城守兼続の屋敷に忍び込み、名刀(長刀)を奪ってみせよ」

そう言われた彼は、厳重な警備をかいくぐり、見事それを奪って見せました。

 

 ところが ────

 

「うーん、なるほど

怪しいヤツじゃ!」

 

f:id:TODAWARA:20210726085656j:plain

 

かえって謙信から危険視されてしまった段蔵は

危うく殺害されそうになりました。

 

彼は、たくさんの陶器を並べて、からくり人形のように操り

敵の目を引かせることによってなんとか窮地を脱出しました。

 

f:id:TODAWARA:20210726084311j:plain

辛くも虎口を逃れた彼は

今度は甲州へと走ります 。

 

そして謙信のライバルである

武田信玄に仕官を願い出ました。

 

f:id:TODAWARA:20210726090406j:plain

 

対面した信玄が言いました。

「あの高塀を飛び越えて見よ」

 

しかしながら実は

その着地面には槍の穂が剣山のように植えられているという

凶悪なトラップ仕様になっていたのです!!!!

 

f:id:TODAWARA:20210727135006j:plain

このピンチに段蔵は塀の上で気がつき

空中でクルリと反転して

見事、元の場所へと戻りました。 

 

これを見た信玄

 

「ううむ……。ものは上から下へと落ちるものじゃ。上へあがっていくとは、なんと不可解な……」

 

f:id:TODAWARA:20210726090134j:plain

 

 そして家臣の土屋平八郎に命じました。

「怪しいヤツじゃ。殺せ!」

 

f:id:TODAWARA:20210727140647j:plain

 

こうして加藤段蔵

殺されてしまいましたとさ……

 

酷い話ですよねぇぇぇ~……(T_T)

 

 

この件について、著者の戸部さんは次のように書かれています。

 

真偽のほどはわからないが、心ある武将たちには、不合理、不条理を嫌う一面があり、忍術と幻術を峻別していたことが推察される。

 

忍者(スパイ)ってだけなら使いこなせるからいいけど、妖術使いともなると、うす気味悪くて近くには置いておきたくない……って感じなんですかねえ……。

 

(たしかに、幻惑されたり、裏切られて幻術で手向かわれたりしたら厄介ですしね……)

 

 一説によると

武田家では以前、家宝の古今集が忍びの者に盗まれた事があったために、よそから来た忍びに対しては警戒されていた

なんて話も伝わっているそうですが

 

それにしても

 

忍びとして、幻術使いとして

優秀過ぎるがゆえに警戒されて

仕官できないばかりか、命まで狙われ

挙句の果てに殺されちゃうなんて

 

なんだかあまりにも気の毒過ぎますよねえ……。

 

一流になるために

彼がそれまで、どんなに血のにじむような努力をしてきたか────

 

そんなことを思うと

ちょっと

可哀想過ぎるような気がします……。(T_T)

 

f:id:TODAWARA:20210726085004j:plain

 

 

 

 

 

関連記事のご案内

 

 

 戦国時代の幻術師と言えば、果心居士もいますよね。

todawara.hatenablog.com

 

 こちらも室町〜戦国期の魔法使い、細川政元&九条植通

todawara.hatenablog.com

 

柳生但馬守宗矩「兵法家伝書」の教え

todawara.hatenablog.com

 

 

 

 

 こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

f:id:TODAWARA:20210705110700j:plain

 

f:id:TODAWARA:20210621204329j:plain

 

f:id:TODAWARA:20210704152211j:plain

 

読売新聞朝刊連載小説・角田光代さん「タラント」の感想。

毎日楽しみに読んでいた朝刊連載小説

角田光代さん「タラント」が、今日、遂に完結しました。

 

f:id:TODAWARA:20210723100750j:plain

 

本当に素晴らしい物語で、読んでいる時には何度も心が震え、終章を読み終えた時には涙が滲んでいました。

 

この先書籍化されて、より多くの人の元に届けられるべき、出来立てホヤホヤの物語でありますので

今回は極力、ネタバレを避けながら、感想を述べさせていただこうと思います。

 

f:id:TODAWARA:20210723083240j:plain

 

第二次世界大戦中に学徒出陣で駆り出され、南方戦線で片脚を失う事になってしまった青年・清美と、その孫娘・みのり

物語はこの二人を軸に展開されているのですが

メインとなる主人公はみのりです。

 

現在、三十代半ばの彼女は、学生時代ボランティアサークルに所属していて、二十代の頃には仕事を通して発展途上国や紛争地域で難民となっている人々などを手助けするボランティア活動をしていました。

しかし

その活動を通してトラウマとなるような挫折や、様々に思い悩む所があり

今現在はそういう「使命感」のようなものや「熱いこころざし」のようなものを、意図的に遠ざけたいと思う心境になっています。

 

物語の最初のうちは

祖父・清美の戦争の記憶と、現代みのりの状況や心境

遠く離れた所にある二つの点のように感じられて

これがこの先、どのように関連していくのかがわからなかったのですが

 

みのりがかつて、仲間達と共に抱いていた熱い思い、そしてそこからの挫折感心の傷などといったものと

自分の事を妻子や孫にも一切語る事のなかった清美の挫折感とが次第にリンクしていき

ひとつの大きな物語へと、ぐわーっと収斂されていく様子には

鳥肌が立つほどの感動をおぼえました。

 

f:id:TODAWARA:20210723082837j:plain

 

この物語の何が凄いと言って

 

みのりや、そのボランティアサークルの仲間たちは、社会人になってからも学生時代からの活動に関連して、それぞれジャーナリストやカメラマンなどを目指し、ボランティア界隈で様々に活動しているのですが

 

そういった現場で

何が良い事で何がいけないことなのか?とか

それは本当に人のためになっているのだろうか?とか

そこに自分の功利心や功名心はなかっただろうか?とか

そういった事を

いろいろいろいろ、深く考える所なんですよね。

 

f:id:TODAWARA:20210723083533j:plain

 

人にはそれぞれに色々な思いや事情があり、個性の違う人々がそれぞれ真剣に考えた末での行動がある ────

そしてさらに

ものごとには色々な側面があるのだから ────

 

事情を知らない第三者が、ある人のある一面をパッと見ただけで、

「この人はこうだ」

なんて判断して、簡単に決めつける事はできないよなあ……と思わされます。

 

ここまで意識の深層部に思索を掘り下げ

それを物語という形に再構築し、言葉に紡ぎだしていくという作業は

作家さんとしては精神的にも身体的にも、並大抵の労力ではなかったのではないでしょうか。

 

誰かを支援する、支援されるということ

現在と過去、日本と世界

障害を克服すること……

 

物語世界の舞台は広く、テーマも多岐にわたっています。

 

f:id:TODAWARA:20210723084222j:plain

 

連載時にはまだまだ現在進行形であるところのコロナウィルス禍

 

それにより、東京オリンピックパラリンピックの開催もどうなるか全くわからないという状況下であるにも関わらず

 

それをも作品の中に織り込んで────というか、大きな構成要素の一つとして

非常にスケールの大きな物語として綺麗な形にまとめあげられているのが

見事としか言いようがありません。

 

 

f:id:TODAWARA:20210723085327j:plain

 

毎日の新聞連載となると、ほとんどぶっつけ本番みたいなものですから

仕上がってみるまでは、小説としての全体像がどうなるのかわからないのに

これだけ難しい要素の色々ある話が、こんなにきっちり綺麗に仕上がるなんて、なんだか奇跡を見ているようです。

 

スケールが大きく、深く考えさせられることが多く、非常に感動的な名作です。

 

角田さんの手腕

おそるべし!!

 

これほどまでの傑作が

現在進行形で出来上がっていく所に立ち会えた

そんな気分になれるのがなんか嬉しいです。

 

これぞ新聞小説の醍醐味ですよね! (^_^)

 

f:id:TODAWARA:20210723085711j:plain



 

関連記事のご案内

 

 

中島京子さんの「やさしい猫」もめっちゃ良かったです。

todawara.hatenablog.com

 

川上未映子さんの「黄色い家」も名作!

todawara.hatenablog.com

 

 

 

こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

f:id:TODAWARA:20210705110700j:plain


 

f:id:TODAWARA:20210621204329j:plain

 

 

f:id:TODAWARA:20210704152211j:plain

 

漂泊の俳人・種田山頭火の俳句とその人生

今回は漂泊の俳人

種田山頭火(1882-1940)の、俳句とその人生のご紹介をいたします。

 

f:id:TODAWARA:20210720083235j:plain

 

大酒と自堕落に身を持ち崩しながらも

俳句の道に全霊を注ぎ

九州から東北までの日本各地を行乞して歩いた、明治生まれの俳人

種田山頭火

 

漂泊の俳人であった事から

世間的な束縛から解き放たれた自由さとか、旅情的イメージも重なって

 

「 分け入っても分け入っても青い山」

「どうしようもないわたしが歩いてゐる」

うしろすがたのしぐれてゆくか」

 

などの句が、多くの人に愛されています。

 

そんな山頭火

 

出家する以前から生活能力は皆無。

 

出家をしてからも

酒に溺れ、時には女を買う事すらあったという破戒僧。

 

俳句仲間からの評価は高かったものの

生前にはあまり広く世間に知られる存在ではありませんでした ────

  

  

f:id:TODAWARA:20210719092117j:plain

 

山頭火の生涯》

 

 山頭火は 

1882(明治15)年

現在の山口県防府市でを大地主していた種田家の長男として生まれました。

本名は種田正一

 

上に姉が1人おり

下には妹1人と弟が2人。

(この後、青年期になってから、さらに腹違いの妹が3人生まれています)

 

彼が10歳の時

母・フサが井戸に身を投げて

自殺してしまいます。(享年33歳)

 

原因は父・竹治郎

政治運動に夢中で家庭を顧みなかったためだとか

夫の女遊びに苦しんだせいだとか

色々言われているのですが

 

この事は、正一(山頭火)の心に

終生暗い影を落とすこととなりました……。

 

 

しげるそこは死人を焼くところ

f:id:TODAWARA:20210716110123j:plain

 

私が自叙伝を書くならばその冒頭の語句として──私一家の不幸は母の自殺から初まる──と書かなければならない

 

(山頭火の日記より)

 

母の死から1年後

末弟・信一病死

 

姉のフクは彼が進学して東京に行っている間に、嫁ぎ先にて21歳で病死

 

母が亡くなってすぐに養子に出された、もう一人の弟・二郎

のちのち種田家が破産した折

父が養家に借金をし、それを踏み倒したことから養家を追い出され

31歳で自殺…………

 

母を同じくする彼の姉や弟たちは

どういうわけか

次々に不幸に見舞われて

若くして命を落としています……。

 

 

ここを墓場とし曼珠沙華燃ゆる

f:id:TODAWARA:20210719100206j:plain

 
14歳から

学友らと共に文芸同人誌を始めた正一は

地元の句会に顔を出したりし始めます。

 

19歳で上京し

早稲田大学文学科に進学するものの

神経衰弱のために大学を中退

山口の実家に戻ります。

 

1906((明治39)年

父が近隣にあった酒造場を買い取り

種田酒造場を開業させたため

一家はそちらに移り住むことになりました。

ところが

事業はうまくいかず……

 

1908(明治41)年 正一が26歳の年

大地主だった種田家は家屋敷を全て売り払い

残ったのは酒造場だけになってしまいました。

 

f:id:TODAWARA:20210719115131j:plain

学生として上京した時に、ニヒリズムや退廃的思想にすっかり影響されてしまっていた正一。彼は実家の酒造場の仕事を任されても、ほとんど人任せであったそうです。

 

「どうせいずれは禅坊主になるのだから、嫁はもらわん」

 

そう言っていた正一ですが

1909(明治42)年 28歳の時

7つ年下の佐藤サキノ(咲野)見合い結婚します。

 

サキノさん、写真で見てみると

楚々とした、かなりの美人なんですよねぇ……。

 

彼女は結婚直後から

大酒飲みで生活能力皆無、読書ばかりしている正一を支え、大変な苦労をすることになります。

 

翌年、夫婦の間に

長男・がうまれます。

 

 

吾妹子の肌なまめかしなつの蝶

f:id:TODAWARA:20210719160931j:plain

 

味噌汁のにほひおだやかに覚めて

子とふたり

f:id:TODAWARA:20210717161533j:plain

 

このような句を詠むほどまでに

妻子との間に愛情を育み

ささやかな幸せを掴みかけているにもかかわらず

 

正一はこの後、次第に

無軌道な酒の飲み方をするようになって行きます……

 

 

独り飲みをれば

夜風騒がしう家をめぐれり

f:id:TODAWARA:20210718125049j:plain

 

 正一は29歳の時に郷土文芸誌「青年」に参加し

山頭火というペンネームで、ツルネーゲフの翻訳などを発表しています。

(相当なインテリですよね……)

 

俳句の活動も活発で

田螺公(たにしこう)の俳号で定型俳句を作ったりしていました。

 

彼が俳号として山頭火を使い始めたのは

1913(大正2)年 31歳の時

 

荻原井泉水(おぎわらせんせんすい)主宰の俳句誌

「層雲」3月号に句を掲載された時からです。

 

山頭火というのは

60通りある干支(甲乙などの十干と十二支を組み合わせたもの)と中国古代の音韻理論を使用し

五行説による「火水木金土」などを組み合わせて作った

「納音(なっちん)」

というものの一つです。

 

たとえば

 

甲子(きのえね)の年であれば

「海中金」(かいちゅうきん)

乙酉(きのととり)の年であれば

「井泉水」(せんせんすい)

といったように

 

干支に対応して30種類もの納音があり

(2つの干支1つの納音が対応)

2年ごとに移り変わって

60年で一巡するようになっています。

(主に占いなどの場で使われています)

 

とはいうものの

山頭火の場合は単に語の響きの良さで決めただけだそうで

 

彼の生まれ年(1882年)の納音は

「楊柳木」(ようりゅうぼく)

と、なっております。

 

f:id:TODAWARA:20210719164525j:plain

 

1916(大正5)年 

酒蔵の酒が腐敗するなどして

種田酒造場はついに倒産……。

 

種田家は破産し、父・竹治郎は行方不明になってしまいました。

 

山頭火とサキノの夫婦は

息子の健を連れて熊本へ移り住み

古書店雅楽多」を始めたのですが

 

やはりというか何というか

経営は次第に

妻任せになっていきます。

(「雅楽多」はその後、額縁などを売る文具店になっていきます)

 

そんな

1918( 大正7)年6月……

 

養家から離縁された弟・二郎

岩国愛宕の山中で首つり自殺してしまい

 

度重なる不幸に打ちひしがれた山頭火

ますます酒に溺れるようになっていきました……。

 

またあふまじき弟にわかれ

泥濘ありく

f:id:TODAWARA:20210717160121j:plain

 

1919(大正8)年

37歳山頭火単身上京して

アルバイト生活を始めます。

 

雪ふる中をかへりきて

妻へ手紙かく

f:id:TODAWARA:20210720090745j:plain


1920(大正9)年 

夫婦は戸籍上の離婚をしています。

 

とは言うものの

夫婦の仲が決定的に悪くなってしまった、というわけではなく

 

その後もサキノは山頭火を経済的に支え続け

山頭火もちょくちょく「雅楽多」に泊まりに来たり……

という間柄が終生続いていきます。

(このあたりの二人の心情は、どんなもんだったんでしょうねぇ……)

 

サキノは「雅楽多」を営み続けながら

女手一つで健を育てあげました。

 

 

ま夜なかひとり飯あたゝめつ

涙をこぼす

f:id:TODAWARA:20210720092852j:plain

 

1923(大正12)年

東京で不安定な生活をしていた山頭火(41歳)

関東大震災に見舞われてしまいます。

 

f:id:TODAWARA:20210720133942j:plain

 

焼け出され、避難をしていたところを

社会主義者と疑われて憲兵に捕まり

 

巣鴨刑務所に拘置され

厳しい尋問を受ける羽目となってしまいました。

 

こうして

次から次へと襲い掛かって来る不幸に打ちのめされてしまった彼は

諸行無常……」

ということをつくづく実感するのでした。

 

 

f:id:TODAWARA:20210720101533j:plain

 

1924(大正13)年

 

熊本に戻った山頭火

酒に酔って進行中の電車を急停止させる

という事件を起こし

 

顔見知りの記者によって、熊本市内の曹洞宗法恩寺に連れていかれ

住職・望月義庵の元に預けられます。

 

これをきっかけにして

彼は禅の道へと入っていく事になりました。

 

法恩寺にて出家得度をし、名を「耕畝」とあらため

熊本市郊外にある観音堂の堂守となったのですが

 

1926(大正15)年

44歳にして観音堂を去り

行乞流転の旅に出ることを決意します。

 

※行乞…僧侶が鉢を持って各家を訪ねて回り、食べ物を貰う修行

 

大正十五年四月、

解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た。

 

 

 分け入っても分け入っても青い山

f:id:TODAWARA:20210716104134j:plain


山陰、四国、小豆島

山陽、北九州、宮崎などを行乞して歩き

 

旅先で詠んだ俳句を「層雲」に投稿し続けました。

 

しかしながら

煩悩を打ち破る境地までにはなかなか辿りつけず

 

昭和6年には

泥酔して留置所にぶちこまれたりしています……。

(この時、彼は熊本に一室を借り、半年余り自炊生活をしていました)

 

 

うしろすがたのしぐれてゆくか

f:id:TODAWARA:20210718091516j:plain

 

1932(昭和7)年

50歳になった山頭火は、行乞して歩き続けることに疲れを感じ

川端温泉(山口県)に庵を結ぼうと望んだのですが、それは叶わず

 

友人らの支援で山口市小郡の地に

「其中庵」を編み、そこに落ち着きます。

 

(この頃、句集「鉢の子」「草木塔」刊)

 

この其中庵を拠点として

彼はその後

福岡、広島、神戸、京都、名古屋、信州……と旅に出たのですが

 

信州で体を壊して発熱し、入院の後、其中庵に戻ってきます。

 

(句集「山行水行」刊)

 

1935(昭和10)年

精神状態が悪化した山頭火

カルモチン(催眠薬)を大量服用して自殺をはかるものの一命をとりとめ

 

死に場所を求めて

東へと旅立って行きました。

 

 

てふてふもつれつつかげひなた

f:id:TODAWARA:20210718121737j:plain


 岡山、広島、関西地方

鎌倉、伊豆、東京、山梨、

長野、新潟、東北、福井……

などなどの地を旅してまわり

俳句を作って歩きます。(旅の北限は平泉)

 

(この頃、句集「雑草風景」刊)

 

1937年(昭和12年)

55歳になった山頭火

 

息子の健やサキノを訪れたのちに

下関の材木商店に就職したのですが長続きせず

 

べろんべろんに酔っぱらた末に

無銭飲食をして山口警察署に留置されてしまいます。

 

(この年、句集「柿の葉」刊 )

 

──私はその日その日の生活にも困つゐる。食ふや食はずで昨日今日を送り迎へてゐる。

多分明日も──いや、死ぬるまではさうだろう。

だが私は毎日毎夜句を作つてゐる。飲み食ひしないでも句を作ることは怠らない。

いひかへると腹は空いてゐても句は出来るのである。

水の流れるやうに句心は湧いて溢れるのだ。

私にあつては生きるとは句作することである。

句作即生活だ。

 

山頭火の随筆「述懐」より

f:id:TODAWARA:20210718101042j:plain

 

彼が書いたこの文章は

また

次のように続けられています。

 

私の念願は二つ。ただ二つある。
ほんたうの自分の句を作りあげることがその一つ。

そして他の一つはころり往生である。

病んでも長く苦しまないで、あれこれと厄介をかけないで、めでたい死を遂げたいのである。

── 私は心臓麻痺か脳溢血で無造作に往生すると信じてゐる。

 

「述懐」より

f:id:TODAWARA:20210720140946j:plain

 

五・七・五という定型に収まっていない山頭火の句は

 一見、俳句らしくなく

ほとんど詩のようにも見えますよね。

 

鴉啼いたとて

誰も来てはくれない

f:id:TODAWARA:20210721212707j:plain

 

彼の句は

明治の終わり〜大正の初め頃に

正岡子規門下であった

河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が提唱した

「五・七・五の形にとらわれず心から湧きおこる自然なリズム(律動)で表現しよう」

という

自由律俳句の流れを汲んでいます。

 

山頭火の師匠的存在の

荻原井泉水(おぎわらせんせんすい)も、その流れにあり

 

井泉水の門下からは山頭火以外にも

「咳をしても一人」

などの句で知られる

尾崎放哉(ほうさい)なども輩出されているんですよ。

 

 

しぐれてぬれて

旅ごろもしぼつてはゆく

f:id:TODAWARA:20210716112740j:plain

 

1938(昭和13)年

其中庵が崩れて住めなくなってしまったため

山口市湯田温泉に四畳半一間の家屋を借り

「風来居」と名付けて住みました。

 

そして翌

1939(昭和14)年

近畿、東海、木曽などを旅してまわった後、四国に渡り

お遍路の途上で

愛媛県松山市に移り住むことに決めました。

 

松山市城北の御幸寺の境内にあった納屋を改造し

一草庵と名付けました。

 

(この年、句集「孤寒」刊)

 

 

今日のをはりのうつくしや落日

f:id:TODAWARA:20210718102111j:plain

 

1940年(昭和15年)

この年の4月、これまで折本(長く継ぎ合わせた紙を屏風のように折り畳んで作った昔の本)という形で出してきた句集を集成

一代句集として

「草木塔」を東京の八雲書林から刊行しました。

 

出来上がったその本を句友らに配り歩くため

四国、中国、九州を旅してまわった後

山頭火6月一草庵に帰ってきます。

 

(この年7月に句集「鴉」刊)

 

10月10日

一草庵句会が催されましたが

庵主の山頭火はその最中

べろべろに酔っぱらって隣室で横たわっていたそうです。

 

f:id:TODAWARA:20210705204853j:plain

 

彼がこのような状態になるのは、参加者は皆慣れっこになっている事なので

会はそのままお開きとなりました。

 

明くる10月11日の朝 ──── 

 

山頭火

冷たくなった姿で発見されました。

 

死因は脳溢血に引き続いての心臓麻痺……

 

享年58歳 ────

 

 

ほろほろほろびゆくわたくしの秋

f:id:TODAWARA:20210718122807j:plain

 

あまりにも辛すぎる不幸の連続や

どうにもままならない

自分の心のありようなど

 

迷い、苦しみ、もがきぬく中で

彼は自分という存在自分の人生そのもの

俳句や行乞といったものを通して

芸術として昇華させていったように感じます。

 

すぐれた俳句は──そのなかの僅かばかりをのぞいて──その作者の境涯を知らないでは十分に味はへないと思ふ、前書なしの句といふものはないともいへる、その前書きとはその作者の生活である、生活といふ前書のない俳句はありえない

 

昭和5年12月7日の行乞記より

 

彼はお世辞にも「立派な人」「悟った僧」だったとは言えませんでしたが

 少しでも悟りの境地に近づきたいと願い、悪戦苦闘している、弱い、等身大の人間だったからこそ

彼の句は、たくさんの人々に共感される部分があるのではないかと思います。

 

寒空とほく夢がちぎれてとぶやうに

f:id:TODAWARA:20210718124100j:plain

 

 山頭火の俳句は

一つ一つを取り出してみても

とても味わい深いものが多いのですが

 

「句集」という形で並べられている

複数の句を読んでいくと

 

その瞬間瞬間の

彼の視点、感情、息遣いなどを

今、同じように体験しているような……

彼がいたその空間が

今ここに再現され、広がっているような……

──── そんな感覚になってきます。

 

人生というのは

得てして思うようには行かないものですが

 

そんな中にも

時には、ささやかな喜びがあり

 

生の中に

苦しい、楽しい、嬉しい、悲しいが

隣り合わせに(同時に)存在している……

 

彼の句集を読んでみた後、私はそんな感慨を抱きました。

 

 

たたずめば

風わたる空のとほくとほく

 

f:id:TODAWARA:20210716105444j:plain

 


この記事の参考文献はこちら

ちくま文庫刊の

山頭火句集」(村上護編)です。

 

f:id:TODAWARA:20210722101048j:plain

 

 

 

 

関連記事のご案内

 

 

与謝野晶子と、その歌について

todawara.hatenablog.com

 

 

 

こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

 

f:id:TODAWARA:20210705210412j:plain


 

f:id:TODAWARA:20210704152145j:plain

 

 

f:id:TODAWARA:20210704152211j:plain