TODAWARABLOG

戸田蕨です。小説書いてます。よろしくお願いします。

藤原氏にまつわるエピソードが満載!平安時代の歴史物語「大鏡」のご紹介

今回は

藤原摂関家にまつわる権力闘争と栄華の歴史

紀伝体で鮮やかに描き出した歴史文学作品

大鏡のご紹介をいたします。

 

平安時代から室町時代にかけて成立した

「~鏡(かがみ)」という題の四つの歴史物語 (四鏡…しきょう)

大鏡」(おおかがみ)

「今鏡」(いまかがみ)

「水鏡」(みずかがみ)

「増鏡」(ますかがみ)

 

大鏡はその中でも一番古い物で

平安時代1025(万寿2)年以後、40~50年から90年くらいの間に成立したのではないかと考えられています。

 

記述された時代の範囲

文徳天皇850(嘉祥3)年から

後一条天皇1025(万寿2)年まで

14代 176年間となっております。

 

 

内容

京都の紫野にある雲林院という寺にて、菩提講が行われた時の事────

お坊さんの説教が始まるまでには、まだ大分時間がある様子……

 

そこで

参詣客の一人である大宅世継(おおやけのよつぎ)という190歳の老人

昔馴染みだという夏山繁樹(なつやまのしげき)という180歳の老人と二人で

大勢の参詣客を前に、歴代天皇や藤原摂関家にまつわるあれやこれやの昔話を披露しはじめた。

 

彼らの語る話に興味しんしんの若侍も加わって

老人たちは

天皇家や藤原家にまつわる権力闘争の物語や人々の性格や趣味嗜好など

様々なエピソードを、次から次へと語り出していくのである ────

────とまあ

そんな感じの内容になっております。

 

ところで

 

夏山繁樹って

現代でも普通にいそうな名前じゃないですか?

 

平安時代の180歳のお爺ちゃんと同じ名前だなんて

縁起が良いですね!

 

 

大鏡の中では

様々なお話が紹介されているのですが

その中でも

私が個人的に印象深かった話といいますと

 

菅原道真藤原時平の陰謀によって大宰府に左遷され

筑紫の配所で詠んだという、こちらの歌 

 

海ならず たたへる水のそこまでに

清き心は 月ぞ照らさむ

 

 

(月光は海どころかそれより深い水の底まで照らしてくれるのだ。

澄み切った潔白な私の心も、天は御照覧なさるであろう)

 


菅原道真と言えば

「こち吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」

の歌が有名ですが

この「海ならず……」の歌も、味わい深いですよねぇ……。

 

また、その他にも

 

藤原実資(藤原実頼の孫…祖父の養子となりトントン拍子に右大臣にまで出世)の娘が

かぐや姫という名前だったとか

 

村上天皇の女御安子(あんし… 藤原師輔の娘)が

やたらと気が強くてイジワルな性格だったりとか

 

藤原伊尹(これまさ)との出世争いに敗れた藤原朝成(あさひら)

恨みを募らせ、ついには悪霊となって

伊尹の子孫たちに祟るようになった……とか

 

能書家で三蹟 の一人として有名な藤原行成(伊尹の孫)も

その朝成の悪霊に付け狙われていて

そのストーキングしている様子が

なぜか道長の夢に出て来たりした……とか

 

「えっ!」

と驚いてしまうようなエピソードが満載で、大変に面白かったです。

 

強烈な性格の中宮・安子(あんし)さま


中でも

 

藤原道隆の三女にあたるお姫様(道長にとっては姪)のぶっ飛び具合

あまりにも強烈で信じられない位でしたので

その詳細は別途

こちらの記事にてご紹介しております。

 

todawara.hatenablog.com

 

 

藤原氏の栄華を讃える物語としては

これより少し前に栄花物語

編年体(起こった出来事を年代順に書くやり方)でつくられています。

 

一方大鏡

人物ごとのエピソードを中心に歴史を綴る

紀伝体というやり方でなされています。

 

栄花物語の作者が女性であろうと思われているのに対し

大鏡の作者は男性であろうと言われております。


その作者としては

 

かつては

藤原為業 (ためなり…平安時代後期の人、出家して寂念と名乗る)

藤原能信 (よしのぶ…平安中期の歌人藤原道長の四男)

藤原資国 (すけくに…平安時代中期の人、篳篥《ひちりき》の名手である藤原遠理の弟。堤中納言兼輔の曾孫)

などの説がとなえられていましたが

 

その後は

源道方 (みちかた…平安時代中期の人、「がむしゃら男」と謳われた藤原隆家の妻の兄弟)

源経信 (つねのぶ…源道方の子)

源俊明 (としあき平安時代中~後期の人・歌人)

源俊房 (としふさ…平安時代中~後期の人・能書家・藤原道長の孫)

源雅定 (まささだ…平安時代後期の人・歌人)

源顕房 (あきふさ…平安時代後期の人・歌人堀河天皇の外祖父。藤原道長の孫)

源雅実 (まさざね…源顕房の子)

など

色々な説があるようです。

 

 



関連記事のご案内

 

 

大鏡」中で明かされた藤原道隆三女のトンデモ振り!!

todawara.hatenablog.com

 

牛車はあんまり「まったり」した乗り物ではないようで…。

todawara.hatenablog.com

 

和泉式部日記」をカジュアルに解説いたします。

todawara.hatenablog.com

 

 

 

こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

 

 

”SF小説の父”が空想した恐ろしき未来世界!~H.Gウェルズ「タイムマシン」のご紹介。

今回はSF小説の始祖とも称され

「タイムマシン」という言葉の生みの親でもあるイギリス人作家

ハーバート・ジョージ・ウェルズ(1866-1946)が29歳の時に発表した小説

「タイムマシン」(1895年)のご紹介をいたします。

 

 

ウェルズ本人が1931年度版「タイムマシン」の序で書いている所によりますと

 

ジャーナリストの端くれとして、その日ぐらしに追われていた若い頃。

突然、記事が全く売れなくなってしまい

新規撒き直しを期する気持ちで、この小説に取り掛かったのだそうです。

 

当時、暮らしていたケント州セヴンオークスの下宿で

真夏の夜更けに、窓を開け放ちながら

一心不乱で原稿に取り組んでいる、若き日のウェルズ────

 

そんな彼に向かって

下宿のおばさんがしばしば、こんな言葉を投げつけて来ました。

 

「いつまでランプつけてんのよ。明るくって寝られやしないわよ!!」

 

そんなうるさい小言を耳に

彼の筆は非常にはかどったそうです。

 

 

この物語が発表された1895年明治28年

日本では樋口一葉が雑誌「文学界」たけくらべを連載していた年です。

 

日本に翻訳・紹介されたのは1913年(大正2年)

黒岩涙香が自身の主宰する新聞「萬朝報」(よろずちょうほう)紙上で

「八十万年後の社会」

というタイトルで連載発表しました。

 

それでは以下に

内容をざっくりとご紹介いたします。

 

 

時は19世紀末、場所はロンドン郊外、リッチモンドにある邸宅。

 

一室に医師や心理学者など、知識人の仲間達を集め

主人公のタイムトラヴェラー

新発明の装置・タイムマシンの試作品を披露していた。

 

一同の前で実際にそれを試運転し、装置を時間の彼方に飛ばせてみせたりしたのだが

残念ながら、その時には

誰もそれを本当の事だとは思わなかった。

 

 

その後のある日。

 

主人公宅でいつもの食事会が行われ、知人たちが集まって来たものの

肝心の主人公は、どういうわけか

食事の時間になっても姿を現さない。

 

一同が待ちあぐねている所へ、ようやく姿を現した主人公。

 

ところが、一体どうした事か

彼は傷だらけの泥まみれ。げっそりやつれ果てたズタボロな姿で、ヨレヨレになっていた。

 

 

 

彼は自作のタイムマシンに乗り

遠い遠い未来を旅して来て

今、どうにかこうにか、ようやっとこの時代に戻って来れた所だと話した。

 

 

彼が語る所によると

彼のマシンが到着(落下)したところは

80万2000年未来のロンドンだった。

 

その時代の気候は、今より暖かく

未来人たちは総じて小柄で華奢で優美な姿をしていて、子供のように無邪気。

果物を食べて生きる、完全なる菜食主義者だった。

 

 

しかし

やがて、主人公は気が付くのである。

 

この未来人たちには

好奇心というものがまるでない。

 

人類が完全に自然の困難を克服し、何不自由なく安楽に暮らせるようになってから

さらに長い長い年月を経て

 

人々は、熱意知的好奇心といったものを、完全に喪失してしまっていたのだ。

 

ところが実は……

 

この時代には人類は

二種類に分かれて進化していたのである。

 

主人公が今まで見ていた、優美で可憐で柔弱な人々は

かつての支配階級層の子孫たちで

地上に暮らすイーロイ人

 

一方

 

かつての労働者階級の子孫たちは

地下深くに潜って

これまた独自の進化を遂げていた。

 

イーロイ人よりは、知性も勤勉性も持ち合わせてはいるものの

薄気味悪い生白さで、化け物のような醜怪な姿に進化した、彼らモーロック人たちは

 

夜な夜な地上に這いあがって来ては

イーロイ人達を捉えて喰らう

人喰い人種と化していたのである……

 

 

 

────と

こんな感じの話となっております。

 

 

平和で安楽な状態に適応し過ぎたことにより

すっかり腑抜けになってしまったイーロイ人ですが

 

情報技術の発展やAIの登場により

ものごとを深く考える習慣の無くなり始めた我々現代人は

すでに、彼らのようになる一歩を踏み出してしまっているのではないか

ちょっと怖くなってしまいますね……。

 

いや~、それにしても

明治時代に「タイムマシン」なんて言葉が生まれていたなんて、ビックリです。

 

人間が

「こんなものがあったらいいな」

と空想したものって

数年後、数十年後に実現されてる場合が多いですけれど

タイムマシンの実現性って、どうなんでしょう……?

 

私個人の空想的見解なんですが

こんにちUFOとして見られているものの中には

未来人が乗ったタイムマシンも混ざっているんじゃないのかな……?

 

 

さて

ところで。

 

時間旅行を可能にする装置に

「タイムマシン」

という名前を付けたのはウェルズなのですが

 

実は、時間旅行を可能にする装置自体

スペインの作家エンリケガスパール・イ・リンバウ(1842-1902)

「タイムマシン」に先立つこと8年前

小説アナクロノペテー」(1887年)

にて登場させたのが元祖となっております。(^^;)

 

(1887年は明治20年。日本ではそれまで観賞用とされていたトマトが食用として栽培されるようになった頃)

 


以下にご紹介しますのは

ウェルズが1933年「タイムマシン」を振り返って

自らの小説技法について語っている言葉です。

 

読者が空想譚を心おきなく楽しむ手助けに、作者はできる限り工夫を凝らして、読者が知らず知らずのうちに不可能な仮説を受容するように仕向けなくてはならない。

もっともらしい説明を重ねて、なるほどそんな事もあろうかという了解を取りつけ、その錯覚が持続している間に話を先へ運ぶのである。

私の作品に多少とも新味があると受け取られたのはそのせいだ。

従来、冒険小説は別として、ファンタジーの要素は魔法頼みが普通だったが、そこで私は考えた。

魔法に代えて科学の言葉を巧みに使ったら、もっと奥深く大仕掛けな話が出来るのではなかろうか……

 

小説ばかりではなく、漫画やドラマや映画など

物語を創る人全般にとって

非常に示唆に富んだ言葉なのではないでしょうか。(^_^)

 

 

 

 

 

 

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ウェルズと並ぶ「SFの父」!ヴェルヌ「八十日間世界一周」のご紹介。

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ロボットの元祖はここから。チャペック「ロボット」のご紹介。

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人間による芸術活動は、AIに取って代わられてしまうのでしょうか?

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民間航空機パイロットは、結構UFO見てるらしいですよ!

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こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

 

 

気の毒なガネーシャさん~首を刎ねられ牙を折られ……

先日

「よくわかるヒンドゥー教(瓜生中著 角川ソフィア文庫刊)

という本を読みました。

 

 

ヒンドゥー教の成り立ちですとか

聖典(ヴェーダ)のこと

 

有名な叙事詩

マハーバーラタ

(パーンダヴァ5王子VS従兄弟のカウラヴァ悪玉王子100人との戦い)

ラーマーヤナ

(ラーマ王子が悪魔に攫われた妻シーター姫を奪還する話)

のことなどが

わかりやすく解説されていて、大変ためになる一冊でした。(^_^)

 

 

ここでは

世界創造神ブラフマー

世界維持の神ヴィシュヌを始めとして

 

愛の神カーマ神猿ハヌマーンなど

様々なヒンドゥー神様たちも紹介されているのですが

 

その中でも

知恵の神ガネーシャさんの、いささか気の毒過ぎるエピソード

が非常に印象に残りましたので

 

今回はその辺を絡めながら

ガネーシャさんのご紹介をしたいと思います。

 

 

ガネーシャ

シヴァ神とその妃パールヴァティーの間に生まれた子供です。

 

お父さんのシヴァ

ヒンドゥー教においては

創造神ブラフマー、世界維持の神ヴィシュヌとともに

中心的かつ重要三神として並び称される存在で

 

超ワイルド破壊神として

有名かつ大人気の存在です。

そして

お母さんのパールヴァティー

 

ヒマラヤ山脈の神ヒマヴァットの娘

母性愛優しさの象徴とされる

金色の肌の美しい女神様です。

 

彼女はシヴァの最初の妻・ティーの生まれ変わりだともいわれています。

 

この父と母とを同じくする子供(ガネーシャ)には

軍神スカンダ(韋駄天)がいます。

 

 

ある日の事です。

 

お母さんのパールヴァティーが沐浴をする時に

「誰かに覗かれないように、ちゃんと見張りしててね ♥」

ガネーシャに命じました。

 

彼が見張りをしていると

お父さんのシヴァが帰って来て、沐浴場に入って行こうとしました。

 

 



ガネーシャが必死に彼の入室を阻んだところ

彼を我が子だと気が付かなかったシヴァは怒り狂ってしまい

 

いきなり彼の首をちょん切って

ブンッ!

と遠くに投げ捨ててしまいました。

 

その後パールヴァティーから

「彼は息子のガネーシャよ!」(ノД`)・゜・。

と聞かされたシヴァは (@_@;)

 

象の首を切り落として持ち帰り

ガネーシャの頭として

ポンッ!

とくっつけ、彼を復活させてあげました。

 

こうして

ガネーシャは象の頭を持つようになったんだそうですよ。

 

 

ガネーシャの災難物語

もう一つあります。

 

シヴァがカイラーサ山で昼寝をしている時のこと。

聖仙のパラシュラーマ(世界維持神ヴィシュヌの化身で、シヴァの直弟子)が面会にやってきました。

 

「父上の眠りを妨げたらいかん」

と思ったガネーシャが彼を阻止した所

 

ムカッ!

と来たパラシュラーマが

いきなり斧を投げつけ

 

それがガネーシャ右の牙

ガキッ!

と直撃。

 

牙がポロッ

欠けてしまいました……。(T_T)

 

欠けてますねぇ……。


また

こちらの本には書かれていなかったのですが

 

「ブラフマヴァイヴァルタ・プラーナ」には

彼が象頭になったエピソードの別バージョンとして

こんな災難話が書かれているそうです。

 

 

パールヴァティーガネーシャの誕生を祝うパーティーを開いた時のことです。

 

土星(凶星)の神であるシャニ

最初、招待を断ったのですが

「是非来てくださいよ~」

と言われたので出席することにしました。

 

───ところが

 

シャニに見つめられた途端

ガネーシャの頭は───

なんと

灰になってしまいました……

 

 

そこで

ヴィシュヌが急遽、かわりに白ゾウの首を持ち帰り

それを彼の首に挿げ替えた───という話です。

 



いやあ……

生れた直後から色々と気の毒なほどに

災難続きですねえ……。(^^;)

 

そんなガネーシャさんですが

聖仙ヴィヤーサが語るマハーバーラタを筆記し完成させたことから

 

学問の神

そして

商売繁盛の神

として人々から篤く信仰されています。

 

 

ガネーシャ仏教に取り入れられたのちには

歓喜天(かんぎてん)

大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)

と漢訳され

 

日本では中世以後

商売繁盛の神

「聖天(しょうてん)様」

として信仰されるようになりました。

 

日本における聖天様の像

二体の象頭人

ヒシッ ♥

ハグし合っている姿というのが一般的です。

 

 

これは

ガネーシャが父シヴァ怒りを

抱いて鎮めた

というインド神話に由来しています。

 

そして

LOVEを感じさせるその姿から

いつしか聖天様

遊郭の経営者などに信仰されるようになっていきました。

東京の浅草には

待乳山聖天(まつちやましょうでん)

というお寺がありますが

 

ここの西側には江戸時代

吉原の遊郭がありました。

 

 

この待乳山聖天

推古天皇の時代(在位593~628年)

十一面観音の化身ともされる聖天様を祀ったものです。

 

浅草寺(せんそうじ)を創立したメンバーの内の一人

土師真中知(はじのまつち) 飛鳥時代の官吏・中知(なかとも)ともいう

という人の館があった丘の上に建てられました。

 

江戸時代になり

聖天信仰が盛んになると同時に

 

二体でハグし合っている聖天様の像に

LOVE&SEXYなイメージが加味され

 

「まつち」

「待乳」の字が

当てられるようになったんだそうです。

 

……しかし

乳を待つって……(-_-;)

 

 

 

 

聖天様大根が大好物。

ということで

交差させた二本の大根がシンボルマークのように描かれ

宝前には大根がお供えされます。

 

インドには大根を持つガネーシャ───っていうのもあるそうですよ。

 

 

大根の持つ解毒作用が

心身を清浄にさせてくれるという

聖天様を象徴しているんだそうです。

 


ガネーシャさん(聖天様)って

頭を切られたり

牙を折られたりと

結構ひどい目に遭っているけれど

 

なんとなく

ホンワカとして福々しい

ユーモラスな感じがありますよね。

 

 

最後に

 

ヒンドゥー教の神様たちは

様々な動物たちを乗り物(ヴァーハナ)として使っています。

 

シヴァの乗り物は

ヴィシュヌの乗り物は神鳥ガルダ(迦楼羅)

といった感じで。

 

ところで

ガネーシャの乗り物って

一体、だと思いますか?

 

 

答えは

 

なんと

ネズミなんですよ。(^^;)

 

「潰されるって!!!!」

 

 

 

 

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こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

 



ダシール・ハメット「マルタの鷹」~ハードボイルドは男の美学!

今回は

アメリカのハードボイルド・ミステリー作家

ダシール・ハメット(1894-1961)1930年の作品

「マルタの鷹」

のご紹介をいたします。

 

 

 

内容をかいつまんでいいますと、こんな感じになります。(ネタバレ無し)

 

-----------------------

 

主人公サム・スペードは女好きでニヒルなサンフランシスコの私立探偵。

 

彼の元に美人の依頼人ブリジッド・オーショーネシーがやってきて、ある男の尾行を依頼した。

 

サムと共に働く相棒のマイルズ・アーチャー(※彼も大の女好き)が

「よしきた」

とばかりにそれを請け負うのだが

その晩に彼は

あっけなく射殺されてしまった。

 

相棒を殺したのは一体誰なのか……?

 

この事件に警察が動き出す中

間もなく第二の殺人事件が起こる。

 

さらに、ブリジッド・オーショーネシーとサムの身辺に、窺うように現れる不審な若い男……。

 

やがて新たなる依頼人(※うさんくさい男)が現れ

「黒い鷹の彫像を取り戻す手伝いをしてほしい」

というのだが ───

 

いつしか事件は

ブリジッドとサムを大きく巻き込んで

とてつもないお宝であった鷹の像をめぐる、命懸けの争奪戦となっていく───

 

-----------------------

 

─── と

そんな感じの物語なのですが

 

主人公のサムは、依頼人ブリジッドとの間に

一脈の恋愛感情みたいなものが芽生えてはいるのですが

 

証言を二転三転させ、手の内を全て明かし切らない彼女に対しては

どうしても100%は信じ切れないような所があるんです。

 

このブリジッドが

果たして聖女なのか

 

 

それとも、本当は

とてつもない悪女なのか

 

容易に掴み得ない───それゆえに、事件の全貌もなかなか明らかにならない───

そんな所がミステリアスで面白かったですね。

 

 

作者のダシール・ハメット

1894(明治27)年

メリーランド州セント・メリーズ郡に生れました。

 

家が貧しかったために13歳で学校を中退

少年時代は新聞売りなど

いくつもの職を転々としたそうです。

 

1915年 21歳の時から

全米各地に事務所を置いていたピンカートン探偵社に入り

探偵として働きはじめました。

 

第一次大戦は探偵業を一時休職して

陸軍で働いたのですが

結核を患い入院。

 

そこで出会った看護婦ジョゼフィン・アンナ・ドーランとのちに結婚し、子供をもうけます。

(「マルタの鷹」の扉には、「ジョウス(ジョセフィン)に捧ぐ」と、彼女の名が書かれてあります)

 

探偵業を退いた

1922年 (28歳)から

雑誌向けに短編推理小説を書きはじめました。

 

なんでも彼は、当時流行していた探偵小説を読んでみて

「なんだ、所詮は空想じゃないか。

俺の方が圧倒的にリアルな探偵小説が書けるぜ」

と思ったために、小説家になったんだそうですよ。

 

 

結核を患っていた彼は

パルプ・ライターとして大活躍───とは言っても

血を吐きながらの執筆だったそうです。(*_*;))

 

1929年(35歳)の時に、雑誌『ブラック・マスク』で連載された「マルタの鷹」

ハメットの代表作とされ

1931年(37歳)の時に著した「ガラスの鍵」とともに高い評価を得ています。

 

作家として絶好調時代を迎えた彼は

女性と浮名を流すようになり

作家(音楽家)のネル・マーティンと付き合ったりしたのですが

 

どういうわけか

1934年(40歳)以後

突如としてスランプに陥ってしまい

全く作品が書けなくなってしまいました……。

 

(とはいえ、これまでの作品の印税や映画化権のおかげで収入はたんまり……)

 

 

1938年(44歳)に、妻と正式に離婚

 

その後の彼は

女流劇作家のリリアン・ヘルマンと共に過ごすようになります。

 

貧しかった少年時代や

社会の暗黒面に触れることの多かった探偵時代を通じて

社会のありように対し、色々と思う所があったのでしょうか

 

いつの間にか左翼活動にのめりこむようになっていた彼は

1937年(43歳)の時に

アメリ共産党に参加しています。

 

第二次世界大戦には

陸軍に志願してアリューシャン列島で従軍したりしていましたが

 

戦後の

1947年(53歳)の時には

急進派市民会議の発起人になっています。

 

 

 

ところが

 

まもなく冷戦が始まると

マッカーシズムによる赤狩り(共産勢力排除)の嵐が、全米中に吹き荒れはじめたのです。

 

アメリカ下院非米活動委員会

大衆への影響力の大きいハリウッドに狙いをつけ

 

映画業界人たちに向けて

共産主義者密告して

協力した者は無罪放免

拒否した者はブラックリスト入りで

職場を追放

と言い渡しました。

 

1951年(57歳)

査問会に召喚されるも

断固証言を拒否したダシール・ハメット

法廷侮辱罪に問われ

6か月間の服役に処せられてしまいました。

 

 

出所後の1952年にも再び召喚されましたが

またしても証言拒否

この時はなんとか投獄は免れました。

 

この時期の彼は

世間からまるで「非国民」のような扱いを受け

著作物は焚書の憂き目に遭い

 

所得税滞納との名目で財産も差し押さえられ

経済的にひどく困窮させられたそうです……。

 

そんな調子で

1950年代はまるで隠者のような生活を送り

 

1961年 ニューヨークの病院で肺癌のため死去しました。享年66歳。

 

 

 

 

 

「マルタの鷹」につけられた序文によりますと

登場人物たちにはそれぞれ、実在のモデルがいるそうです。

 

でも

主人公のサム・スペードだけにはモデルがいないんです。

 

サム・スペードにはモデルがいない。

私と同じ釜の飯を食った探偵たちの多くがかくありたいと願った男、少なからぬ数の探偵たちが時にうぬぼれてそうあり得たと思いこんだ男、という意味で、スペードは夢想の男(ドリーム・マン)なのである。

 

(中略)

 

彼は、いかなる状況も身をもってくぐりぬけ、犯罪者であろうと罪のない傍観者であろうと、はたまた依頼人であろうと、かかわりをもった相手に打ち勝つことのできるハードな策士であろうと望んでいる男なのである。

 

 

このサム・スペードにこめた思いといい

彼自身の後半生で

全財産を失おうとも、他人を陥れるような証言を断固拒否した姿勢といい

 

「たやすく屈服したりしないぜ!」

っていう

生き方に対する美学が感じられますよね。

 

 

「マルタの鷹」の映画化では

ハンフリー・ボガードが主演した1941年の作品が有名です。

 

私の個人的な思い入れと言えば

 

サディスティック・ミカ・バンド

ダシール・ハメット&ポップコーン」

っていう曲が

スタイリッシュでめっちゃカッコ良くて、大好きなんですよ!

 

皆さんも、良かったらぜひ聴いてみて下さい。(^_^)

 

 

 

 

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沁みる名作!ウィリアム・サローヤン「ヒューマン・コメディ」のご紹介

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ギラギラ!スコット・フィッツジェラルド華麗なるギャツビー」のご紹介

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こちらは私の本になります。よろしくお願いいたします。

 

 

 

「来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに……」藤原定家の歌に因まれた悲しい恋の物語。

先日、こちらの

「新版 百人一首(島津忠夫訳注)という本を読んだ折

 

撰者・藤原定家の歌の解説で

「ほほぉ……」

と感じた所がありましたので

 

今回はそのことについて書いてみます。

 

 

中納言 藤原定家(1162-1241)の歌は

百人一首第97番目にあります。

 

 

 

来ぬ人を 松帆の浦の夕なぎに

焼くや藻塩の 身もこがれつつ

 

 

どんなに待っても来ぬ人を待ち

松帆の浦の 夕凪の浜で

焼かれる藻塩みたいに

身も 心も

恋に焦がれて 苦しい私 ──

 

 

「松帆の浦」というのは

兵庫県淡路島の最北部にある海岸

 

「藻塩」というのは

海藻などに海水をかけて塩分を多く含ませたものを焼いて、それを水に溶かし、

そのうわずみを煮詰めてつくる塩のことです。

 

松帆の浦は古来、製塩が盛んな土地で

朝には藻刈り、夕方には藻焼きの光景が見られていたそうです。

 

 

藻塩には

海藻に含まれる、ヨードをはじめ、カルシウムやマグネシウムなどのミネラルがたっぷり含まれている

───ということで

味はまろやか、健康にも良いんだそうですよ!

 

 

「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに……」

という

定家の、この歌は

 

百人一首のほか

「定家百番自歌合」にも「新勅撰集」(定家撰)にも入れられているほどの

定家の超自信作なのですが

 

実は

万葉集940番目にある

笠金村(かさのかなむら)が作った長歌インスピレーションを受けているそうです。

 

こちらがその笠金村の歌。

 

 

名寸隅(なきすみ)の 舟瀬ゆ見ゆる

淡路島 松帆の浦に

朝なぎに 玉藻刈りつつ

夕なぎに 藻塩焼きつつ

海人(あま)娘女(をとめ)

ありとは聞けど

見に行かむ よしのなければ

ますらをの 心はなしに

たわや女(め)の 思ひたわみて

た廻(もとほ)り

我(あ)れはぞ 恋ふる

舟楫をなみ

 

 

名寸隅(なきすみ)の船着き場から見える

淡路島松帆の浦

 

朝凪どきには玉藻を刈って

夕凪どきには藻塩を焼いてる

海人(あま)の乙女がいるんだそうだが

 

見に行く手立ても無いものだから

男らしい勇気もなくて

なよなよ女々しく挫けちまって

ぐるぐると迷ってばかり。

 

私はただただ恋してる。

舟も無ければ楫も無い。

 

 

なんとなく、金村のこの歌は

おとぼけ風味というか

コミカルな印象を受けるのですが

 

一方

定家の歌の方はぐっとシリアスな感じ。

 

 

さて

 

定家の「来ぬ人を……」の歌にインスパイアされて

 

今度は中世以後

連歌師たちの間でこの歌を元にした

悲恋の物語が生まれたんだそうです。

 

江戸時代の国学者

平間長雅(ちょうが)

その著書百人一首講座秘注」の中で

次のような物語を紹介しています。

 

 

昔、淡路の国と明石の浦に

「ゆくゆくは夫婦になろう」

と言い交わし合っている男女があった。

 

けれども、一方には主君があったので、二人は思うように逢うことが出来ないでいた。

 

ある時、女が男に言った。

「大丈夫だ、っていう時には、合図として煙を立てますわね」

 

このようにして約束していたのだが

どういうわけか

ある時、女が煙を立てたのに男が来ない時があった。

 

もしかして、あの人は心変わりしてしまったのかしら……

 

疑心に駆られた女は嘆き悲しみ、

ついには海に入って死んでしまった。

 

その後、男がやって来て

事の顛末を聞き、激しく悲しんだという ───

 

 

来ぬ人を

松帆の浦の夕なぎに

焼くや藻塩の

身もこがれつつ

 

 

定家の歌の後から作られた物語ですけれど

こう、重ね合わせてみると

一層ロマンチックで味わい深い感じがしますよね……。

 

笠金村の長歌と言い

藤原定家の歌と言い

 

良い作品というものは

受け手の想像力を刺激して

二次創作、三次創作を生み出させる力がある、ってことなんですね。

 

 

 

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「音にきく たかしの浜の あだ波は」~女流歌人・紀伊のビックリ話

先日

角川ソフィア文庫から出ている

「新版 百人一首」(島津忠夫訳注)

という

百人一首の解説本を読んだのですが

 

この中で

ちょっとビックリしてしまうような話がありましたので

 

今回はそのことについて、書いてみようと思います。

 

小倉百人一首72番目

 

音にきく たかしの浜のあだ波は

かけじや袖の ぬれもこそすれ

 

という

祐子内親王紀伊

「ゆうしないしんのうけの・きい

祐子内親王にお仕えしている紀伊───という女性が詠んだ歌があります。

 

 

紀伊という人に関しては

今の所まだまだ不明な部分が多く

生没年も血筋もよくわかっていないのですが

 

一説によると

 

は祐子内親王家に仕えた小弁

藤原師長

彼女自身は

堀河院の乳母だった典侍紀伊三位師子である」

 

ですとか

 

「いやいや、彼女は平経方だよ」

 

だとか

 

「いやいやいや源忠重です」

 

はたまた

 

「違うって~ホントは藤原重経(素意)だって」

 

かと思うと、今度は

 

「惜しい!ホントは藤原重経(素意)なの!」

 

やら何やら

 

色々な説が囁かれているそうです。

 

 

───ともあれ。

 

彼女は

朱雀天皇(在位1036-1045)の第一皇女である

祐子内親王というお姫様にお仕えし

 

周囲の人々からは

一宮紀伊と呼ばれたりもしていたそうです。

 

優れた歌人として知られていた彼女の歌は

「後拾遺集以下の勅撰集31首も採用されていたり

「堀河百首」採録されたりもしています。

 

家集は「祐子内親王紀伊集」

 

 

そんな紀伊さんの

百人一首に入れられた

「音にきく……」という歌は

 

元々は

「金葉集(金葉和歌集)」

という勅撰集の中にあります。

 

そこには

この歌にまつわる

こんなエピソードが書かれています。

 

 

時は堀河天皇の御代───

 

康和4(1102)年5月2日7日

宮中で

艶書合(けそうぶみあわせ)

という和歌のイベントが行われました。

堀河天皇

和歌の上手な公卿女房達を集めて

ラブレター(懸想文)形式の歌を詠ませる和歌大会を催したのです。

 

ルールとしては

 

まず前度として

男性から女性求愛の歌を詠み

女性から男性へ、その返事の歌を詠みます。

 

そして後度

女性から男性恨みの歌を詠み

男性から女性へ、その返事を詠む

 

ということになっていました。

 

そこで前度として

 

時の中納言藤原俊忠(29歳くらい)が

こんな歌を詠んで寄越しました。

 

人しれぬ 思ひありその浦風に

波のよるこそ いはまほしけれ

 

 

( 私には人知れぬ恋の想いがあります。

荒磯の浦風に波が寄る……

そんな夜にこそ、あなたにこの想いを打ち明けたい! )

 

 

それに対する

紀伊返しの歌

 

百人一首の72番目に入れられている

この歌となります。

 

音にきく たかしの浜の あだ波は

かけじや袖の ぬれもこそすれ

 

 

(有名な高師浜のいたずら波になど、

掛からないように用心しなきゃ。

 

──浮気者で評判の、あなたの言葉など、気に掛けませんことよ。

 

──だって、きっと、涙で袖を濡らす羽目になるにちがいありませんもの……)

 

 

彼らは「実際に恋愛している」というわけでは無く

歌の上での疑似恋愛ってわけなんですが

 

上流階級の男女が集い合い

恋愛シミュレーションしながら

「キャッキャ♡」

「ウフフ♡」

とはしゃぎ合っている様が伝わってくるようで

 

なんだか

「楽しそうだな、おい!」ってな感じですよね。

 

───ですが……

 

 

───実は

この時の紀伊さん

 

御年70歳ぐらい

だったのではないかと、推定されているそうなんです……。(@_@;)

 

実際の所

30歳前後の中納言俊忠とは

親子(か、それ以上)くらいに歳が離れていたという……。

 

現代でこそ、それくらいな年でも

エイジレスで美魔女な方もおられますけど

 

なにせ平安時代ですからねえ……。

 

実はそれ以外にも

 

この歌合せには

筑前さん

という女性も参加していたようなのですが

 

彼女にいたっては、なんと

御年90歳近くだったそうですよ!

 

いやはや、なんとも

この歌合せ……

 

いくらなんでも

女性陣の年齢層高過ぎだろ!!

って感じですよね……。(^^;)

 

 

 

 

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「ロビンソン漂流記」~この世をサバイバルするための知恵が満載!

今回は、イギリスの作家

ダニエル・デフォー(1660-1731)

が59歳にして初めて書いた小説

「ロビンソン漂流記」(1719年刊)

をご紹介いたします。

 

 

《内容》

 

中流家庭に生まれ、それなりの商才や経営の才に恵まれながらも

冒険心があまりにも強すぎて、安定した境遇に落ち着くことができないロビンソン・クルーソー青年。

 

そのせいでこれまでにも何度も手痛い目にあった───にもかかわらず

再び性懲りもなく危険な航海に乗り出し

挙句の果てに

難破して無人島に漂着

 

そこで二十数年にも及ぶ

孤独なサバイバル生活を送り

 

五十代半ばにして英国船をつかまえ

ようやく島を後にする

(英国船に乗るまでも、ヨーロッパ世界に戻ってからもハラハラものの冒険の連続)

───というお話です。

 

 

もし自分が、たった一人

どこか知らない島に漂着したとしたら?

 

たとえどんなに好奇心が強く

人一倍の度胸を誇っていたとしても

すぐに

「探検だ~」

なんてフラフラ無防備に出歩いちゃダメですよ!

 

獰猛な野獣がいるかもしれない!

 

足場や頭上が危険な所かもしれない!

 

猛毒植物が生えているかもしれない!

 

常に「~かもしれない」を心に留めて

ありとあらゆる危険を想定して行動しないといけません。

(車の運転と同じです)

 

「かもしれない運転」で、常に安全を心がけましょう。

 

また

 

もし、が手に入ったとしても

舟さえあれば脱出できるってわけじゃないんですよ。

 

季節や時間帯によって刻々と変わりゆく潮流だとか

海底にある岩礁の位置

なんてものも

ちゃんと抑えておかないと

 

海に乗り出した途端

今度こそ本当に

一巻の終わりとなってしまいます!

 

そして

 

大きな船が近くに来たからと言って

それが必ずしも救いになるとも限らないんです

 

だって

 

それに乗っているのが

善人だとは限りませんから……。

 

 

ロビンソンもそうなんですけど

 

冒険家って実際の所

ものすご~く慎重です。

 

危険で壮大な大冒険を企てたりはしますけど

その実行にあたっては

これでもかってほど、細心の用心を重ねます。

 

だって、そうでないと

すぐに死んでしまって

冒険はそこで終了してしまいますから……。

 

何の危険があるはずもないのに、危険の予感が生じた時は、我々は決してそれを軽視してはならない。

そういう経験は物事を少し弁えている人間であるならば、誰にでもあることと思うが、それがある一つの、我々が知らない世界からの知らせであり、何等かの霊的な存在の呼びかけであることを疑う事はできない。

 

「ロビンソン漂流記」より

 

 

ロビンソン青年

孤島でのサバイバル生活を

二十年以上にわたって地道に続け

 

難破船から逃れた(の子孫)

そして

現地で捕まえたオウム家族として

 

穏やかで満ち足りた生活を送る

ロビンソンおじさんになりました。

(人間とは一切交流しなくても、犬と猫とオウムがいるから全然寂しくないそうです)

 

実は、猫は殖え過ぎてしまったために、ちょっと悲惨な事になったりもしたんですが……。

 

船から持ち出した聖書を心の拠り所とし

自暴自棄に陥らず

神の摂理をひたすら信じ───

 

という

精神的な所も

とても深いものがあって、考えさせられる所が多かったのですが

 

生き延びるためには

何をどうしたら良いのか

 

という

実際的な技術面

非常にたくさん、こと細かに書かれていますので

 

これ、本当にサバイバル生活を送るようになった時には、かなり参考になるんじゃないですかね!?

 

 

あまりにも真に迫った内容だったので

絶対に

作者の実体験でしょ!

思ってしまったのですが 

 

この物語は

実話ではなくフィクションです。

 

ダニエル・デフォー(1660-1731) ロンドンの新興ブルジョア階級出身。メリヤス商や煉瓦製造業など様々な仕事につき、大もうけしたり破産したりしました。政治好きで血の気の多そうな性格。ジャーナリストとして活躍。

 

とはいっても

 

全くの空想、というわけではなく

色々な人の無人島漂着体験談を素として作られた物語なんだそうです。

 

素材となった漂流体験者の中でも

スコットランド生まれの船乗り

アレキサンダー・セルカーク(1676-1721)

は殊に有名で

 

現在

ロビンソン・クルーソーのモデル」

として、よく語られている存在です。

 

(セルカークが無人島で4年間を過ごした体験談は本書「ロビンソン漂流記」より7年前になる1712年に発表されています)

 

 

「ロビンソン漂流記」の舞台となっている

こちらのモデルは

 

カリブ海に浮かんでいる

トバゴ島(トリニダード・トバゴ)

という説が有力なのですが

 

アレキサンダー・セルカークがサバイバル生活を送った

チリ沖合の島(ファン・フェルナンデス諸島で2番目に大きな島)

マサティエラ島という島が

 

1966年、チリ政府によって

ロビンソン・クルーソーと名付けられています。(観光のため)

 

 

この本が刊行された1719年

日本で言えば

江戸時代の享保4年となります。

 

まだアメリカが建国される、ずっと以前のお話です。

(アメリカ独立宣言は1776年)

 

初版の正式タイトルは以下の通り。

 

「自分以外の全員が犠牲になった難破で岸辺に投げ出され、アメリカの浜辺、オルーノクという大河の河口近くの無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に海賊船に助けられたヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述」

(The Life and Strange Surprizing Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner:Who lived Eight and Twenty Years, all alone in an un‐inhabited Island on the Coast of America, near the Mouth of the Great River of Oroonoque;Having been cast on Shore by Shipwreck, wherein all the Men perished but himself. With An Account how he was at last as strangely deliver’d by Pyrates)

 

───って

長すぎるだろ!

ラノベか!!

 

 

この物語が世に出てから7年後の

1726年

同時代人ジョナサン・スウィフト(1667-1745)による

ガリヴァー旅行記

が出版されました。

 

こちらの正式な題名タイトルは

 

「船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァーによる、世界の諸僻地への旅行記四篇」

Travels into Several Remote Nations of the World, in Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, and then a Captain of Several Ships

 

ジョナサン・スウィフト(1667-1745) アイルランドのダブリン生まれ。性格はナカナカ難しそう。

 

スウィフトデフォーより7つ年下なんですが

二人とも血の気が多い上に政治好き

代表作となる小説の骨組みも

 

冒険好きな主人公が航海の旅に乗り出し

船が遭難した挙句

見知らぬ場所に一人で漂着~。

非常に似たところがあります。

 

しかしながら

実録風

「ロビンソン漂流記」

奇想天外

ガリヴァー旅行記

 

内容は極めて対照的

 

皆さまはどちらがお好みでしょうか?(^_^)

(私は、物語はどちらも好きですが、お友達になるならデフォーがいいです)

 

そして、もう一つ

対照的なことと言えば

 

同じ島国でありながら

ガンガン海外に進出しまくっていた

この当時のイギリス

鎖国政策を敷いていた

当時の日本

 

これもまた

非常に対照的で、面白いですよね。

 

 

 

 

 

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